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綿帽子 第四十三話

それは突然やってきた。

記憶が鮮明に甦る。

何故今頃になって思い出したのか?

遥か彼方30年ほど昔に、一緒にバンドを組んでいたギターの彼の実家の電話番号を思い出した。

まだ携帯電話すら存在しない大昔の、しかも彼の実家の電話番号なんて。

特に会いたいわけでもない。

だが思い出したのだ。

同時に中学時代からの友人で、唯一親友と思っていた友達の電話番号も思い出した。

二人とも30年は連絡を取っていない、それを何故今頃になって思い出したのか?

そこにどんな意味があるのかさっぱり分からないが、とにかく俺は行動に出ることにした。

実家の電話番号なので、親友の家なら仮にご両親が出たとしても俺を覚えているかもしれない。

しかし、ギターの彼はどうなのだろう?

電話がまだ通じていたとしても、果たして彼はいるのだろうか?
彼以外の人が出たとして、快く話を聞いてくれるのだろうか?
本人が運良く出たとしても、まともに話をしてくれるかどうかも分からない。

それでも完全に忘れ去っていたのに思い出したのだ、これには何か意味があるのかもしれない。
市外局番から全てを思い出したのだから。

もしかしたら脳の上手く働かなくなった部分を補うように、何かが動きだしたのか?

そんな尽きない疑問を振り切って、とにかく俺は携帯を手に取った。

緊張して喉がカラカラになりそうだ。

深く大きく息を吸い込んで呼吸を整えてから、思い出した番号を打ち込んでいく。
果たして上手くいくのだろうか?

呼び出し音が鳴っている。

「はい、どちら様?」

「恐れ入ります。私〇〇と申しますが〇〇さんのお宅でしょうか」

「はい、そうですが」

やっぱりだ。
やはり完全に思い出したのだ。

電話に出たのは彼の母親だった。

俺は電話を掛けた理由を伝えると、自分のことも覚えているかと尋ねてみた。

しかし、時間というのは残酷だ。
思いの外反応が悪く、それどころか彼の話はまるでしたくないというような口ぶりだった。

これ以上話を引っ張るのは申し訳ないと思い、連絡があったことだけ伝えてくれるように頼んでから電話を切った。

あの優しかったお母さんがこうなってしまうのか。
記憶の中の彼の母親像との違いに戸惑いはあったが、やはりこれが現実なのだ。

30年という時間が経ったんだぞ。それを理解しろと、まるで見えない何かに訴えかけられているような気分になった。

そうだよな、分かっているんだ。
分かっているんだよ頭の中では。
だけど今はできることをやるしかないんだよ。

俺は気分を取り直して、今度は中学時代の友人の家に電話を掛けた。

「もしもし」

「〇〇さんのお宅ですか、私〇〇君と中学生の時に同級生だった〇〇ですが覚えていらっしゃいますか?」

「え?」

「あ、おばさん?〇〇です覚えてられますか?」

「え?ああ〜はいはい〇〇君、覚えていますよ。お元気でしたか?」

「良かった。お久しぶりです。おばさんもお元気そうで何よりです」

「あのね、〇〇は今此処に居ないんですよ。〇〇に住んでるの。〇〇君は今どちらに?」

「今、こちらに戻って来てるんですよ。それで久しぶりに会えないかと思いましてお電話させていただきました。」

「あら、そうだったのね。お母さんもお元気にされてますか?」

「はい、何とか元気ですよ」

「そうですか、それは良かったです。お母さんにもよろしくお伝えくださいね」

「はい、有難うございます」

「あのね、〇〇君。〇〇結婚したのよ」

「え、そうなんですか〜!それはもう私もそうですが良い歳ですからね」

「そうなの、それで今〇〇に住んでいて月に一度はこちらに顔を出してくれるの。子供と奥さん連れてくるのよ」

「そうなんですね」

お母さん彼が結婚した事がよっぽど嬉しかったようだ。
俺はどうなのかと聞かれるかと、ドギマギしたがその話題は出ない。
あれ?今孫と言わずに子供と言わなかったか?

