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【これを読めばだいたい分かる】柴田勝家の歴史

柴田勝家は、織田信長に仕えた戦国武将です。
織田四天王の1人で、その武勇は現代にまでとどろいています。
今回は柴田勝家について紹介します。


柴田勝家とは

戦国時代屈指の勇将として名高い柴田勝家。
織田信長の天下統一に大きく貢献し、その忠誠心と武勇は後世に語り継がれています。

彼は織田信長に仕えた宿老であり、その勇猛果敢な戦ぶりから「鬼柴田」と呼ばれました。
織田四天王の1人でもあり、数々の戦いで勝利に貢献しました。

織田信長の死後、羽柴秀吉と対立し、1583年(天正11年)の賤ヶ岳の戦いで敗北。
北ノ庄城で自害し、その生涯を閉じました。

柴田勝家は、武勇だけでなく知略にも長けた武将です。

生涯

ここからは柴田勝家の生涯を見ていきましょう。
彼の生涯は大きく3つに分けることができます。

  • 織田信行の家臣時代

  • 織田信長の家臣時代

  • 本能寺の変の後

それぞれの時代の勝家に迫ります。

信長の弟・織田信行の家臣時代

柴田勝家の生年は諸説ありますが、1522年ごろと推定されています。
尾張国愛知郡の下社城で生まれ、父親は柴田勝義と言われています。
幼名は権六で、幼いころから知恵と勇気を持っていそうです。

幼少期からその才能を認められていた柴田勝家は、織田信秀に仕えます。
織田信秀は織田信長の父であり、古渡城を拠点として勢力を拡大していました。
柴田勝家は織田信秀の知遇を得て、文武の道を学び、才能を磨き上げました。
これが、後に織田信長と出会い、家臣となるきっかけとなったのです。

1549年、柴田勝家は織田信秀の後継者である織田信行の家老となります。

当時、織田信長は奇行が目立つ大うつけと呼ばれており、家臣から不安視されていました。
そのため、柴田勝家らは織田信行を後継者に擁立しようと計画します。
そうして起こったのが「稲生の戦い」です。
しかし、残念ながらこの戦は敗北に終わります。
柴田勝家は織田信長に謝罪し、忠誠を誓いました。

その後も、信行は「稲生の戦い」で敗北したにもかかわらず、再び織田信長を討つ計画を立てます。
柴田勝家は信行の不穏な動きを感じ取り、織田信長に密告。
織田信長は信行の暗殺を決意し、柴田勝家は信行を清洲城へ誘い込みました。
そして、信行は城内で池田恒興らによって殺害されました。

織田信行の死後、柴田勝家は織田信長の家臣となりました。

織田信長の家臣時代

織田信長の家臣になってからの活躍を見ていきましょう。
1564年(永禄7年)の犬山城攻略、1568年(永禄11年)の足利義昭上洛など、数々の戦いに参加し勝利に貢献しました。

1575年(天正3年)、柴田勝家は織田信長から北陸方面軍の総帥として任命され、北の庄の地を与えられます。
北陸地方は一向一揆が盛んであったため、柴田勝家は一向一揆の鎮圧に尽力しました。

1577年(天正5年)には、越前一向一揆を討伐。
福井県北部の越前国49万石を与えられました。

柴田勝家は、越前国を拠点として北陸地方の統治に力を注ぎました。

しかし、越前を手に入れた勝家には新た敵があらわれます。
上杉謙信です。

当時、上杉謙信は北陸地方へ勢力拡大を目指していました。
織田信長は、上杉謙信の動きを阻止するため、柴田勝家を北陸地方へ派遣。
柴田勝家は、越前国を出発し加賀国を目指しました。

柴田勝家は手取川で上杉謙信軍と対峙します。
手取川は急流で、渡河は困難を極めました。
いわゆる「手取川の戦い」です。
柴田勝家は、無理な渡河を敢行します。
しかし、上杉謙信軍の猛攻を受け大敗を喫しました。
この戦いで、柴田勝家は多くの兵士を失います。
しかしその後、上杉謙信が病死したことで上杉軍に侵攻は停止ます。

1580年、織田信長は柴田勝家に加賀一向一揆の鎮圧を命じます。
柴田勝家は、加賀一向一揆の拠点である金沢御堂を攻撃し、激しい戦いを繰り広げました。
そして遂に金沢御堂を落城させ、加賀一向一揆を鎮圧することに成功しました。

その後はさらに、能登国や越中国にも進出し領土を拡大しました。

本能寺の変の後

1582年(天正10年)の本能寺の変で信長が討たれた後、柴田勝家の運命は大きく変わります。
本能寺の変が起きたのは6月2日。
その1日前に勝家は、上杉景勝の治める魚津城を陥落させます。
勝家が信長の死を知ったのは、6月5日以降とされています。
結局、近江(滋賀県)にたどり着いたのは6月13日。
秀吉により、明智光秀が討たれた後でした。

