どうしようもない自分のまんまで信頼すること
昨夜インスタグラムに書いたことなのですが、今朝になってもうすこし深く書きたかったので、note にも。
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子どもの頃からずっと自信のないわたしがここ最近理解したことがあります。それは、じぶんを信頼するというのは、だめなまんまで、信じるということ。たとえば何かすごい力があるとか、すぐれているから、信じられるのでは無いのでした。だめというのか、心底どうしようもない、そのじぶんにできると信じることが、ほんとうの信頼。
あまりいいふうに使われないけど期待、にも似ているし、念ともいうかもしれないです。必ずできるのだという、しいん、と静かな予感。耳を澄ませていないと聴こえなくなりそうなのに、やわらかい耳鳴りみたいにいつも、すぐそばで聴こえてもいる。それがなぜか、びっくりするくらい自信のない子どもだったのに、そのころからずっとある。
今でもこんなに情けなく、よわよわしく、すぐひっくり返って、人がするんとできてしまうことができず、心のなかは一瞬にして何も見えないくらい曇ることもよくあって、初めて書いた本に『やさしいせかい』なんて題名をつけているのにいじわるな気持ちも竹の子みたいにでてくるし(だからこそ、やさしさに敏感なのだけれど)、それで、なのに、どんなにしてもなくならない。
最近また、その気持ちがふいにつよくやってきたことがあり、そうなんだなあほんとうに、私は私がだめなまんまでじぶんを信じることができるんだな、と思ったのです。
ほんとうにあきらめの悪い人間でして、とか、なんちゃってね、とか、べちゃっとした謙遜やおちゃらけや探りあいともまるでちがって(私はそういうもの、つまらない嘘やまやかしなどのおなじ心意気から生まれてくるものが世界三大苦手)、ただ、もうただ、真っ直ぐにそうであるということ。
その揺るがなさは、じぶんじゃないものからやってくるものだからだろうと、そういう気がしました。私の生きている世界に巡っている信頼を、私が受け入れることが自信につながっているというのか、そんなふうな仕組みだとも。あとはじぶんを、時間をかけてその信頼にぴたっと、寄り添わせられるか。初めからぴた、でなくてよく、ゆっくりぴた、に近づいていけるということを、少しづつ理解しています。
そういえば、まわりを見渡しても、ほんとうに自信に満ちている人というのは、じぶんのこういうところが特別だからとか、こういうことができるから、こういうものを持っていて、こういう地位にいるからというようなことによって、自信があるようには見えない。ただその人の、そのまんまを自然と受け入れていて、それがそのやわらかい、だれも攻撃しない、こちらをはっとさせる、うつくしい自信になっているというふうに。
昔はそういう人をみると、きっと親の愛情をめいっぱいうけてすくすく育ったのだろうなあと、すぐに思うくせがあったけれど、当たり前だけれどそれは、ほんとうにどうかはわからない。もちろんそういう人もいるだろうけれど、たとえそうでなくてもそのたたずまいは意思や、繊細すぎるなら繊細すぎるなりの感受性を育てることで成るものでもあり、きっとじぶんにも自信をもつことはできるのだと今は、感じています。
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