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7 戦争と分断に抗って「線路」を延ばす 白岩英樹

元旦に迎える3巡目。戦争と分断の時代にリレーエッセイを書きつなぐ意義をつらつら考えている。

その場にふたりしかおらず、相手の話に慎重に耳を傾けようとすると、どうしても顔を見つめあうことになる。すると、お互いの面持ちか、その背後に延びる線上の空間しか視界に入ってこない。次第に両者の距離は近づき、対話の密度が高まっていく。呼吸が浅くなり、言葉のラリーは緊張感を増す一方である。

そのように関係性が閉ざされていくなか、ラリーに必要な距離を保つには第3者の存在が欠かせない。たとえば、編集者は単純な「線」上での応酬を複雑な「面」へと展開させる。また読者やオーディエンスは第4者として「面」を虚空へ引き上げ、「立体」へと発展させるだろう。
能楽を大成した世阿弥は、芸の成功にはシテやワキの「誠の花」だけでなく、「真実の目利き」が欠かせないと説いた(世阿弥『風姿花伝』)。ややもすると閉鎖性を帯びがちな2者関係においては、第3者や第4者が入り込む余白を残すことで、お互いをあらためて個として尊重し、対話の相手として保つことが可能となるのである。 

それに比して、その場に3人がいると、ふたりの顔を見ることになる。ひとりの顔からもうひとりの顔へ視線を移動させるとき、視界は水平方向にスクロールする。結果として、ふたりの表情だけでなく、彼らのあいだの空間を何度も往復することになり、そこにただならぬ対象を見つけることだってあるかもしれない。
ひとりだけ別の方向を見ているわけにもいかないから、それが一体なんなのか確かめたい気持ちを懸命に抑え、話者の顔に視線を戻すものの、気になってしかたがない。ついに我慢ができず、その対象を凝視する。ほかのふたりも何事かと、そちらへ視線を移す。
すると、3点が囲む「面」で行われていた対話に、また別の「面」が加わる。視線が複雑に絡み合い、各人の視界は無限に交差しあう。誰も予想しえない「不可能図形」がいくつも描かれ、第4者や第5者が加勢するにつれ、「不可能立体」がにょきにょきと立ち上がる。

「弱さ、傷つきやすさ、死すべき運命」に己を晒す

そのような「立体」を、あらかじめ設定された目的や設計図だけで実現することは不可能であろう。「移民国家」としてのアメリカも同様である。
哲学者のアルフォンソ・リンギスは、「何も共有していない者たちの共同体(the community of those who have nothing in common)」には「予想もつかない出会い(the encounter)」が不可欠だと論じる。そして、その起点を「他者の要求と異議にたいしてみずからを曝すとき」に求める(リンギス『何も共有していない者たちの共同体』)。

常に変化し続ける未知の他者と言葉を交わし、共に考え続ける。リンギスが考える共同体は、そのような〈エンド(終わり/目的)レス〉な営みによって支えられる。
その際、日々の営為の土台となるのは、他者の「弱さ、傷つきやすさ、死すべき運命(frailty, susceptibility, mortality)」である。それらに対して自らを曝すことでしか、「何も共有していない者たちの共同体」は実現しえない。「不可能図形」は立体化されず、「見えない」ものとして、いつしか記憶の彼方に雲散する。

リンギスがまなざす方向の対極にもまた、我々がよく知る別の共同体が存在する。青木さんの言葉を借りれば、「目に見えるもの、手に触れられるもの、数値化できるものだけを根拠」とし、「征服者の論理」と「強者の論理」で構築された、合理的かつ近代的な共同体である。
しかし、よくよく目を凝らしてみると、〈征服者/強者〉の論理は、〈被征服者/弱者〉を排除し、さまざまな保護の対象から除外するための方便にすぎないことがわかる。

本来ならば地続きでシームレスの〈こちら/あちら〉のあいだに人為的な境界を設け、〈こちら/征服者/強者〉の言動を正当化する。自分たち人間と彼ら「非・人間(non-human)」とはまったくの別物である。だから、自分たちの世界の道徳や法律は、彼らには適用されない。そういうわけである。アフリカ系アメリカ人として初めてノーベル文学賞を受賞したトニ・モリスンは、それら一連のプロセスを「他者化(Othering)」と呼んだ(モリスン『「他者」の起源』)。

Toni Morrison. The Origin of Others, Harvard University Press.
(撮影:白岩英樹)

