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自分と世界がイコールになる日のために

中沢新一さんと山極寿一さんの対談「未来のルーシー」を読んだ。山極さんの言葉を読むのは初めてで、とても好きになった。


狩猟採集民は安定志向で、世界に何らかの変化をもたらしたら必ずその埋め合わせをせねばならない、世界を変えることはいけないと思ってきたけれど、一粒が万倍になり、まったく別のエネルギー状態を発生させてしまう農耕民として歩み始めた人類は、変化こそが大きな利益をもたらす可能性に気づき始めたらしい。

狩猟採集民は、たとえば森から木の実やら野生の生き物やらを生きるために奪うのならば、こちら側も代わりに何かを差し出すなどして必ずエネルギーの埋め合わせをする。たとえば森に入るときは言葉を一切慎むとか、森は入る前の夜はセックスをしないなどがあったそうだ。神話というのも、過剰を減らすことや矛盾を解消することがその重要な機能であったそうで、だから生きるために森へ入らなければならなかった人類が、森にまつわる神話を世界じゅうで作っていったのは必然なのだろう。

ところが農業革命が起こり、狩猟採集民の信じていた「エネルギー保存則」が破られた。それまでは育てるのではなくあるものを採る、1=1の世界で生きてきた人類が、農業によって一粒のたねが千倍、万倍に変化すること、1=∞の世界を知り、狩猟採集時には遭遇しえなかった全く別のエネルギー状態を経験するようになる。それまで世界をなるべく変えることのないように、秩序を乱すことのないようにそっとそっと生きてきたのが、まるで別ものの秩序が出現してしまい、そして変化というものによって大きな利益がもたらされる可能性に、気づいてしまった。

これはきっとめちゃくちゃショッキングな出来事だったに違いないと思う。長い間、変化を避け、1=1の世界で常に世界とイコールになって生きてきたのに、ひょっとしたら変わったほうがずっともっと良いことがあるのではないか?という真逆の流れへと全体が突き進んでいったのだ。この変化の可能性に気づいてしまったことは、今の資本主義の志向の大元にあるのだという。同じままではいけない、留まっていてはいけない、安定は悪である、というもの。

だからこの日本で農耕を最後まで拒み続けた縄文人がいたというのもうなづける。すんなり受け入れるのはハードルが高すぎる、あまりにも理解の範疇を超えてくる発見であったはずだから。同じく農耕民として生きる人生へ移行した側にも、最後まで疑問や抵抗をした人もいたのではないか。世界の秩序を、こうも簡単に変えてしまって良いのだろうか。バチが当たらないだろうか。天変地異や不幸が起きやしないだろうか、と。

そしてこの狩猟採集民と農耕民の経験したであろう、何かを変化させることでまだ見ぬ世界を見たいのだ、味わいたいのだと蠢く春の虫のような野望と、一切を変えずに今のままのエネルギー状態を留めることに安寧や秩序を見出そうとする心の葛藤は、遥か時を超え現代日本の片隅に生きるわたしという人間のうちにも深く潜んでいる。どちらかといえば農耕民としての生き方を地でいこうとするわたしの中で、対抗する狩猟採集民が蠢くのをやめないのだ。

この世界と自分がイコールではない苦しさは、生まれたきた時からずっとわたしという人間の奥底で暴れ回っている。そしてこの底は、もっと深いところでもっとおおきなもの、人類の共有する意識のような大極と通じているはずだという予感を拭えない。これは、狩猟採集民から農耕民へと変化することを選んだ人類にもたらされた宿命なのだろうか。いつの日かどうにかイコールになりたくて、そのための道を模索し実践していくのがわたしにとっての生きるということだと、最近は理解しつつあるのだが、果たしてどうか。

余剰のない世界、矛盾のない世界をその日その日繰り返し生きてきた人類の現状維持の力。余剰につぐ余剰を生み、留まることをしらず、変化しないではいられない生をむさぼる定めとなってしまった人類の果てなき上昇志向。この二つの大きな揺らぎ、それが始まった日から止まることなく、それどころか揺れ幅を増やしながら揺らぎつづけることに、決着がつく日がくるのだろうか。それともまったく別の次なる秩序が現れるのだろうか。成人式(出席していないが)から、十年余り。わたしという宇宙の中でこの揺らぎはますます大きくなるばかりだが、敬愛する福岡伸一さんも述べておられた気がするのだが、この揺らぎこそが生きているということなのかもしれないと、ようやく自分の経験として思えるようになってきたかもしれないとは言える。

わたしの体も、心も、つねに揺らぎっぱなしだ。絶えず狩猟採集と農耕を行ったりきたり、もう飽きるほど、実際飽きているし、嫌になる。弱っているときはこんな自分にまったく自信がなくなりもする。それでも、わたしはこの揺らぎを生きていくしかない。いつの日か安定するときはくるだろうと信じ、振り子が止まる時にも思えるそれは生きているうちではないかもしれないが。逆に言えば生きているうちに振り子が止まることはありえないともいえて、もうなんともいえない。でも、ただわたしにできることは、自分と世界がイコールになる日のために生きること、その一点なのだ。




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