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【これを読めばだいたい分かる】丹羽長秀の歴史

織田信長に仕えた武将・丹羽長秀。
現代では内政面において活躍し、信長を支えた印象が強い武将です。
しかし、私達が思っている以上に多岐にわたる活躍をし、信長からの信頼も厚い武将だったようです。

今回は丹羽長秀の生涯と、現代に伝わるイメージについてご紹介します。


丹羽長秀とは

丹羽長秀とは、織田信長に仕えた戦国武将です。

信長とはお互いに若いころから付き合いがあり、強く信頼されていました。
信長の養女である「桂峯院」(けいほういん)を正室に迎えたことからも、その関係の深さが伺えます。
また、「長」の字は信長から授かったものであり、これは信長が特に信頼し重用した証といえます。
この「長」の字を与えられた家臣は、長秀を含めて2人だけです。

信長が丹羽長秀を「友であり兄弟」と評するほど、丹羽長秀が織田信長にとって特別な存在であったことがわかります。

丹羽長秀の生涯

丹羽長秀の生涯は織田家、特に織田信長を支えたものと言えます。
内政面での活躍が有名ですが、若いころは戦場でも活躍しています。
内政面では安土城の築城が、戦では佐和山城の攻略が代表的です。

また信長亡き後も、織田家の存続に尽力しています。
織田家の扱いで、懇意にしていた秀吉との関係が悪化するほどです。
そんあ丹羽長秀の生涯を見ていきましょう。

生誕

丹羽長秀は、1535年に尾張国・児玉村で生まれました。
彼の生家である丹羽家は、尾張守護・斯波氏に仕えていた一族です。
当時、斯波氏に代わり台頭していた織田家に従属していたため、丹羽長秀も自然と織田信長に仕えることになりました。

長秀が信長に仕え始めたのは、16~17歳のころ。
信長と年が近かったこともあり、その関係は次第に深まったようです。
このようにして丹羽長秀は、信長の重要な家臣としての道を歩み始めたのです。

織田家の重臣へ

丹羽長秀は、織田信長の尾張統一に大きく貢献。
その後も1560年に今川義元と戦った『桶狭間の戦い』に参加し、その功績で信長の信頼を得ました。
どちらも戦に参戦しており、後年の内政面での活躍とは似ても似つかぬ働きをしています。

信長の信頼を得た長秀は、信長の養女・桂峯院(けいほういん)と結婚。
それほどまでに信長は、長秀を信頼していたのです。
こうして長秀は織田家との関係を深めます。

桶狭間の戦いの後、織田家は北の美濃・斎藤家に侵攻します。
その際、長秀はまたしても功績を挙げます。
有名な功績は二つ。
『猿啄城(さるばみじょう)の攻略』と『小牧山城(こまきやまじょう)」の築城』です。

まずは『猿啄城(さるばみじょう)の攻略』から紹介しましょう。
斎藤家が支配する城・猿啄城の攻略を命じられた長秀。
長秀は山の上にある城に先陣を切って攻め上り、水路を閉じました。
水路を絶たれたことで、城を守る兵たちは籠城することができなくなり短期間で落城。
こうして長秀は、美濃侵攻に貢献しました。

もうひとつの活躍は『小牧山城(こまきやまじょう)の築城』です。
斎藤家の美濃国と織田家の尾張国の国境にある場所に、城を建てたのです。
ここを拠点に織田家は、美濃へ侵攻しました。
長秀はこのころから既に、内政面での才覚も発揮していたのです。

他にも敵武将を寝返らせたり、稲葉山攻めに参戦するなど、美濃平定に大きく貢献しました。
これらの実績により、丹羽長秀は織田家の重臣としての地位を確立しました。

織田家臣最初の国持大名へ

美濃を平定したのち、将軍:足利義昭を伴って京へ上洛した織田信長。
こうして領土も影響力も大きくなる織田家ですが、同盟を結んでいた浅井家の裏切りで危機に陥ります。
1570年に長秀は、浅井家と朝倉家の同盟軍との戦いである『姉川の戦い』に参戦。
この戦いで浅井家の城・佐和山城を包囲し落城させる戦果を挙げます。
戦後、佐和山城を信長から与えられ城主となります。

長秀の活躍は続きます。
1573年に起こった朝倉家との戦い『一乗谷の戦い』では、朝倉義景の母と世子・愛王丸を捜索し処刑するという厳しい命令を果たします。
その後信長より、朝倉家が支配していた若狭一国を拝領
この一国を拝領したというのは大きな出来事です。
それまでに国を拝領した家臣はいません。
長秀は、織田家臣として初めて国持大名に昇進しました。

