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小澤メモ|SENTIMENTAL JOURNEYMAN|おっさんの旅。

29 おっさんの旅  長崎編 かくれ切支丹の里。

外海、遠藤周作文学館。
長崎の中心地から車で山をひとつ越えるようにして1時間ちょっといったところ。海に突き出た、夏草が生い茂った崖の上。そこに遠藤周作文学館はある。そこからさらに細くて急な坂を下っていくと、外海と呼ばれる海に出る。正確な地名は別にあるはずだが、そのときは気にもしなかった。感覚的にいうならば、山の緑も海や空の青も、目の前にあるすべてのものの色が濃かった。本来あるそのままの色というか。そう感じた。外海一帯は、遠藤周作さんの小説『沈黙』に出会えたときから、いつかは必ず行ってみたいと思っていた場所だった。遠藤周作文学館以外にアテはなかったけれど、とにかく、その一帯に行かなくてはならないと思っていた。

『沈黙』の世界。
遠藤周作文学館では、当時、東京の書店ではなかなか見つけることができなくなった、遠藤周作さんの過去の著作がすべて揃っていた。もちろん買った。旅の途中で荷物になるとも思わなかった。そして、なぜ文学館がこの場所に建てられたかも知ることができた。『沈黙』を読み進めていくうちに胸に浮かんでくる、あの濃く沈んだ海の色や静かだけど深すぎる音がここにはあった。外海は、ごつごつとした岩場で、真夏だというのに誰もいなかった。おそらく、遠藤周作さんはこの地を幾度となく訪れたのだろう。そして、物語のはじまりの場所はここしかないと確信したに違いない。残されたオラショ(祈りの本)が、ここがかくれ切支丹の里だということを深く静かに伝えている。この場所を訪れることができて、喜びとか嬉しいとか、そういう明るいものではないけれど、すごく感動した。その後、マーチン・スコセッシ監督が映画『沈黙』を製作したけれど、ほとんどが国外ロケだったという噂もあってか、外海の本当の色が感じられなかったのは少し残念だった。

長崎のローカルフード、トルコライスとか。
この旅では、長崎市の隣りの諫早市にある友人の実家にお世話になった。友人の帰省にのこのこついて行って、父母水入らずの団欒にお邪魔してしまった。そのおかげで、いろいろとゆっくりと行きたかった場所に行くことができたのだけれど。
「あっというまでしたね。もう明日はお帰りになるの?」。「そうです。お世話になりました」。「こっちは暑かったでしょう?」。「とても暑かったです。あと、ここが元祖っていう食べ物がたくさんあって、毎日お腹いっぱいになりました」。「茶碗蒸しの吉宗にちゃんぽんと皿うどんの四海楼とかね。トルコライスも食べましたか?」。トルコライスはボリュームがすごくて、食べきるのが大変だった。「はい、全部連れて行ってもらいました。トルコライスは、オランダ坂のツル茶んに行きました」。ツル茶んは、友人のこの母親がその昔、通っていた女子大学の近くにあった。その校舎はオランダ坂という急勾配な坂の途中にあって、そこから見渡す町や港の風景は素晴らしかった。

長崎、諫早から西海市を巡った。
「わたしもよくそこで寄り道して食べたのよ」。そのことは友人から聞いて知っていた。だから、汗だくになりながらオランダ坂をのぼっているときも、そこから町を眺めたときも、夏空の下、こちらを追い抜いていく、遅刻ギリギリの女学生だった友人の母親を想像したりした。女学生時代の友人の母の姿なんて、実際に見てはいない昔の光景のはずなのに、はっきりとその光景が頭に浮かんだ。それを友人にしたら、友人もそれがわかるようで、笑ってうなづいてくれた。「海は行きましたか。泳ぎたいって言ってたでしょう」。「ちょっと遠かったんですが、平戸大橋を越えた方まで行ってきました。いくつか山を越えていったんですが、途中、真っ白な教会がありました。中に入ると誰もいなくて、日本風のつくりになっていたのが印象的でした。人津久海岸っていうところは、浅瀬に小さな岩が2つポツンとあって、あとは風紋が描かれた真っ白なビーチに僕らしかいなくて。それに17時過ぎても真昼のように明るくてびっくりしました」。東シナ海につながるその辺の海は、とても美しかった。そして、外海と同じくらい静かではあったが、まったく違う表情をしていた。

友人の母との会話。
「どうでしたか。はじめてのこの町は?」。この旅で最も強く感じたこと。それは、はっきりと強く心の中にあった。もちろん、町の歴史や詳しいことは知らないままだし、行きたい場所を友人に言って、車で案内してもらっただけ。だけど、それでも旅の途中から、件名も挨拶もなく、突然やってきたメッセージのように、突きささってきたことがあった。それは、世界にはゆるすことができるものがいるということ。そして、この町はゆるすことができる町だということ。この国の産業を支えてきたのに、廃墟として捨てられた島。キリスト教を受け入れた後、隠れ切支丹として迫害された人々。鎖国時代にあって、海外に唯一の門戸を開いて異国文化を受け入れてきたというのに、その異国に爆弾を落とされた町。人間がしでかしてしまう多くの裏切りにあいながら、それをゆるすことができるものはとても優しく、そして最も強いものだと知った。この町にある、姿カタチでは見えてこない、ありのままの色や場所。それらが、静かに、しかし確かにそう教えてくれた。そんなことを言うこちらの顔をまじまじと見た友人の母は、それから、とても素敵な笑顔をしてくれた。29
(写真は遠藤周作文学館から臨む外海・東シナ海/2013年)

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