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廃法府設立のススメ ~ 法律さえ守っていれば迷惑なんか知るか! ~

日本は法治国家ではない。国民が法の価値を理解していないからだ。さらにそれを教育することすら視野にない。法は細かい目にする方向しかなく、抜け道を見つける異常者への対応のためにマンパワーが枯渇し、そもそも取り締まれない抜け道だけでなく、網に引っかかっていく追随者も多すぎて放置になる。

法はそもそも細分化するのは前提ではない。イギリスではないが慣習法の方がましなのだ。解釈を巡れば時間はかかる。だから細分化するのだろうが、細分化してしまうと余計に本来見つけるべき悪意が巧妙に隠されてしまう。実際には悪意だけを見つければ、社会はうまくいくのだ。

法さえ守ればどんな迷惑行為も許される、という思考に悪意を感じない人は少ないはずだ。だが、今の日本はそういう形を優先している。つまり法はその存在が目的となっているのであり、手段として信用されていない。これでは陰湿ないじめが蔓延るのも当然だ。学校でも企業でも起こる。

傲慢な人間は法さえ守ればなんでもありだ、という気になるし、そんな人間に虐げられれば、法を恨みさえするかもしれない。結果、法をわかっているはずなのに法を超えた事件が起きてしまう。

法は従うものでも縛るものでもない。円滑に社会を運営するためのルールブックに過ぎない。対立を調整するのにどうしても微妙なところだけ参照して、それが済んだらノーサイドなのだ。ルールが細かくなりすぎれば、プレイヤーとしては、ただ頭を使わない機械的な肉体だけがお呼びになってしまう。

法治国家の一員を名乗るのであれば、まず法が何を目的として存在するのか、という前提を共有する必要はある。この前提を了解できないのは法治国家の一員にはなれないのだ。そして、別に法治国家だけが国家の在り方ではない。国際的な圧力の下で国家が法治国家を名乗らされているのに、実質は法治国家でない嘘も見抜けない国民に輝かしい未来なんてあるわけない。


そうなると何を信用したらいいかわからないかもしれないが、自然法を意識すればいいのだ。人間の法が法たりうるのも、自然法の中にそれがあるからだ。自然法の埒外にある法律が多くなった民族は民族ごと不幸になる。自然を逸脱できるのは虚構の力だが、それが真実との乖離を招く。結果として生活の全てが嘘になる。それでも不幸にならない自信があるのか?

だからこそ、社会の健全さのためには、そこも自然法と照らし合わせ比較監視して、廃法という機能を持つ機関が必要であるはずだ。すなわち立法府の対となる廃法府。なまじ書かれてしまっているがゆえに、時代の移り変わりとともに現れる矛盾に対処しにくくなる。

社会の発展(社会ルールの更新)は自然法への「理解」の深度とともに進むというのが、真実の世界の在り方である。

そもそも乱暴に言えば、人が社会で生きるのは人が「徳」に覚醒するためだ。「徳」とは自然法に根差して生きていることへの喜びである。だから「徳」に覚醒した人は必然として自然法を裏切らなくなる。結果としてその人の社会性は盤石になる。自然の中に社会があるのだから、その自然を乱さないなら社会を乱すわけもない。

だから徳治政治が理想(ユートピア)になる。鼓腹撃壌だ。この境地への到達は居ながらにして世界を掌握できる人からやっていけばいい。


法を考えるのなら、もっと身近な生活を例にとるべきかもしれない。

言われるからやるとかやらないとか決めるのは子どもだし、その枷を抜け出した先で、自分と自分の同類だけで固まって欲を満たすための自由を行使するのは、一般的には無責任だ。そこに正義やイデオロギーを掲げれば立派な(歴史的継続を持つ)人類への反逆者となる。大人はそういうものではなく、やる「べき」ことを自分で判断して遂行できる人だ。

何をす「べき」かは状況とともに推移するのだから、そもそも正解なんかはない。だから大人に求められるのは判断基準となる軸だ。そしてその軸への自覚だ。見定めて選んだ軸なのだから、それが絶対ではないこともわかっている。でも今回、生きている間はその軸を守る。そういう覚悟に通じる軸への到達が人生の目的だ。その軸こそが幸福をもたらす。

迷惑なんか知るか、という軸を選ぶこと自体は問題はない。その覚悟と信念が本物なら世界が応援してくれるだろう。ただ、その軸を守るために他の存在が自由に軸を選ぶことを阻害するようだと悪質になる。要するにその軸を守るために自分以外の力が必要となって嘘をついてでも奪うのであれば破綻するのだ。

法さえ守っていれば迷惑なんて知るか、というのは隠していないと生きられない性質の信念だから、どうしてもその軸を保つことに一貫性がなくなって、世界からの支援が続かない。そして生来の能力と気合が尽きるところで同じ信念の人間の力に屈して権利を奪われるほど支配されてしまう。

そうやって破綻するという事実があるから、それはその人にとっても都合において悪になる。その構図と経過が読めない人を大人とは呼ばない。単にお子様で無責任だということになる。その無責任のツケも自分に還ってくるから悪なのである。

そういう風に世界がなっていることにすら気がつかないのであれば、世界との対話という往復も成立させることは難しく、すなわち時「間」が挿入されるタイミングが希薄になるので人生はあっとういう間になる。当然、長く生きようと人生は短く、終焉に当たって何か(充実した感覚など)を得たと感じることも必然としてまれになる。


いやなら、背理法だ。



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prompt:A young woman with long black hair stands in a strong wind while holding her hat.

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