ポリコレの世界では、ロシア文学はどうなる?

 私がポリコレを是としない理由の一つは、貴重な文学作品が無くなってしまう可能性があるからです。優れた文学作品も、現代的な「人権擁護」という考えが生まれる前に書かれていることも少なくありません。ロシア文学も色々な観点から粛清されるでしょう。

 ドストエフスキーの「白痴」は題名からしてアウトでしょう。プーシキンの「スペードの女王」では、ドイツ人差別、精神者障害者差別と認識されそうです。トルストイの「アンナ・カレーニナ」も、自殺の描写は良くないと言われそうですね。なお、亡命ロシア人による文学作品に、ロリータ・コンプレックスの語源となった「ロリータ」という小説がありますが、こちらも未成年を性的な目で見るのは良くないと言われてもおかしくないでしょう。

 なお、ロシア語の原文を見れば、男女で過去形の語尾が異なりますし、名詞には性があります。日本語には名詞の性の区別がないので普段意識することはあまりないですが、ヨーロッパ言語の多くには存在します。いずれにせよ、日本語に訳した場合も男女で語尾が違う姓があったり、氏名以外に母称でなく父称を名乗らなくてはいけないので、ポリコレ的にはアウトと考えられ得る要素が多いです。

 ポリコレを極めることの恐ろしさをご理解いただけたでしょうか?