国持大名となった長秀はその後、内政面での活躍が目立つようになります。
佐和山城近くで巨大軍船の建造や、信長の居城となる安土城の普請などを行っています。

しかし、なぜ内政面での活躍が目立つようになったのでしょうか?
筆者の予想ですが、急拡大した織田家の内政面を担当する人間が必要となり、長秀がそれを担当したのではないでしょうか。
内政を任せる以上、信頼できる人物である必要があります。
また単純に、内政をこなせる知識や才能も求められます。
信長にとってこの条件に当てはまったのが、長秀だったのではないかと思うのです。

1581年に京都で『京都御馬揃え』が行われます。
騎馬武者たちによるパレードで、現代で言うところの軍事パレードです。
この『京都御馬揃え』で長秀は、先頭で行進する名誉を授かります。
羽柴秀吉や明智光秀、柴田勝家を差し置いての先頭です。
織田家の内部での長秀の活躍や信頼は、とても大きかったのでしょう。

本能寺の変

織田家の重臣として活躍していた長秀ですが、1582年に大事件が起きます。
本能寺の変です。

本能寺の変が起きた時、長秀は大阪に居ました。
信長の命で、信長の三男・織田信孝(おだのぶたか)が総大将を務める、四国討伐軍の副将に任じられており、その準備中だったのです。

本能寺の変が起きたことを知った長秀は、討伐軍に参加していた津田信澄(つだのぶすみ:明智光秀の娘婿)を、共謀の疑いがあるとして誅殺。
その後は大阪に待機します。
本能寺の変が起きた当時、京都の最も近くにいた重臣は長秀です。
しかし、なぜか明智光秀を討つために、軍を京都に向けなかったのです。
理由は定かではありませんが、一説では「兵が混乱することを避けたのではないか」と言われています。

その後、大急ぎで中国地方から戻ってきた羽柴秀吉の軍と合流。
山崎の戦い』で、明智光秀を討つことに成功します。
しかしこの戦の大将はあくまで秀吉です。
このことが、後の織田家臣内の力関係に、大きな影響を及ぼします。


清須会議~賤ケ岳の戦い

山崎の戦い』の後、信長の後継者を決める『清須会議』が行われます。
参加者は、羽柴秀吉・丹羽長秀・柴田勝家・池田恒興の4名。
この会議では柴田勝家が後継者に、信長の三男・織田信孝を推薦。
秀吉が信長の孫にあたる、三法師(本能寺の変で信長と共に死んだ、信長の長男の子供)を推薦します。
後継者の指名で柴田勝家と羽柴秀吉の間で対立が起きたのです。
この対立に長秀は、秀吉側に付きます。
池田恒興も秀吉側、もしくは中立だったとされ、後継者は秀吉が推薦する三法師に決定します。

また『清須会議』では4人の領地の再分配も行われました。
長秀は、若狭国(現在の福井県西部)、近江国(現在の滋賀県)2郡を、治めることになります。

こうして「清須会議」は終了しますが、秀吉と勝家の対立は続きます。

そうして1583年、ついに秀吉と勝家の間で戦となります。(賤ヶ岳の戦い・北ノ庄城の戦い
長秀は秀吉側に付き、戦の支援を行います。
前線で戦うのではなく、後方からの物資を輸送するなどの支援が主だったようです。
最終的にこの戦は秀吉の勝利で終わります。
柴田勝家は切腹。
勝家側に付いた織田信孝も、処刑される結末を迎えます。

最期

長秀はその後、越前国の『北ノ庄城』に籠りがちになります。
さらには、秀吉とも距離を置くように。

一説では秀吉の行いを非道と感じたためと言われています。
秀吉は柴田側に付いた織田信孝を自害に追い込み、その母や娘を処刑しています。
秀吉が信長の遺族をないがしろにしたと、長秀は感じたのです。

賤ヶ岳の戦い』から2年後の1585年。
長秀は体を寄生虫に蝕まれます。
積寸白(せきすばく・サナダムシによる寄生虫病)であったととされる説が有力です。
一説で長秀は、病で出来た「しこり」を自ら抉り出し、それを秀吉に送り付け亡くなったと言われます。
享年51歳。
織田家の扱いに、相当恨みがあったのでしょう。

