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なぜ夫婦同姓は合憲なのか?

 夫婦別姓訴訟の再審請求により、夫婦同氏を規定する民法が、合憲と判断されました。

 夫婦同氏規定については、以前から合憲とされていました。

 前回は裁判官のうち15人中10人が合憲と判断したのに対し、今回は合憲と判断した人が11人と一人増えたようです。↓以下参照

 NHKのニュースを読むと、大谷裁判長の意見がこう書かれていました。

6年前の判決後の社会の変化や国民の意識の変化といった事情を踏まえても、憲法に違反しないという判断を変更すべきとは認められない
どのような制度を採るのが妥当かという問題と、憲法違反かどうかを裁判で審査する問題とは次元が異なる。制度の在り方は国会で議論され、判断されるべきだ

*以下のリンクより引用

 夫婦同氏制度自体は合憲であるが、選択的夫婦別氏など夫婦別氏を認める制度を作ってはいけないということは言っていませんし、むしろ制度については国会で話し合うように言っています。

 ではここで、なぜ合憲判決が出たのか分析してみます。

旧姓使用が広がっている

 前回の裁判では、旧姓使用が広まっていることで大部分で同氏制度の不利益が解消されていると判断されていました。↓以下参照

 同性婚裁判の判断は、「不利益の解消」という観点から夫婦同氏制の合憲判断を考える上で参考になります。

 同性婚裁判では、同性婚制度がないのは「違憲」と判断されましたが、あくまでも政府が同性カップルに対して何も対策を講じていないことを違憲と言っているのであって、必ずしも「同性婚」が異性婚と同じものを指すとは限らないと言及されています。↓以下参照

 夫婦別姓訴訟で言う旧姓使用のように、同性婚できないことで不利益を解消することができるような仕組みを作っていれば、違憲判決が出ることはなかったでしょう。

 ちなみに、選択的夫婦別姓や類似案によっては、現行法の旧姓使用が使いにくくなる恐れがあります。それっていいのでしょうか?↓

何をもって「平等」とするかは難しい

 私は以前、以下2つの記事で、「平等」という観点から名前や言語の仕組みを考えるのは難しく、限界があるということを話してきました。

「選択的夫婦別姓」というと聞こえがいいですが、選択できるのは「同氏」か「別氏」のどちらかだけです。夫婦が新しく氏を作る「創氏」や、夫婦が二人の氏を重ねて作る「複合氏」を選択することはできません。(略)
現行法を「強制的夫婦同氏制」と主張するのであれば、「選択的夫婦別姓」は「同氏か別氏しか選べない制度」                 
「同氏か別氏しか選べない制度」を「選択的夫婦別姓」とあえて呼ぶのであれば、「強制的夫婦同氏または別氏制度」ということもできる
「名前を自由に名乗れる制度」が良いとは思いません。それが認められるのであれば、「名前を強制的に名乗らせるなんて!」という主張も通ってしまうからです。

(下のリンクより引用)

子供の氏を統一する場合は、氏を継承した人物による子供の支配とも表現することができる
子の氏も選択できるようになったとするとどうでしょう?今度は、親の氏を同数ずつ継承しないと「不公平」と言われるようになるかもしれません。しかし、子の数が常に偶数とも限りません。奇数の場合は、常に「不公平」感が拭えないでしょう。

(下のリンクより引用)

 仮に夫婦同氏制度を男女平等の観点から「不平等」としてしまうと、選択的夫婦別姓というよりも、一律別姓にしろという話になるのではないでしょうか?

 別氏に対する選択肢がないという観点から違憲判決が下れば、創氏や複合氏なども認めるべきという話になるのではないでしょうか?その場合、名前の仕組みをどこまで認めれば良いのでしょうか?

 選択的夫婦別姓が可能だとして、夫婦の氏の「平等」が達成されたら、次は子の氏が夫婦の片方の氏に統一されるのが不平等という話になるのではないでしょうか?(ただし、選択的夫婦別姓の内容になります)更に、子の氏が選択できたとしても、数に偏りがあったら不平等ということになるのではないでしょうか。でも、子どもの数を夫婦の氏が偏らないように偶数にすることは不可能ですし、できたとしても別の意味で「人権」という考え方と矛盾してしまうんじゃないかと思います。

 また、複合氏を認めたとして、今度は夫婦のうちどちらの氏を先に置くかという問題が出てくるでしょう。現に、複合姓文化圏には、「男女平等」という観点からどちらの姓を先に名乗るかについて法改正が行われている国もあります。(↓以下参照)

 あ、複合氏を認めたとしても、氏を繋ぎ続けると長くなってしまうので、繋げる氏は〇〇個までという規定ができることが予測されます(実際にそういう国もあります。)その場合、結局孫やひ孫に引き継げるのはどの氏か、という問題は残ったままですね。

 要は、以前私が書いたように、こういうことだと思います。

どこか一部を変えれば、次はここが良くない、と指摘されれるようになり、キリがないですし、最終的には言語そのものの仕組みを大きく変えなくてはいけなくなりますし、使える言葉が限られてくるでしょう。
「差別」の基準は非常に曖昧です。非常に曖昧な基準によるものをはっきりと法によって規定することは正しいことなのでしょうか?自然と言葉が変わっていく、あるいは十分に議論を尽くした上で変更する分には良いと思いますが、曖昧な基準を元に無理やり現存する言語を変えようとするのが得策とは思えません。

(下のリンクより引用)

 上の記事のテーマは「言語」ですが、同じく文化であり、理性的、合理的に考えきれない部分があるという点で夫婦同氏制度についても同じことが言えると思います。

 司法としても、合理的に語り切れない文化を巡る問題については、違憲と判断しにくいところがあるのではないでしょうか?

 実際に、司法も

婚姻を始めとする身分関係の変動に伴う氏の変更を含む氏の在り方が,決して世界的に普遍的なものではなく,それぞれの国の多年にわたる歴史,伝統及び文化,国民の意識や価値観等を基礎とする法制度(慣習法を含む。)によって多様であること(甲8の18頁から24頁まで。なお,そもそも氏を持たない国も存在する。)

*下のリンクより引用

と判断したことがあります。

 文化に影響を受けた問題なので、理性的に考えることは難しいという地点から出発するべき問題だと思います。