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6 オフィスビルという欲望の建築の終焉 光嶋裕介

人間の生活と建築は常に密接な関係にあり、社会が大きく変化するたびに新しい建築が生まれてきた。
白岩さんの言うように、アメリカ先住民族は「大建築」を遺さなかった。だが、世界が高度に近代化した20世紀は、人間が集まって生活することを選択した時代となり、都市化が進んだ現代はまさに「大建築」の時代となった。生活の大きな部分を働くことが占め、資本を生み出す労働の場は工場からオフィスビルへと変わっていった。労働力は賃金となって分配され、モノやコトをお金で交換する経済活動が世界を覆い尽くした。お金が循環する資本主義経済が社会の中心に君臨したのが、20世紀である。

イギリスで始まった産業革命によって「工場」というビルディングタイプが誕生したように、資本主義経済による近代化が生んだ都市において量産された「オフィスビル」は、アメリカ発と言える。都市が成長するためには、なるべく大勢の人が一箇所に集まって活動するほうが効率がよい。限られた土地に最大限の床面積を確保するためには、建築を垂直に伸ばすしか選択肢はなかった。空をこする(scrape)「スカイスクレーパー」による建築の高層化は、都市の論理、資本の論理において、まったくの必然だった。

抽象化を極めたミースの建築

アメリカにおいて都市の高層化をリードしたのは、シカゴとニューヨークだ。オフィスビルの最高峰とされる建築が、ニューヨーク・マンハッタンに存在する。1920年代の大恐慌と戦争による長い停滞からの反動で建設ブームに沸いていた50年代初頭、1954年に竣工した《シーグラム》である。
設計したのは、ナチス政権下のドイツからアメリカに亡命した建築家ミース・ファン・デル・ローエ。ミースは、ドイツでモダニズムの礎を築いたバウハウスの第3代校長を務め、名実ともに近代建築の巨匠として世界的に知られる建築家であった。

多くを語らない寡黙でミステリアスな建築家ミースのメッセージは、いつも建築を通して発せられる。
自身の名言「Less is More(少ないほうが、豊かである)」が表すように、彼のつくる建築は、なにもないことで、多くを語る。不在の雄弁さ、徹底的に無駄を排除した美学が、彼の建築を純粋に貫いている。そのような合理性や機能性が究極的に探求された結果が、ミースのつくった均質空間「ユニバーサル・スペース」である。

1929年にバルセロナ万国博覧会のドイツ館として建てられた《バルセロナ・パビリオン》は、アメリカ亡命前のミースの代表作である。建築を構成する3要素、床・壁・天井が、それぞれ自律的に存在するも、息苦しいまでに抽象化されている。この「抽象化された空間」というのが、ミース建築の特徴であり、それは、装飾を消して均質化し、素材だけを全面に出すことで立ち上がってくる。

どういうことか。ミースの建築は、徹底的に抽象的であるがゆえに、「完璧さ」を備えている。全体として完全なのだ。この完璧さは、素材と素材を組み合わせるときなどの細部においても発揮される。
例えば、「目地」だ。目地とは、素材と素材がぶつかるときに発生する線、つなぎ目のことである。3メートルの壁を1メートルの大理石でつくろうとすると、3枚の大理石を留める必要があり、そこには2本の目地が生まれる。この2本の目地は、床と天井の仕上げにも影響する。
3メートルの天井を50センチのパネルで仕上げる場合には6枚のパネルが必要になり、その間に5本の目地が発生する。対して、床を60センチの石で仕上げると、目地が4本発生する。そうすると、天井の5本の目地のうち2本は、先の壁の目地とピタッと揃うが、床の4本の目地は壁と揃わない。目地が揃うか、ズレるかで、空間における緊張感がまったく違ってくる。
ミースの建築では、すべての目地がピシャッと揃い、柱や梁が空間にリズムを与え、完璧な秩序を生み出している。素材の構成を徹底すればするほど、空間が抽象性を獲得していくのである。まさにミースの至言「God is in the details(神は細部に宿る)」そのものである。