むしろ、そのような「他者化」を行わなければ、〈征服者/強者〉は自分たちの蛮行に耐えられなかったにちがいない。他者を「非人間化(dehumanization)」することは、自己を「非人間化」することと同義である。第7代大統領アンドリュー・ジャクソンが行った先住民族のジェノサイドも、第3代大統領トマス・ジェファソンが子や孫たちへのプレゼントに黒人奴隷を贈ったという逸話も、その理路をたどらなければとうてい理解が追いつかない。

水平方向の意識から垂直方向の欲望へ

今日、「他者化」に端を発する戦争や分断はますます跋扈しつつある。だとすれば、我々はそれらを助長する〈征服者/強者〉の論理を押し返すと同時に、逆説的に〈被征服者/弱者〉の倫理をつかみ直さねばならない。その試みの最たるもののひとつが、光嶋さんが卒業設計時に対峙した問題意識「建築を弔うことは可能か」であろう。

建築には必然的に垂直方向への欲望がともなう。光嶋さんがアメリカ発の「オフィスビル」の変遷をたどりながら説くように、その動向に「都市の論理、資本の論理」がいっそう拍車をかける。建築はより効率的に多くの人間を収容すべく、垂直方向へ伸びるばかりである。周辺環境を睥睨するかのようにそびえる「スカイスクレーパー」は、いまやシカゴやニューヨークのみならず、世界中の都市に乱立する。

ニューヨークの摩天楼の森を眼下に望む

しかし、それとは対照的に、水平方向への意識に依拠した建築も存在する。「都市の論理、資本の論理」とは相即不離の〈個別化/私有化〉に対して、公共性を担保するのは、むしろ水平方向への〈架橋性/持続性〉であろう。そうした理念に基づいて、かつて伊東豊雄は「エフェメラルな(はかない)建築」を唱え、藤本壮介は「弱い建築」を主唱した。彼らの思想を発展的に継承し、〈負ける建築/つなぐ建築〉を提唱した隈研吾に言わせれば、「down to earth(地面の視点で)」構想された建築である(隈『くまの根』)。

建国当初のアメリカは支配階級となる王侯貴族が存在せず、水平方向への意識に準じた国家、のはずであった。だが、本連載の第4回でもふれたように、先住民族を激しく迫害し、彼らを排除することで領土を収奪すると、その土地でプランテーションを開発し、今度は黒人を奴隷として使役した。

セトラー・コロニアリズムの構造には垂直方向への欲望が渦巻き、その頂点に君臨するのはあくまで入植者たちであった。我々になじみ深い「移民国家」の衣をアメリカがまとうのは、南北戦争以後のことである。では、それ以前のアメリカをどう呼ぶべきか。それが「奴隷国家」「奴隷主国家」である(貴堂嘉之「移民の世紀」)。

垂直方向の繁栄を支えた「非人間化」

アフリカ大陸から運ばれた黒人奴隷は、奴隷船の内外で国家容認の搾取と抑圧、暴力に曝され続けた。母国では体制や社会からだけでなく、血縁や部族からも排除された「よそ者(strangers)」として売り飛ばされ、船内では〈モノ=商品〉として扱われ(航海中の死亡率は10%を超えた)、女性奴隷は船員から性的暴力を受けた(ハートマン『母を失うこと』)。

ようやくアメリカへたどり着くと、「皮膚の色による境界線(the color-line)」によって〈あちら/被征服者/弱者〉の側に追いやられ、いくらでも置き換え可能な〈労働力=資産〉として酷使された(デュボイス『黒人のたましい』)。「帝国」アメリカが彼らの「弱さ、傷つきやすさ、死すべき運命」に向き合うことは絶無だった。

1852年に出版されたハリエット・ビーチャー・ストウの小説『アンクル・トムの小屋』には、サイモン・レグリーなる南部の奴隷主が、黒人奴隷を家畜以下の〈労働力=資産〉として虐使する場面が描かれている。

「...いまはお分かりのように、病気だろうが健康だろうが、奴らを休ませたりせずにずっと働かせていますよ。黒んぼが一人死んだら、別のを買うわけです。どうみても、そのほうが安上がりで簡単だということが分かったんでさ」

ハリエット・ビーチャー・ストウ『新装版 新訳 アンクル・トムの小屋』
小林憲二訳、明石書店、399頁

レグリーのもとに売られた主人公の黒人奴隷トムは、彼から鞭打ちと殴打の暴行を受け、それがもとで落命する。

同作は刊行初年だけで30万部を売り上げた。米英両国では翌年までに総計100万部が読者の手に渡り、余波の拡大を恐れた南部各州は発行を禁止した。「奴隷制がどのようなものであるか(what slavery is)」を表現すべく書かれた同作への反響は、それほど大きかった。

