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世界は一つの数学体系ではなく、祝福された不完全性によって無矛盾のシステムが乱立している ー完全言語入門ー

世界の仕組みなんてそんなに難しくないのに、人間であることが動物たちよりそれに気がつく機会を奪っているかもしれない。

言葉は虚構がなければ成立しない。

言葉を使うということは常に嘘をついている状態だ。意図的な嘘でなくても、言葉は完全に事実を転写できるわけではないのだ。だから常に解釈の余地を残す。

言葉ゆえに真実を見失うのは人間の宿命だ。だから、表面ではなく深層を掴む必要がある。

数学は限定的だが嘘はつかない。つけない。数学的な表現の拡大は認識できる世界の拡張にもなる。

ただし、確率や統計が出している解答らしきものが実はまったく答なんかではないことを理解しているなら大丈夫だが、そこに本質を見て流される人は事実だけが世界だと信仰する羽目になる。(ただ量子論で確率とされている何かはしっかり深淵に根付いている。)

この信仰が強固であるから、真実は隠蔽されたように感じる。いや、そもそも視界に入ってこない。それは、自分から盲目になっているだけなのだ。

言葉を疑う。言葉を発する人を疑う。これはアーツの中でも最も重要だ。

これがないと自分にすらだまされる。

構造と機能の関係を対応させることで、虚構となっている構造部を暴き出し、本当に得られるべき機能に親しむことができれば、真実は手の届くところに来る。文字通り手でつかめるようにすらなる。


言葉が難しくて理解できないことを、無理やり理解する必要はない。

言葉に込められている何かは、理解を介して伝わるのではないから、必要な者に必要なとき共鳴する。理解しようとするとわからないときに敵意になる。そうなると必要なときにすら共鳴できなくなる。

全ての言葉を理解を超えた状態で扱うようになれば、いつも世界の全て(の一部)との対話になる。虚飾の部分を省いて必要な構造だけ追える。

巧言令色鮮し仁

たいていはこの原則に揺らぎはないが、仁を言葉だけで伝えようとすること自体が仁と無縁なことが多いだけだ。

真実であろうとする自分への誠実さだけが、ときどき、ほんとうにときどき真実を担う言葉になり得る。それでも真実そのものではない。

真実は誠実に己の存在の全てで表現しなければその一端すら表現できない。

逆に言えば表現しようとしなくても表現できていることもある。

表現しようとした人たちで、ほんとうに表現で秀でているのは、プラトンとスピノザとウィトゲンシュタイン、あとはハイデガー。構造的にはカント。彼らの言ってることがわかればヘーゲルは飛ばし読みできる。

みんな根っこは同じなのだから。

ヘーゲルとショーペンハウエルすら、同じことを違う都合や興味から述べているに過ぎない。都合や興味という虚飾を排除できれば、全てわかるのだ。そしてわかってしまえば全部理解できる。

逆に言えば、それだけ都合と興味は受肉にとっては目立ちすぎる虚飾なのだ。哲学は死の練習と言ったかもしれないが、幾多の死を理解して初めて形而上学に達する。死の虚構すら暴けるのはその地点だ。

だから、死は練習することではなく体験することに意味がある。

死を体験しているのに、死と認識せずに何も得られないままで過ごすのが一番怖い。


余談かも知れないが、

理論物理学の矛盾する部分すら、形而上学の理解によって補正することができるかもしれないのだから、理学者こそ哲学者でもあるべきだろう。理学も哲学も形而上学を支える(あるいは形而上学から垂れた)太い柱に相当するのだからもともと親和性はある。

確かに理学者にの細かい計算能力は(タスクとして)必須だが、着想自体はセンスというよりは形而上学の理解から来る「違和感」が出発点だろう。


世界を数学で見る、というのは心構えとしてはよい。

ただ数学として捨象したのが本質でないことは看破できなくてはならない。世界は一つの数学体系ではなく、祝福された不完全性によって無矛盾のシステムは乱立しているのだから。都合や興味という混入すると矛盾を形成する虚構すら、それ自身を扱うシステムの中では整合している。

事実とは、あるいは歴史とは、あるアルゴリズムに基づいたプログラムが実行されているだけのことである。初期入力と境界条件によって、物理界のカオスすら演算で生じている。

太陽の黒点などは、歴史に介入してくるシステムの一つで(もちろん完全言語的にはもともと分離などなく外延=内包されているが)、今回の地球世界の歴史において、来るべき4回目の寒波は分水嶺になるかもしれない。介入させるべきシステムを選択する霊長の知恵が試される。

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