「本当お久しぶりね〇〇君。じゃあ〇〇が来たら〇〇君から電話があったこと伝えたら良いのかしら」

「はい、すみませんおばさん。この電話番号で良いので伝えていただけますか」

「ちょっと待ってね、歳取るとね忘れっぽくなっちゃって、紙に書くから」

俺は電話番号を彼のお母さんが間違えないように、ゆっくりとした口調で伝え終わると、これ以上ないくらい丁寧に挨拶をしてから電話を切った。

先程との反応の違いになんとも心がざわつきはしたが、終わりよければ全て良いのだ。

前向きに彼の連絡を待つことにした。

最近の俺はというと、行動に特に変化はない。
あったとしたら本屋で数冊本を買い込んだことぐらいだ。

興味の対象がどうしても体が良くなるようにとか、人生が良くなる的なフレーズに目が行きがちで、自宅に帰ってから気づいたら自己啓発関連の本も一冊手に入れていた。

最初のうちはなるほど確かに言えてることもある、参考になるとか目を通していたのだが、如何せん。
やはりこういった本は一歩引いた目で見ないと危ない気がする。

自己啓発なので誘導されやすいワードが多く散りばめられている。

手に取った本がたまたま表現が極端なだけで、全ての自己啓発関連の本が一列横並びってことはあり得ないのだが、弱った心にこういう本は逆に毒なんじゃないかとさえ思えてきた。

自立機能を極端にやられた俺は、以前からの病気も相まって感情のバランスが危うい時がある。

それを軽減できたらと色々と手を出してはみるのだが、心弱い時にこういう本に触れるのは危険な気がした。

その本の中に瞑想の項目があり、なんでも実践な俺は当然試してみた。

結論から言うと、本の内容通りに試した割には同様な効果は得られず、むしろ独自の感覚に入り込んでしまった感がある。

このことも踏まえて、弱った心には危険だなと思ったのだ。

本に書かれている通りの手順を踏んでも、結局は自分なりになってしまう。

やはり専門家の指導の下で行わないと、自らの制御が難しい。

瞑想にトライしている間に俺は不思議な体験をした。

宇宙を見た。

正確に言うと、俺は地球の外側から青く輝く美しい地球を眺めていた。
そして何故か体がとても暖かくなって楽になったのは覚えている。

自分の意識を自分の胸の辺りに月があったり、今度は太陽があるとか色々とイメージしながらやっていたら、突然地球の外から地球の景色が見えだしたのだ。

これは普段からの雲や空の見え方にも関係しているのかもしれない。

目の前に見えている景色は目から入ってくる情報を元に脳が作り上げてそう見えていると認識させる。
ということは、全ては弱り切った俺の身体が脳に作り上げさせた幻影なのかもしれない。

宗教画の様な雲や空や、ひょっとしたら町人や無数の小人の目もそうなのかもしれない。

そして俺は瞑想家でも、そういった事の大家でもなんでもないので、起こってしまった事実に多少は恐怖を感じる。

ただ、脳っていうのは上手に扱うことさえできれば、自己治癒力を高める最良の方法を見つけ出すことも可能かもしれない。

病は気からというのは結局この辺のことを表しているのかもしれないのだ。

瞑想に少々恐怖を感じた俺は、それならまずこのイカのようになった体を芯から立て直すことはできないものかと考えた。

手元に同時に手に入れたサッカーの長友選手の体幹トレーニングの本があった。

DVD付きでトレーニング方法を真似しやすいようになっているのだが、今の俺はDVDの動きにさえ付いて行くことができない。

内容がハードなのは勿論だが、それ以前に本当に自分の体を思いどうりに動かすことができないのだ。

イカどころか、もはやミミズのアクション俳優の如く体がグニョングニョンなのだ。

数十秒間トライしたところで諦めがきた。

そして俺はFacebookに投稿した。

「最近長友選手の体幹トレーニングの本を手に入れました。もう少し落ち着いたら試そうかと思っています」

俺としては特に深い考えなしに投稿したのだが、それでも反応してくれる人がいた。

「ダメでしょ、いつかやろうじゃなくて、今からやろうでしょ」

「う〜ん、言われちゃったか」

言い訳はしたくないんだけどミミズが事実なんで、ミミズからポッキーくらいになったら行けそうな気がするんだけどな。

伝わらないか、所詮SNSだもんな。

「〇〇さんすみません、そうでした。口に出したらすぐにやらねばを忘れていました」

コメントに返事を書いた。

そして長友選手推薦のトレーニングを再開した。

「連動を意識な、連動を」

「なんだお前、結局やるのか?」

と、神様にでも聞かれたらこう答えよう。

「ミミズのままで居るよりか、せめてポッキーでは居たいんだ」


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