日記を書いている「私」はだれなのか
先日、日記とは一体何か?なぜ私たちは日記を書くのか?について思案したことを書いた。そのつづきを今日は書いてみる。
なぜウェブ上に日記を残すのだろう?
次なる問いが、ウェブ上に日記を残すことは、紙の上にペンでそうすることと何がどのように異なるのだろう?だった。
自分のためだけに日記を書くのなら、誰にも見られないノートに書きつければいいだろう。そうはせずにウェブ上に書くということは、私はウェブというのに全然明るくないからよくわかってはいないが(つまり自分だけが閲覧できるようにするプラットホームがあるのかもしれないが)、少なくともノートに書く時よりははるかにだれかに、それも顔もしらないずっと遠くにいるだれかによって見られる可能性があるということをどこかで分かっていながらすることだろう。
むしろそのために(誰かに見られるために)そうする人だっているだろうし、ウェブが当然のように生活の一部である時代なので紙とペンを取るよりも自然な流れでそうしただけだという人もいるかもしれない。
自分の場合はどうなんだろう?と考えてみると、やはり前者に似たもの、つまり「誰かとつながりたくて」ウェブ上に書いているような気がする。
人は人のあいだで生きている。でも、自分の身近な人も知らない自分というのがいる。その人にこっそり、しかしちゃんと居場所を与えたい。そう思うとき、自分と呼ぶのかよくわからないけど確かにいる自分のような人が、ウェブ上のどこかで見知らぬ誰かとふと出会い、そっと繋がることができるように、日々淡々とウェブ上に日記を残すのかもしれない。
そこに記された記憶なり体験は、身近にいる人たちと三次元で共有されたものもありながら、されえなかったものでもある。会話にのぼることもなく、やりとりされることのなかった、形を与えられることのなかった、自分のなかだけに留められたもの。それらにもちゃんと居場所を与えたいという欲が、私には昔からあるように思う。
あるいは、絶えずくり返す日々のすべてをひとりの体に抱えていくことはできないから、少しづつ古いものだったり、もう自分には必要じゃないように思えるものにお別れを言っていくしかないのだが、そうして二度と触れられなくなってしまうことを恐れているし、まるで何もなかったかのように思い出せなくなってしまうのも惜しい。だから、それらのことを「安心して忘れるために」自分にとって必要な場所として想定していないだれかと繋がれるウェブ上を選んでいるのかもしれない。自分は忘れてしまうかもしれないけど、どこかの誰かの記憶にそっと留まることができるかもしれない、と。
そうこうしている時、坂本龍一さんのこんな言葉に出会った。
坂本さんの言葉は、日記というのは自分のために書くだけのものではない、と言っているような気がした。やっぱり人は人と繋がりたい、人は人に何かを伝えたいーーその「人」というのはあとになってその日記を読み返す自分自身もふくんでいるーーそのために自らに起きたことを日記の形で”語られるべき物語”にしているのではないか。
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出会い直す、書き換える
もうひとつ、日記についてまた別の角度から捉えたもので、印象的でかつ今の自分にとってとても共感する西加奈子さんの表現があった。
祝福でもあり、呪いでもあるーーー。西さんがおっしゃっているのとおなじようなことを、私もたまたま感じていた。西さんの使っている言葉を同じように使わせてもらえば、たとえばしんどかった日に「しんどかった」と日記に書く。それは誰かに見られることを前提に体裁をよくしようというのがないので、ただ正直な気持ちである。そのときの自分にとっての事実である。
でも、そうやって素直な気持ちで綴っていった日記をある程度時間が経ってから読み返したとき、当時のリアルはリアルなのだから肯定するよりほかないのだが、いっぽうでそれだけではなかったという気というより確信めいたものがむくむくと湧き上がってきて、西さんの言葉でいうとその感情だけの名前がついた日だったわけがないという、つまりほかにその日を表現しうるものの可能性がいくつも当時の自分の中に実はあったのだ(表に出てこなかっただけ)ということに初めて気がつく。
それはおなじく西さんの言葉を借りれば、「その四文字だけじゃ足りない、もっと自分を客観的に観察したいと思ったんです」にあたるものだと思う。日記上に文字として落とし、自分からいったん切り離したことで客観的にみることができるようになった過去の自分の一日が、当時とは少しちがう表情をのぞかせているのを知ったのだ。そして、それを見なかったことにはできないと私は感じた。
西さんはその動機からノンフィクションを書き始めたと言っている。私はまだその技量がなく、というかどうしたらそうできるのかその道すじがなかなか見えず、なのでまだ自分はノンフィクションへいく前の段階にいるのだろうなと思いながら、そうやって未来の自分がある種の違和感を感じ得た過去の自分の日記を、新しく書き直す(リライトする)ということをした。
その行為は私のなかではフィクションを作るのとは違った。その当時は表にでてこなかった、たとえば「しんどい」の裏に隠れていたべつものの存在に出会い直したからそうしたのであり、それもまた私にとって「しんどい」とおなじくらいの真実であるように感じたからそうしたのだった。
そんなふうに新しい日記を立ち上げていくという過程を経て今、自分という範疇を超えた形でなければ(つまり日記ではない形でなければ)書けないものがあるという結論に出会った。
自分というものが一体なんなのか、そんな人はほんとうにいるのかという問いにも通じているが、日記という形では表現しきれないものが、自分の経験したものの中にあるということ。よくわからないけれどいるような気がするし、いないような気もするこの自分自身に起こったできごとであるのだが、その経験の主体を自分であるとはっきり言い切れない気がどうしてもすること。
そういう、何かと何かのはざまで息をしている、あっちでもこっちでもなさそうな何かが経験したできごとを今私は書いていきたい、書く必要があるだろうと思う。そういうタイミングで國分功一郎さんの「中動態の世界」に出会ったことは大きな意味がある。する(能動)でもなく、される(受動)でもなく、行為の主体は一体何なのか。
また「私」が生まれてすぐに亡くなった姉に体を貸す(主語"私"の中身が本の中で私→姉→私に変わる)という設定がでてくるハン・ガンの「すべての、白いものたちの」や、小説でありながらその主人公に自分自身を重ねて書いていた(あるいは自分自身が架空の人物であるはずの小説の主人公に侵食されていた)リルケの「マルテの手記」を読み始めたのも、このような現在の自分の興味が手繰り寄せたのであろうと思うと興味深い。日記を通して自分の所在を問うことになるとは思っていなかった。
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