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法律のUX

今回も、デザインのUXとは違う切り口から見るUXの記事です。UXとは善悪の判断でもあり、人格ともなりうるという事例です。

法律はテンプレート化できるか

よく法律はすべてをルール化しテンプレートにすることができるのではないか、弁護士の仕事はなくなるのではないか、と言う方もいますが、まだまだ洗練されていないという印象です。それは法律が非常にセンシティブな人間の感情や判例によって決められていると思うためです。
以前、宅地建物取引に関する知識を得る機会があり、その際に感じた法律の疑問点を紹介します。法律で決まっている、というと穴がなく非常に合理的な印象がありますが、UXという点で見ると改善の余地が見えてきます。

脅迫か詐欺か

日本の民法では、建物の取引で以下のような決まりがあります。例えば私が家を買ったとします。しかし、この建物は欠陥だらけである、と悪徳業者にだまされてしまい、いち早く売却したとします。その悪徳業者は買い取った建物を、他の人に転売してしまいました。このような状況において、私は転売した人に「返してくれ!」と言うことが法律上はできません。だまされた本人にも原因があるから、というのが理由です。
しかしながら、だまされたのではなく脅迫を受けて、無理やり売却することになった場合は、「返してくれ!」という言うことができます。なぜなら脅迫によって無理やり売ることを強要されたからです。

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詐欺か脅迫か、いかなる場合であっても保護すべきだと思うのですが、法律はそうではないのです。これも詐欺を含めるだけで、多くの争いごとや社会問題を減らすことができるはずです。そしてこれもUXであると言えます。

責任を負えない人でも認められる

表見代理という言葉があります。私の持っている家を、私の代理風を装って、勝手に売ってしまう人のことを言います。買い手の人は私が売っていると信じこんで購入を申し込むわけです。この場合、私に何らかの落ち度があると私の家は売り渡されてしまいます。そもそもこの代理をした人が罰せられるべきだとよく思います。

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これも何故このような体験なのでしょうか。悪意がある人間が有利になるケースが発生してしまいます。
これだけではなく、実はまだまだアップデートすべき法律がたくさんあるように思います。「良い行い」と「悪い行い」というは非常にその判断が難しいです。

善悪の判断の難しさ

「12人の怒れる男」という映画があります。1954年のアメリカドラマの作品ですが、12人の陪審員による、とある殺人犯の犯行について様々な視点や感情をもとに判断が下されるという内容です。殺人はいかなる理由があれ悪行である、ただし、そこに至るまでに惨憺たる暴力を受けていたとしたらどうだろう、という主旨の内容です。物事とはその一つの事象だけではなかなか判断がつかないものです。

UXが人格になる未来が来る

私達が日々仕事とする「UX」はいずれデジタルな人格を作っていく仕事につながると思っています。しかし、正しい正義をUXとして定義するのは非常に難しいポイントだと思っています。複雑な解釈が伴い、膨大なifとelseが複雑に積み重なった事例もあります。
将来、この判断軸がUXという人格に置き換えられれば、極端な例ですが世界は一つのAIの政治になる可能性があると思っています。しかし、この判断軸を間違えると、世界は大きく変わってしまうでしょう。私たちUXに関わる人間は、効率や便利さだけではなく、正しい人間性という判断軸をしっかり持たなければなりません。

今回も最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

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