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月日と踊る|幕あけ、二〇二三


2023.1.2

浅草にてパートナー一家とごはんを食べる。わたしとお母さんは五目釜飯、あとのみんなは鰻重。釜飯が好きなわたしは今まで色々なところで食べたけれど、いちばんの味は根津の松好さんで、あそこに勝る味はやっぱりないなあ、別格だと食べながらぼんやり考える。なぜあんなに違いがでるのだろう。それと思うんだけれど、これはまちがいなくおいしくて素晴らしい料理だとわかっているものはひとりでも食べられるのに、そうではないと思っている料理をひとりで食べるのはほんとうに虚しくて、胸を思いきりかきむしりたくなる衝動にかられる。あれもなぜだろう。今日の釜飯は決してまずいわけではないし、でもひとりでだったら決して食べようとは思わなくて、こうしてみんなで食べることができたからおいしいと思える。ひょんなことすぎる縁で出会った人たち。パートナーのお兄ちゃんが手土産に舟和の芋羊羹を持たせてくれる。

解散して荒川区に住む両親を送り届け、日本橋をうろうろ。東京に住んでいた頃によく映画を観に行ったコレド室町に入っている群言堂で気に入った綿のタートルネックがあったので買おうとレジに持っていったら、それまでどこかでふらふらしていたパートナーがすんと現れて無言で買ってくれる。とくになにも言われなかったけれど、今日ぼくの家族と一緒に過ごしてくれてありがとう、というタートルネックだと思う。いつもは気持ちを言葉にすることをしないのに、パートナーの家族と過ごしたあとは決まって「ありがとう」か「おつかれさま」と言われる。おばんざいの店で早めの夕飯を食べ、夜道をすいすい帰宅。蛸と九条ねぎの土鍋ご飯がおいしかったけれど、まるで油を塗ったように米も具材もつやつや光っていたのはなんだったのだろう。油をたらし入れて炊くのか。

当たり前だけれど、去年のおなじ日からちょうど一年が経つ。子ども時代、十代、二十代、そして三十代、ちがう星に移っていくかのように時の感覚がまったく違って思える。月日と複雑なダンスを踊っているよう。




2023.1.3

母から届いたおせち数品と鍋の残り、お赤飯で朝ごはん。去年いただいた無農薬大根がさすがにしなしなになってきたので千切りにして干す。小さな山を抜けて三十分ほどの神社へ散歩がてらお詣りに。山道で、生後数ヶ月に満たない赤ちゃんを抱いた男の人に道を聞かれる。きれいな傷口のような赤ちゃんの目はなにもとらえておらず、呼吸をしているかさえ不安になるくらい小さくたよりない。

荷物を出すのにコンビニに寄ると、駐輪場に止めた自転車のそばに立ち、前カゴに無造作に突っ込んだかばんの影に隠れるようにしておにぎりをむさぼる中年主婦風のおんなの人がいて気になってしまう。いつかのわたしのようでもある。もうすぐで体じゅうの水分が抜けきってしまいそうな、どこを見つめているのかわからない交通整理員のおじいさんも、モーゼのように道を割りながら誰も彼もはねのけて歩くうつろな目の青年も、スパイダーマンの着ぐるみを着てたのしそうにバイオリンを弾く中年のおじさんも、みんないつかのわたしかもしれないとよく思う。
人とすれ違うのが好き。すれ違いざまにその人の人生を垣間みたような気持ちになる瞬間が好き。あまりに一瞬なのであっというまに永遠になってしまう、あの魔法を生きているあいだはずっと感じていたい。帰りがけ、ふだんあまり通らない道の家々を眺めていると、正月飾りを透明のパッケージに入れたまま飾っている家がある。こちらも気になって仕方がなかった。




2023.1.4

朝一で葉山近代美術館へマン・レイと内藤礼さんの展示を観に行く。どうしてこのふたりが同時期にと思ったけれど、レイとレイ、ということか。内藤さんの『すべて動物は、世界の内にちょうど水の中に水があるように存在している』、昨年豊島美術館でみた「母型」がとてもすきだったのでたのしみにしていた。じっさい、良い時間だった。この地上の生とその外側にある存在や時間との連続性、循環性を感じていただけたら、というようなメッセージが書いてあったけど、そういうの大好きだ。『マン・レイと女性たち』のほうは、今はもうこの世にいない人たちのぎらぎらした生を焼き付けた独特の写真にいのちの短さや太さを思いながら、けれどこのテーマで男性でなくて女性のキュレーターによる展示であればもっと観たかったのにと思う。