しかし、長秀の死因は諸説あり、本当に秀吉を恨んでいたのかは疑問が残ります。

丹羽長秀の逸話

ここからは、丹羽長秀の有名な逸話やあだ名についてご紹介します。

米五郎左

丹羽長秀には「米五郎左」というあだ名があります。
「五郎左」とは、丹羽長秀の通称です。
米は「米のように欠かせない存在」だったことからきています。

多くの人から頼りにされていたのが分かるあだ名です。

鬼五郎左

丹羽長秀の異名に「鬼五郎左」があります。
1565年の上洛のおり、立ちはだかった六角家との戦いが由来です。
長秀は六角家の城を3,000人で攻撃。
鬼にも勝る活躍で、1日で城を落としたことから「鬼五郎左」と呼ばれたのです。

秀吉に「しこり」を送りつける

前述しましたが、長秀は死の間際に病で出来た「しこり」を抉り出し、秀吉に送り付けた逸話が残っています。

この「しこり」を抉り出したことから「切腹であった」ともされています。
残された信長の遺族を守れなかったことに対して、責任を取ったと言うのです。

しかし切腹ではないとの意見も存在します。
一説では「しこり」を抉り出してから、2日後に亡くなったとされているためです。

ハッキリしたことは分からないのですが、「しこり」を送り付けた逸話には、秀吉への手紙が添えられていたと伝わります。
添えられた手紙には「これがそなたに対する自分の心持ちである」とあったそうです。

事実であれば、相当な恨みを抱いていたことがうかがい知れるエピソードです。

アニメやゲームでの丹羽長秀

ここからは現代のアニメやゲームでの丹羽長秀の描かれ方を紹介します。
基本的には、内政屋として描かれることが多いです。
「縁の下の力もち」のようなイメージが、現代の長秀にはついています。

信長の野望

歴史シミュレーションゲーム「信長の野望シリーズ」に登場。
このゲームでは武将に、戦法・特性が備わっています。
信長の野望 新生」では長秀の戦法・特性は敵にダメージを与えるものがありません。
敵を混乱させたり、味方の支援や施設の建設速度上昇など、サポート的な能力が多いです。
決して武勇が低いわけではないのですが、内政や外交に関する能力の方が優れているキャラとして登場します。

放置少女

スマートフォン向けゲーム「放置少女」に、美少女化されて登場。
はだけた和服で、刀を持った姿をしています。
真面目で心配性な性格で、他人の忘れ物まで気をつかうほどです。
「狂乱」という、火力が上昇した状態になれるアタッカーとして活躍できる性能をしています。
前述した「鬼五郎左」が、強く反映されている印象です。
内政屋として描かれることが多い長秀にしては、珍しい描かれ方をしています。

丹羽長秀のゆかりの地やイベント

小牧山城(こまきやまじょう):愛知県小牧市

1563年に信長の命で、丹羽長秀が築城した城です。
美濃攻めの拠点として利用されますが、『岐阜城(稲葉山城)』に本拠を移した際に廃城。
その後、秀吉と家康が争った『小牧・長久手の戦い』で再利用されます。

現在は城址に、城のように天守を備える歴史資料館が建設されています。
当時の遺構が綺麗に残っていおり、戦国時代に思いをはせることができるスポットです。
参考:れきしるこまき(小牧山城史跡情報館)http://komakiyama.com/rekishikan/

佐和山城(さわやまじょう):滋賀県彦根市

浅井家との戦いで長秀が攻略し、その後城主となった城です。
近江の重要拠点で、秀吉の時代になってからも石田三成や堀秀政など重臣が城主となっている重要な城です。

長秀は『本能寺の変』の際、佐和山城は明智光秀の配下に一度奪われています。
しかし『山崎の戦い』で長秀は秀吉と協力して明智光秀を倒すと、佐和山城の奪還に成功しています。

残念ながら現在は、わずかな石垣や土塁しか残っていません。
しかし山頂までハイキングコースが整備されており、山頂から琵琶湖や彦根城を一望できるスポットになっています。
参考:彦根観光ガイド : 公益社団法人 彦根観光協会https://www.hikoneshi.com/sightseeing/article/sawayama

まとめ

丹羽長秀は織田家において、欠かせない重要な人物でした。
彼の「米五郎左」という異名や、活躍からその重要度がうかがい知れます。
長秀も信長への忠義を大切にしており、信長亡き後も彼をしのんでいます。

現代にイメージされる冷静な内政屋の側面だけでなく、忠義に厚く、時に戦場で敵から恐れられる武将が丹羽長秀です。
彼はその多面性こそが、現代の私たちを引き付ける魅力と言えるのかもしれません。

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