Harriet Beecher Stowe. Uncle Tom’s Cabin, W・W・Norton & Company.
(撮影:白岩英樹)

1860年代に入ると、アメリカの黒人奴隷は400万人近くにまで増加し、その資産価値が国内すべての製造業と鉄道業の総計を上回る。垂直方向へ急激に伸びる「帝国」アメリカの成長は、〈征服者/強者〉の論理によって「非人間化」された黒人奴隷たちの苦役と、彼らの血がしみ込んだ大地の上に築かれていた。いわば、黒人奴隷から「盗まれた」繁栄だった。

弱者の倫理が可能にした「再人間化」

そのような垂直方向への欲望に基づいて築かれた〈奴隷国家/奴隷主国家〉の成立と存続に徹底して抗い、水平方向への「down to earth(地面の視点で)」つくられた「見えない」建築。それが「地下鉄道(Underground Railroad)」である。
とはいっても、地下に掘られてもいなければ、線路さえない。「地下鉄道」は、南部の奴隷州から北部の自由州やカナダへと、黒人奴隷の逃亡を幇助する秘密結社であった。

19世紀の地下鉄道「路線図」

当時の法律では、奴隷の逃亡は重罪。捕まると、二度と逃げられないように奴隷主にアキレス腱を切られたり、拷問によって虐殺されたりした。それに加え、1850年に可決された逃亡奴隷法では、自由州へ逃げた奴隷の捕獲が義務づけられ、彼らの逃亡に手を貸す白人たちにも厳しい罰が課せられた。

しかし、逃亡を取り締まる法律がいくら強化されようと、地下鉄道の運行が止まることはなかった。彼らは黒人奴隷の「弱さ、傷つきやすさ、死すべき運命」に真正面から曝されることで、「非人間化」された自他を「再人間化(rehumanization)」しあっていたのだ。人間が人間としての尊厳を取り戻すために、地下鉄道はなにがあろうと走り続けねばならなかった。

なかでも、「黒いモーセ(Black Moses)」と恐れられたハリエット・タブマンは異色であった。彼女自身も地下鉄道の支援を受けた元逃亡奴隷でありながら、「車掌(conductor)」と呼ばれる先導役として300人にもおよぶ奴隷を自由へ導いた。のみならず、自ら「誘拐者(abductor)」の務めにも果敢に挑んだ。誘拐者の役割とは、自由州から奴隷州へ舞い戻り、奴隷主から奴隷を解放すること。いったん自由州への逃亡を果たした奴隷が、さらなる危険を冒してまで誘拐者の役割を担うのはきわめて稀であった。

ハリエット・タブマン(1822-1913)

タブマンをはじめとする支援者たちは、垂直方向に伸びゆく〈征服者/強者〉の論理に対して、〈被征服者/弱者〉の倫理を水平方向へみるみる拡張していった。その結果、1861年の南北戦争開戦直前になると、地下鉄道のネットワークはアメリカ全州を網羅するまでに広がる。
とりわけ、「反奴隷制女性協会(Female Anti-Slavery Society)」が設立されていたマサチューセッツ州コンコードは地理的にも重要な拠点であった。R・W・エマソンやH・D・ソローも自宅を地下鉄道の〈駅(station)=隠れ家〉として提供し、エマソンやブロンソン・オルコット(娘は『若草物語』の著者として知られるルイザ・メイ)はタブマンとも接触していた。

ブロンソン・オルコット(1799-1888)

「合衆国」という幻想

BLM運動が次第に高まりを見せていた2016年に出版されたコルソン・ホワイトヘッドの小説『地下鉄道』には、逃亡する主人公コーラたちに向かって「駅員(agent)」が次のように告げる場面がある——「列車が走るあいだ外を見ておくがいい。アメリカの真の顔(true face)がわかるだろう」。

「アメリカの真の顔」とはいかなる面持ちか。それは「移民国家」という幻想の仮面をはぎ取った〈奴隷国家/奴隷主国家〉の表情にほかならない。
コーラがいくつもの州境を越えて辿り着いた自由州インディアナでは、逃亡奴隷を奴隷主に引き渡すか否かをめぐり、黒人同士でも意見が割れていた。そんななか、高等教育を受けた自由黒人のランダーは、アメリカ自体の欺瞞が問題の根底にあることを指摘する。

「アメリカこそが、もっともおおきな幻想である。(中略)この国は存在するべきではなかった。もしこの世に正義というものがひとかけらなりとあるならば。なぜならこの国の土台は殺人、強奪、残虐さでできているから。それでもなお、われらはここにいる(Yet here we are.)」