《シーグラム》ミース、ジョンソン、1954年

《シーグラム》の完璧さ

さて、ミースの晩年の仕事であるシーグラムにも、その完璧さは、遺憾なく発揮されている。20世紀を代表するビルディングタイプ、オフィスビルの最高峰である所以は、高度に抽象化された建築空間となっていることに加えて、鉄とガラスという20世紀の素材を駆使していることだ。
まず、その建築の造形における抽象性について、考えたい。ニューヨークの都市計画法は、一定の高さを超える建物が周辺に大きな影を落とさないように斜線制限が設けられているため、上層にいくほどガタガタと段差をつけざるをえない。あの有名な《エンパイア・ステート・ビル》のように、上に行くにつれて細くなっていくウェディング・ケーキみたいな塔は、キングコングが登るのには丁度いい。しかし、ミースはそれをしない。道路から建築をセットバックすることで周囲の日照を確保し、スーッとシンプルな直方体の摩天楼を実現したのだ。
建築史家の鈴木博之は、シーグラムについて「均質であることは、じつは無限に伸びてゆく建築のイメージなのであり、それが戦後のスカイスクレーパーの表現であった。同時に、これは永久に成長をつづける世界の象徴でもあった(鈴木博之著『都市のかなしみ』中央公論新社、2003、p324)」と指摘する。

シーグラムは、セットバックしたことで、無限に成長する美しいプロポーションを獲得しただけでなく、噴水のあるプールを2つ持つプラザ(広場)をも持つことになった。
道路ギリギリまで建てて道ゆく人々に圧迫感を与えるのではなく、ニューヨーカーたちに憩いの場を提供しながら、周りのビルとは異質な、黒いダイヤモンドのような輝きを放っている。こうした高層ビルの建ち方は理想的だとして、後に「公開空地」という法律が整備された。

シーグラムの「完璧さ」は、ガラスと鉄の素材にも端的に表現されている。フランツ・シュルツの書いた『評伝ミース・ファン・デル・ローエ』に、次のような一節がある。

ミースはカーテンにピンク・グレイのガラスを使い、それを挟み込むサッシには建築用金属のうち一番貴族的なブロンズを用いている。

フランツ・シュルツ著、澤村明訳『評伝ミース・ファン・デル・ローエ』鹿島出版社、300頁

高層ビルにおいて、建物自体の荷重を支える構造体とは別に、外壁にカーテンのように取り付ける壁のことを「カーテンウォール」という。これにより、自らの荷重だけを支えるガラスが主構造に取り付けられる工法が生まれた。カーテンウォール工法に加えて、鉄の溶接技術やエレベーターなどの設備機器の進化が、高層ビルの量産化を可能にした。
徹底して無駄を削ぎ落とすミースは、高層ビルでも鉄の構造体をそのまま露出したいと考えたが、建物の主たる構造体は、火災で溶けないように被覆する必要がある。そこで、カーテンウォールを支えるサッシにマリオンと呼ばれる線材を取り付けることにした。構造を露出できなくても、マリオン材をカーテンウォールの上から垂直に付けることで、天まで伸びる垂直性の意匠を強調したのである。しかもミースはサッシ材に高価なブロンズを使うことにこだわった。
ミースの設計には、いつも妥協がない。その潔さにこそ、世界に共感された禁欲的な「ユニバーサル・スペース」の本質がある。

《シーグラム》ミース、ジョンソン、1954年

マンハッタンでこそ実現した抽象性

抽象度の高い均質空間は、場所性から切り離される。モダニズムという建築スタイルが国境を越えて、「インターナショナル・スタイル」として世界に広がったのは、この装飾性を排除した合理的で機能的な考え方が支持されたからだ。
しかし、シーグラムが極度に抽象化した建築なのは、マンハッタンという都市のグリッドに由来する。東西にアベニュー、南北にストリートが交差する碁盤の目でできたマンハッタンだからこそ、ミースの線的な均質空間は説得力を増す。それは都市のグリッドを立体化させるような試みと解釈できないだろうか。

ナチス政権によってバウハウスを閉校させられたミースは、アメリカ亡命後、どのような帰属意識を抱えて建築をつくったのだろうか。ゲルマンの森から自由な国へ来たミースは、文明人として何を感じていたのだろうか。