本能寺の変後、織田信長の後継者を巡って、織田家重臣の間で争いが起こります。

1582年6月21日に行われた清須会議で勝家は、織田信長の三男である織田信孝を後継者に推挙します。
しかし、羽柴秀吉は織田信長の長男である織田信忠の嫡子である三法師を推挙。
丹羽長秀がこれを支持したため、三法師が後継者に決定されました。

清須会議では後継者決定と同時に領地の再配分も行われ、豊臣秀吉は近江長浜を柴田勝家に譲り、河内・丹波・山城・播磨を獲得しました。
一方、柴田勝家は越前と近江長浜のみを得ることとなり、豊臣秀吉の地位が逆転しました。

この清須会議では勝家にとって重要なことがありました。
信長の妹・お市の方との結婚です。
柴田勝家は以前から お市の方 に一目惚れしており、この結婚は彼の長年の夢でした。
ちなみにこのとき、柴田勝家は60歳。
お市の方は、連れ子が3人いる35歳でした。

清須会議以降も権力闘争は続き、1583年に豊臣秀吉と柴田勝家は戦となります。
世にいう「賤ケ岳の戦い」です。
この戦いで、柴田勝家は前田利家軍の戦線離脱などの影響もあり、敗北を喫しました。
柴田勝家は北ノ庄城へ撤退し、妻のお市の方とともに自害しました。
この時、お市の方の連れ子3人を逃しています。
このうちの1人が、のちに秀吉の側室となる淀殿(茶々)です。

こうして柴田勝家はその生涯を閉じました。
享年62歳。

逸話

ここからは柴田勝家に関する逸話を紹介します。

鬼柴田

戦国時代屈指の猛将として知られる勝家は、その勇猛果敢な戦ぶりから「鬼柴田」の異名で恐れられました。
またその突進力で敵戦線を切り裂き、数々の戦で勝利に導いたことから「かかれ柴田」とも呼ばれています。

秀吉と犬猿の仲

柴田勝家お羽柴秀吉は、不仲だったとされています。
後世にそういう印象が残っている理由の1つが、「手取川の戦い」での出来事です。

北陸方面軍の総帥であった勝家のもとに、信長からの命令で秀吉たちが援軍として派遣されます。
ですが勝家と秀吉の意見が合わず、秀吉が勝手に帰ってしまったというエピソードです。

なぜ秀吉が帰ったのか?信長の命に背いたのにお咎めは無かったのか?
疑問点も多いエピソードなのですが、勝家と秀吉の不仲を表すエピソードとして伝わっています。

また別のエピソードに「信長の妹・お市の方を巡っていがみ合っていた」というものもあります。

いずれにしても、明確な理由ははっきりとしません。

アニメやゲームでの柴田勝家

ここからは、現代のアニメやゲームでの柴田勝家の活躍を紹介します。
歴史ゲームを中心に、柴田勝家がモチーフのキャラが存在しています。

仁王2

妖怪が存在する戦国時代が舞台のゲーム「仁王2」に、敵キャラクターとして登場。
突進攻撃の強いボスキャラとして、主人公の前に立ちふさがります。
「かかれ柴田」のイメージが、強く反映されているようです。

放置少女

スマートフォンゲーム「放置少女」に、美少女化した柴田勝家が登場しています。
二振りの刀を、柄で合わせたような武器を持っています。
落ちつた性格で奇襲戦が得意だそうです。

戦国BASARA

信長に謀反を起こした人物で、実力に反して地位が低い若い兵士として登場。
キャラ設定のコンセプトは「挫折した男」で、無気力な男として描かれています。

ゆかりの地

柴田勝家のゆかりの地は、領地であった福井県に多くあります。
そのためここでは、福井県にある柴田勝家のゆかりの地を中心にご紹介します。

北ノ庄城(きたのしょうじょう)・柴田神社

柴田勝家が居城とした城です。
勝家の時代の北ノ庄城は、秀吉との戦で焼失。
そのため、現在は結城氏によって築城された「福井城」の城址として残っています。
そのため、柴田勝家の築いた北ノ庄城の遺構を見ることはできません。
しかし、近くに柴田勝家とお市の方を祀る『柴田神社』があります。

参考:福井市観光公式サイト https://fuku-iro.jp/feature/detail_72.html

まとめ

柴田勝家は戦国時代の屈指の勇将であり、織田信長の天下統一に大きく貢献した武将です。
織田信長に仕えた家臣として、その勇猛果敢な戦ぶりから「鬼柴田」と呼ばれ、織田四天王の1人として数々の戦いで勝利に貢献しました。

本能寺の変後、織田家内で後継者問題が浮上し、豊臣秀吉との対立が起きます。
そして、1583年の賤ヶ岳の戦いで敗北し、北ノ庄城で自害することでその生涯を閉じました。

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