コルソン・ホワイトヘッド『地下鉄道』谷崎由衣訳、早川書房、440頁
インディアナ州およびミシガン州の地下鉄道ルート(1848年)
(書影以外の画像はすべてニューヨーク公共図書館デジタルライブラリより)

〈アメリカ合衆国=The United States of America〉において、〈統合された=united〉状態など初めから存在しなかった。それは壮大かつ尊大な幻想だった。連邦政府によって〈統合された=united〉のは〈州=states〉に過ぎず、憲法前文にある〈衆=we the people〉は建国当初から〈人間/非・人間〉の2者に分断されていたのだ。
ランダーは〈衆=we the people〉をさらに分裂させることなどしたくない。そのようなことをしても、「殺人、強奪、残虐さ」が再生産されるのは目に見えている。彼は同志たちに訴える。

「ホワイトハウスを建てたのは、黒い労働者たちだ。われら(we)、という言葉。われらはただ一種類のひとびとではなく、何種類ものひとびとの集まりだ。たったひとりの人間に、この偉大なる、美しい人種を代弁することなどできるだろうか(中略)だが落ちてゆこうとする者を互いに引っ張り上げることはできる。そして辿り着くときは、皆、一緒だ」

コルソン・ホワイトヘッド、前掲書、441頁

たとえ逃亡奴隷であろうと、「われら(we)」としてお互いを「再人間化」した仲間を引き渡すことなどできようか。「互いに引っ張り上げ」、「辿り着くときは、皆、一緒」であろうとしたのが、まさに人間の鎖としての地下鉄道であったのだから。先人たちが命がけで勝ち取った権利を決して手放してはならない、ランダーはそのように説く。が、白人たちの怒りを買い、彼らの謀略によって射殺される。

延ばせ、われらの時代の地下鉄道

我々の時代においてもなお、世情は悪化の一途をたどりつつある。
リアリズムに徹すれば、2024年も戦争と分断の時代が続くことは否めない。それでも、我々はいま、ここにいる(Yet here we are!)。その「宿命(fate)」はなにがあろうと変えられない。

だからこそ、我々はありったけの力を振り絞って、いま、ここから変えられる「運命(destiny)」に手を伸ばす。いかなる揶揄や嘲笑に曝されようと、自他のはざまで「見えない」存在に貶められている「ただならぬ対象」に目を凝らす。そして、「不可能図形」を描き続ける。
そこから「不可能立体」が実現されることがあるとすれば、それは「殺人、強奪、残虐さ」に曝された人々に対して、我々が我々自身の「弱さ、傷つきやすさ、死すべき運命」を曝し返すときである。地下鉄道とは「われら(we)」を拡張すべく、「何も共有していない者たち」によって心の内に掘られた「共同体」であった。

逃亡奴隷法の制定に抗議し、「本当のマイノリティはひとりだ(a real minority of one)」と宣言したエマソンにならえば、この世界に奴隷はたったひとりでも多すぎる(エマソン『エマソン論文集(下)』)。我々は一人ひとりが置き換えのきかないマイノリティとして自他を「再人間化」しあわねばならない。
心の内側に坑道を掘り進めながら、皆で互いに架橋した「われら(we)」の軌道を水平方向へ延ばす。線路は「見えない」し、運行表さえ存在しない。しかし、だからこそ、我々は世界中のどこへでも地下鉄道を走らせることができるはずだ。我々は我々の時代の地下鉄道を走らせ続ける。

〈引用・参考文献〉

貴堂嘉之「移民の世紀」、中澤達哉「1848年革命論」木畑洋一・安村直己責任編集『岩波講座 世界歴史16 国民国家と帝国19世紀』(岩波書店)

〈プロフィール〉
白岩英樹
(しらいわ・ひでき)
1976年、福島県生まれ。高知県立大学文化学部准教授。専門は<比較文学/芸術/思想>。博士(芸術文化学)。AP通信、東京都市大学、国際医療福祉大学等を経て、2020年より高知市に在住。著書に『講義 アメリカの思想と文学――分断を乗り越える「声」を聴く』(白水社)、共著に『ユニバーサル文学談義』(作品社)、翻訳書に『シャーウッド・アンダーソン全詩集』(作品社)などがある。

◉この連載は、白岩英樹さん(アメリカ文学者)、光嶋裕介さん(建築家)、青木真兵さん(歴史家・人文系私設図書館ルチャ・リブロキュレーター)によるリレー企画です。次のバトンが誰に渡るのか、どうぞお楽しみに!
◉お3方が出会うきっかけとなったこちらの本も、ぜひあわせてお読みください。

◉アメリカ開拓時代からの歴史や人々の暮らしの実際がもっと知りたい方は、こちらもぜひ!

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