ミースの集大成であるシーグラムがマンハッタンに完成する30年以上前に、彼がベルリンの中心街に計画した摩天楼の提案がある。
《フリードリッヒ街オフィスビル案(1921年)》。コンペに負けて、実現しなかった幻の建築である。しかし、一枚のドローイングは、その後の建築界に大きな影響を与えた。
ニューヨークの近代美術館でこのドローイングを観たときの衝撃は、忘れられない。木炭を擦り付けた茶色い紙に、見事にガラスが表現されている。周辺の石の建築が真っ黒に塗りつぶされていることに、ミースの強い野心が感じられた。
このときミースは35歳。まだ洗練されたモダニストではなく、当時流行した表現主義の影響からか、その平面は歪な葉っぱのような形態をしている。しかし、この提案にはすでに「ガラス」による透明な高層建築への夢が表れている。ミースは、それをアメリカで実現してみせた。

ミースとジョンソンが築いた摩天楼の礎

建築家ミースがアメリカで成功できたのは、シーグラムの共同設計者でもある建築家フィリップ・ジョンソンによる貢献が、決して小さくない。
ジョンソンは、一筋縄にはいかないソフィスティケートされた人物だった。マーク・ラムスターの書いた『評伝フィリップ・ジョンソン』には「20世紀建築の黒幕」という副題が付けられている。アメリカ社会の富裕層出身のエリートで同性愛者でもあった彼は「独創性なき天才」であると同時に「アメリカで最も憎まれ、最も愛された男」と言われた、とてもややこしく重層的な男である。ジョンソンのクライアントがドナルド・トランプ前大統領だといえば、少しは伝わるだろうか。

ハーバード大学で哲学を学び、父から譲り受けた巨額の財産があり、コネで近代美術館のキュレーターにもなったジョンソンは、尊敬するミースの亡命を助け、彼のアメリカ生活を支援した。ジョンソンにとって、ミースは20歳年上の尊敬すべき建築家だったが、決してそりは合わなかったらしい。
シーグラムの設計を共にした同僚は、次のようなコメントを残している。

あらゆる問題に対するミースのアプローチは、腰を落ち着けてから、考えて、考えて、考えるというものだったけど、その間にジョンソンの方は次から次へと案を思いついていくタイプだった。それでミースは発狂してしまっていたね。

マーク・ラムスター著、横手義洋監訳、松井健太訳
『評伝フィリップ・ジョンソン』左右社、305頁

先に完成したものの、ジョンソンの自邸《グラス・ハウス(1949年)》は、明らかにミースのアメリカ時代の代表作《ファンズワース邸(1950年)》のコピーである。

《グラス・ハウス》ジョンソン、1949年
《ファンズワース邸》ミース、1950年

2人の建築家の決定的な差異は、この2つの建築を比較することで見えてくる。どちらも鉄骨でできたガラス張りの透明な住宅で外の環境と同化しているが、ジョンソンのそれは地面にドンと座っていて、ミースのそれは軽やかに浮いている。グラス・ハウスがレンガを敷き、鉄骨柱を室内に取り込んでいるのに対し、ファンズワース邸はレンガのような重い素材を使わず、構造材を外に出しているのだ。これによって空間の抜け感、つまり抽象度がずいぶんと違ってくる。鉄骨についても、黒く着色したジョンソンと白くしたミースとでは、美意識が異なる。

《グラス・ハウス》ジョンソン、1949年
《ファンズワース邸》ミース、1950年(以上、撮影すべて:光嶋裕介)

いずれにしても、このような2人が協働して完成した奇跡のようなシーグラムは、その後世界中でひたすらコピーされ、似たような紛いものの高層ビルが林立することになった。合理的でコスパが良ければ、なんでもいい。こうしてシンプルで無個性な高層ビルばかりが建てられ、成長することでしか持続しない資本主義の風景、摩天楼が完成した。

建築を弔う、その先へ

21世紀に入って最初の年に、マンハッタンで初めてスカイスクレーパーが崩壊した。9.11の同時多発テロである。
日系人建築家ミノル・ヤマサキが設計し、竣工当初は「世界一の高さ」を誇った《ワールド・トレード・センター(1972年)》は、イスラム過激派による民間航空機を激突させるというテロによって崩壊した。それも、ツインタワーの両方にわずか17分の間隔で旅客機が激突し、それが全世界に同時中継された。高層ビルと航空機という20世紀を代表する2つの技術が、テロリズムによってぶつかり、理不尽な暴力によって豊かな資本主義の象徴があっけなく崩れたのである。

