雑記:鎌倉の古寺・史跡、その三
比企ヶ谷を抜けて、そこからさらに南の材木座方面に進むとJR横須賀線の踏切の手前に辻の薬師堂がある。
現在は小堂が建つだけであるが、この薬師堂は元来は源頼朝の創建と言う東光寺(現在の鎌倉宮のあたりにあった寺院で、護良親王が幽閉され、後に足利直義の刺客に暗殺された場所である)にあり、明治時代になって残った薬師堂だけが現在の場所に移された。
かつて薬師堂にあった仏像は、現在鎌倉国宝館に所蔵されており、常設展などで見ることが出来る。
本尊の薬師三尊像が補修がだいぶ加わっているが元々は平安時代の作で、十二神将像は鎌倉時代の作(四作のみ室町時代の補作)であり、覚園寺の十二神将に造形がよく似ており、覚園寺十二神将のモデルと言われている。
なお、現在薬師堂内には薬師三尊と十二神将のレプリカが納められており(十二神将は二体のみ)、ガラス越しに拝観出来る。
道を戻って西の長谷方面に進み、バス道を江ノ島電鉄沿いに進むと長谷観音で有名な長谷寺に突き当たる。
長谷寺前の交差点に行く手前には、甘縄神明神社があり、この地は源頼朝の側近・安達盛長の邸宅があった場所である(石碑では「足立盛長」となっている)。
安達氏が盛長以降、景盛、義景、泰盛と続き、北条氏と姻戚関係を持っていたことから栄え、特に泰盛は北条時宗の岳父(妹で養女となった堀内殿=覚山尼が時宗の夫人、時宗の祖母の松下禅尼も安達氏の出身で、泰盛の叔母に当たる)であったことから、時宗の子で九代執権貞時の外祖父として比類なき権勢を誇ったが、後に得宗専制を目論む貞時の側近・平頼綱らと対立し、世に言う「霜月騒動」(泰盛は秋田城介兼陸奥守に叙任され、城陸奥守とか秋田城介とか呼ばれたために「秋田城介の乱」とも呼ばれる)で討たれた。
北条時宗は安達邸で生まれたことから、甘縄神明神社の境内には時宗の生誕地として産湯の井戸も残る。
甘縄神明神社の西北にある高徳院は、鎌倉の大仏がある寺院として知られる。
与謝野晶子が「美男におわす」と詠んだ大仏は阿弥陀如来、鎌倉期に流行した宋風の様式が取り入れられた仏像で、鎌倉時代を代表する彫刻として国宝に指定されている。
かつては大仏殿に納められていたが、早い段階で倒壊して現在は露座である。
長谷から由比ヶ浜方面に下り、西に向かうと極楽寺坂に差しかかる。
鎌倉をめぐる七つの切通の一つで要害の地であり、新田義貞の鎌倉攻めでも激戦地となり、義貞は結局ここを攻め落とせずに稲村ヶ崎から海伝いに鎌倉に攻め込んだ(稲村ヶ崎に太刀を投じて潮を引かせたと言う有名なエピソードはこの時のものである)。
極楽寺坂にはその名の通り極楽寺があり、ここは真言律宗の忍性が北条重時、北条長時父子の招きによってこの寺院に入って実質的な開祖となった(重時は出家後に極楽寺殿と呼ばれ、その家系は極楽寺流と呼ばれることから、創建時期ははっきりしないが忍性の鎌倉入り以前に寺院自体はあったようである)。
極楽寺にも多くの仏像が伝わるが(仏像を納めた宝物館は不定期開館)、現在の堂宇は江戸時代以降のもので、シンボル的な茅葺きの山門も江戸時代後期の造立である。
境内は撮影禁止で、また普段非公開(毎年四月八日のみ公開)であるが忍性の墓と言う鎌倉時代後期の大型の五輪塔など貴重な石造物も多く所蔵する。
鎌倉駅に戻ってJR横須賀線沿いに北鎌倉方面にしばらく進むと、扇谷の界隈にである。
英勝寺は鎌倉唯一の尼寺であり、この地にはかつて扇谷上杉氏の執事であった太田道灌の屋敷があり、英勝寺門前には石碑が建つ。
英勝寺は太田氏の出身である徳川家康の側室・英勝院によって創建され、英勝院によって養育された水戸徳川家初代当主・徳川頼房(家康の十一子)の娘が初代門主に迎えられ、以降も水戸家出身の女性が門主を務めた。
英勝寺と線路を挟んで向かい合う場所が扇谷上杉氏の屋敷跡で、現在は石碑が建つのみである。
上杉氏屋敷跡の奥には、北条長時が創建した浄光明寺があるが、こちらも「神奈川県内の石造物⑯」ですでに紹介しているため割愛する。
英勝寺の裏手には鎌倉七切通の一つの化粧坂の切通があり、それを上った先にある源氏山公園には源頼朝の銅像がある。
このあたりはハイキングコースとして親しまれている。
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