ところで日本の美術館の監視員は信じられないくらい大真面目にしごとをしているので、落ち着いて作品に没頭するのがむずかしい。軍隊のように背筋をぴっと伸ばして立ち、微動だにせず、目だけは空間じゅうをくまなく動き回っている。椅子に座っている場合でも猫背の人なんてみたことがないし「疲れた」とか「だるい、やってらんない」みたいな表情や態度の人にも会ったことがない。任務に忠実、というかそもそも監視することが任務なのだろうか?どこで教育されたらこんなに人間性を消し去って機械のようにふるまうことができるのか?などといつも疑ってしまい、作品よりもそっちのことに気を取られることも多い。

思い返せば、台湾で行った美術館は、どこもスタッフ同士がたのしそうにくすくすおしゃべりしていて持ち場になんていやしないし、もちろんそのせいでお客さんのだれかがずるをしたり悪事をはたらいたりなんてことはなく、スタッフのリラックスした態度のおかげでこちらも緊張せずに鑑賞ができた。全体がのどかでほのぼのした空気に満ちているのがすばらしかった。作品たちものびのび呼吸をして気持ちが良さそうに見えたほどだ。

ベルリンでも、スタッフは一応いるにはいるけれど客には無関心という感じで、おのおの自分の時間を過ごしている人が多かったように思う。どの人たちも自分の頭で考えた選択の結果としてそうふるまっているんだなというのがわかる。だからこちらまで居心地がよくなるのだなと思ったし、美術館ではたらくというのがどういうことなのか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・、あるいは自分がいるのが一体どんなところなのかを・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ちゃんとわかっているのだと思う。

いっぽうで日本の場合は真逆で、今日の人もひどかった。受付でチケットを見せないと入場できないのだから、中にいるのは皆ずるなんかせずきちんとチケットを購入している人だけに決まっている。それなのに、ひととおり観終わったあとに(出口はでていない)引き返してある小部屋にもう一度入ろうとしたら、入り口に立っていた人に「戻ってくる方に対してはチケットの提示を求める決まりになっておりまして」とかなんとか言われ、頑なに引き留められる。なんて融通が効かないんだろうこの人は、自分の頭で考えれば相手も自分も無駄や嫌な思いをせずに気持ちよく過ごせるのに、とさすがにいらいらする。

日本の社会に蔓延っている"ルール"はそもそも的を得ていないものが多い。もちろん、お互いに嫌な思いをしないために守られるべき必要なルールはあるだろう。それでも"ルール"は守ることがすべてなのではなく、それを目の前にしたときにしっかり自分の頭で考えてみることができるかどうかが大切なのであり、相手も自分も心地よくいられるために他に優先すべきことが生まれる瞬間というのもあるし、あくまでケースバイケースのなまものであるという前提で守られるべきであるはずだと私は思う。

つまり時としてルールは破られてうまくいく場合というものがあるのにもかかわらず、とにかくだめなものはだめ、例外はない、という態度が多すぎるのだ。入り口のスタッフの人人だってきっといちいちちまちまと確認を求める行為をナンセンスだと思っていないはずはないと思うのだが(そうでなかったらほんとうにまずいだろう)、それでも偉い人に怒られるからなのか、訪れた人に美術作品を柔軟にたのしんでもらうことではなくルールを守らせることが使命だと勘違いしているのか、とにかく頭が固くていやになる。美術館の監視員に限らずで、こういうことは日本の社会の至るところにあるように感じる。

昼はなると屋さんで食べたかったけれど並んでいたので、スーパーで魚などを買う。帰宅してもちを焼き、セロリと帆立とくずきりの中華風スープを作ってお昼。今半のくずきりは世界の向こう側まで見えそうなほど透き通っていて、そしておいしい。もちがおいしく感じる正月はいい。ところで積読がたまっているのにもかかわらずどんどん本を買ってしまう。今日はダロウェイ夫人などをフリマサイトで数冊。夜はお買い得のぶりでぶりしゃぶ。





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