私は当時大学4回生で、22時からの「ニュースステーション(現在の報道ステーション)」で、その様子をリアルタイムで見ていた。身体中の力が抜けて呆然とし、ただただ信じられなかった。映画かなにかではないか。現実は小説より奇なり。これを見てしまった後に、一体どのようなフィクションが描けるというのか、打ちのめされたのをよく覚えている。
21歳の私には、その後の報道で、爆心地を意味する「グラウンド・ゼロ」と呼ばれ、無惨に崩壊した現場が「瓦礫」という言葉で一掃されていく光景が耐えられなかった。高校生になる直前に神奈川の叔父の家のテレビで阪神淡路大震災を見て、子どもながらに自然災害という観点から都市の脆弱性を感じてはいたが、まさか幼少期から家族で通っていたマンハッタンでいつも見ていたあのツインタワーが無くなったとは、想像できなかった。
建築を学ぶ学生として、卒業設計ではあの瓦礫報道への違和感と向き合うと決心し、「建築を弔うことは可能か」という問いを立てた。瓦礫を撤去するのではなく、そのまま負の歴史として覆い被す「ワールド・トレード・センターの墓」を提案した。

卒業設計《WTCメモリアル・センター》光嶋裕介、2002年

あのときの私にとって「建築を弔う」とは、高層ビルに変わる新しい建築のあり方を模索することを意味していた。合理的に、機能的に、抽象化された、均質空間を天へ伸ばす建築は、現代の情報化社会の映し鏡である。だとしたら、私たちは今、どのような建築を創造することができるのか、真摯になって想像してみなければならない。
20世紀を象徴するシーグラムが21世紀の私たちに伝えるメッセージとは、なにか。シュルツが、ミースの評伝で取り上げた建築家のロバート・ヴェンチューリによる、過度に単純化する「正当なモダニズム」批判は、その問いへのヒントになるかもしれない。

都市の病根が何であれ、多様性の豊かさ、変化の活力、フォルムや装飾の多義性こそ建築芸術により深い意味を与えることができるのであり、モダニズムはそれを追放してきた(中略)「Less is a bore(より少ないと退屈だ)」と、ミースの教義をあざけってヴェンチューリは抗議している。

フランツ・シュルツ著、澤村明訳『評伝ミース・ファン・デル・ローエ』鹿島出版社、323頁

ポストモダニズムの世界を切り開いたヴェンチューリの『建築の多様性と対立性』(伊藤公文訳、鹿島出版会、1982年、原書1966年)は、建築学生のバイブルとして世界中で読まれている。経済大国アメリカ発の建築スタイルは、世界へ普及した。いま私たちは、都市と建築と摩天楼、オフィスビルとモダニズムの関係から、人間が都市をつくって集団で生きるとはどういうことなのか、分断や衝突ではなく、それぞれの差異を認めた寛容な社会の映し鏡としての新しい建築のあり方を学び直すべきなのではないだろうか。
スカイスクレーパーができるはるか昔に先住民たちがしていたように、人間が人間以外の声に耳をすますこと、つまり精霊を介して世界を見ることから始めてはどうだろう。都市だって、地球上につくられるのだ。人間は、自然と相互依存する関係をもっと真摯に学び、自然との新たな関係をつくり直さなければならない。

〈プロフィール〉
光嶋裕介
(こうしま・ゆうすけ)
1979年、アメリカ・ニュージャージー州生まれ。建築家。一級建築士。博士(建築学)。早稲田大学理工学部建築学科卒業。2004年同大学院修了。ドイツの建築設計事務所で働いたのち2008年に帰国、独立。神戸大学特命准教授。建築作品に内田樹氏の自宅兼道場《凱風館》、《旅人庵》、《森の生活》、《桃沢野外活動センター》など。著書に『ここちよさの建築』(NHK出版 学びのきほん)、『これからの建築―スケッチしながら考えた』『つくるをひらく』(ミシマ社)、『建築という対話 僕はこうして家をつくる』(ちくまプリまー新書)、『増補 みんなの家。―建築家一年生の初仕事と今になって思うこと』(ちくま文庫)など。

◉この連載は、白岩英樹さん(アメリカ文学者)、光嶋裕介さん(建築家)、青木真兵さん(歴史家・人文系私設図書館ルチャ・リブロキュレーター)によるリレー企画です。次のバトンが誰に渡るのか、どうぞお楽しみに!

◉光嶋さんと青木さんがその出会いからを話す対談が収録されている、こちらの本もぜひどうぞ!


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