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戦国時代の地震災害: 歴史上の災害から学ぶ

地震大国、日本。
2024年になってからも、能登半島や四国で大きな地震が発生しました。
近年大きな地震の発生が増加しており、防災意識を高めることが求められています。
大きな地震は被害にあった人の人生はもちろん、その後の社会にも大きな影響をもたらします。

では、戦国時代の日本はどうだったのでしょう?

実は戦国時代の日本では、頻繁に地震が発生していました。
西は九州から東は関東や東北まで、日本各地で地震が発生していたのです。
戦国大名達が争う乱世で、追い打ちをかけるかのような自然災害。
当時の民衆や戦国大名、さらには後の歴史にどういった影響をもたらしたのでしょうか?


天正地震

「天正地震」は戦国時代の、1586年1月18日に発生した巨大地震です。
中部地方を震源とし、マグニチュード8.6程度。
近畿・中部地方を中心に、大きな被害をもたらしました。

この地震により特に大きな被害が出たのが飛騨(岐阜県北部)です。
この地域の一部を治めていた内ヶ島氏が、地震による被害で滅亡。
居城の帰雲城(かえりくもじょう)が、地震による山崩れで城下町ごと土砂に埋もれたのです。

これだけでも被害の大きさが伝わるかと思いますが、この地震はその後の歴史にも影響を与えています。

天正地震が発生したのは、羽柴秀吉と徳川家康が戦った「小牧・長久手の戦い」の直後。
秀吉の天下統一がいまだ成せれておらず、家康と敵対中でした。

地震発生前「小牧・長久手の戦い」で家康に敗れた秀吉は、家康の領地への侵攻を準備していました。
しかし天正地震が発生。
秀吉が治める近畿地方に甚大な被害が出ます。
被害への対応のため家康の領地への侵攻を、断念せざるおえなくなります。

一方の徳川家康。
当時の家康の領地である東海地方は、地震による被害はありましたが近畿地方よりは軽微でした。
とはいえ被害が0ではなく、三河の岡崎城が大きな被害を受けています。

もし天正地震がなければ、秀吉は家康の領地へ攻め入り戦のなっていた可能性が高いと思われます。
もしそうなっていたら、秀吉の天下統一が遅れたかもしれません。
さらに家康が敗れ命を落としていれば、その後の江戸時代以降の歴史は大きく変わったことでしょう。

天正地震は、歴史に大きな影響を与えた地震だったのです。

慶長伊予地震・慶長豊後地震・慶長伏見地震

天正地震からおよそ10年後、秀吉が天下を治める時代。
大きな3つの地震が日本を襲います。
それが「慶長伊予地震」・「慶長豊後地震」・「慶長伏見地震」です。
わずか5日間に、マグニチュード7クラスの巨大地震が連続して起こったのです。

慶長伊予地震

はじめに起きたのは慶長伊予地震です。
1596年9月1日に発生。
震源地は伊予(愛媛県)で、推定マグニチュードは7.0です。
詳しい被害は不明ですが、寺社の倒壊などがあったようです。

慶長豊後地震

次に起きたのが慶長豊後地震です。
この地震の発生日は複数存在します。
1596年9月1日と9月4日の2つです。

9月1日発生説は、慶長伊予地震と同一とする説も存在し謎が多いです。
今回は慶長伊予地震の3日後に起きたとされる、9月4日説で解説を進めます。

震源地は豊後(大分県)とされ、推定マグニチュードは6.9-7.8。
津波も発生し、死者は800人ほどと伝わっています。
この地震(もしくは津波)により、別府湾にあったとされる島が2つが沈んだという言い伝えが残っています。(島が実在したかは未確認)

慶長伏見地震

最後に発生したのが慶長伏見地震です。
慶長豊後地震の翌日、1596年9月5日に発生。
山城国伏見(京都府)が震源とされ、推定マグニチュードは7.5以上とされています。
建造中であった伏見城天守や東寺などが倒壊しました。
地震が発生したとき秀吉は伏見城におり、幼い息子・秀頼を抱え庭に飛び出したと伝わります。

この地震による死者の数は1.000人にものぼり、被害の大きさが伝わります。
しかし伏見城内だけでもおよそ600人が亡くなったとされており、実際の被害はこれより相当大きかったのではないでしょうか。

この地震では加藤清正に関する逸話も残っています。
謹慎中だった清正は地震後すぐに伏見城に駆けつけ、復旧作業に尽力したそうです。
ただ地震発生時清正は大阪におり、被害が激しいため迅速に駆け付けられなかったとする見方もあります。

しかし復旧作業に関わっていた可能性は高いです。
後に清正が築く熊本城の築城の際、この経験を活かしています。
実際2016年の熊本地震の際に石垣に大きな被害はでましたが、天守の倒壊はまぬがれています。

3つの地震の関連性

戦国の日本を襲った、慶長伊予地震・慶長豊後地震・慶長伏見地震の3つの地震。
これらは関連性のない地震なのでしょうか?

これら3つの地震は中央構造線が関係しているとされています。
中央構造線は日本最大の断層帯です。
西は熊本から東は群馬まで伸びています。

3つの地震の震源は中央構造線に近く、連動した可能性が指摘されています。

これら3つの地震の影響は大きく、暦が文禄から慶長に改元されています。
昔は天変地異や縁起の悪いことがあると、改元していたのです。
しかしその後も地震は続きます。
1605年に関東で地震と津波。
1611年に東北で2度の地震。
戦国末期から江戸時代初期は、地震が頻発する激動の時代だったのです。

まとめ

戦国時代の行く末に影響を与えた大きな地震。
戦国の世が終わり江戸時代になっても、地震は東日本を中心に続きました。
しかし戦国時代や江戸時代初期にに生まれた文化、建てられた建造物は現代に残っています。
それはきっと、当時の人々がめげずに再建・再興したおかげでしょう。

参考:天正地震(1586年1月18日) | 災害カレンダー - Yahoo!天気・災害
参考:天正地震(天正13年) - 岐阜県公式ホームページ(防災課)
参考:慶長伏見地震(文禄5年7月13日) | 災害カレンダー - Yahoo!天気・災害


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