見出し画像

本: 『一人称単数』 村上春樹著 文藝春秋刊

長きにわたり習慣にしていることがある。村上春樹の本が出たら、初版を買うという行為だ。

土曜日、ジムの帰りに新宿の紀伊國屋へ寄った。仕事の本を探そうかなと思ったから。店内を入ってすぐのところで平積みの村上春樹の新刊が目に飛び込んだ。新しいのが出ているなんて、知らなかった。新型コロナの騒動が始まってからというもの、毎日、その関連の論文とニュースと野球くらいしか見ていなかったので、世間のことがよくわからない…

早速、奥付を開いて第一版の文字を確認する。初版だ。ニンマリ。

そして、ちょこちょこと時間を見つけて読んでいる。最近、小説が読みづらいなと思っていたのだけれど、村上春樹の本は自分にとってはやっぱり違う。時間を盗んでは読んでしまう。それくらい、引き込まれる。そして、何かを喪失したような独特の気持ちに支配される。

ここのところ、なんか変だなと思ってて、よく考えたら、村上春樹の本を読んでるからだと気がついた。それ以外にも思いつく理由はあるけれど、本のせいにしておこう。

はっきり言うと、村上春樹のどの本も読むと概ね陰性方向へもっていかれる。それでも読んでしまうし、好きだ。他に初版で買う習慣にしている作家さんなんていない。ずーんとした重い気持ちが心臓を中心として黒くて境界を持たない雲をつくっているような感じだ。これはぴえんな気持ちなのでは!(←最近覚えた言葉。が、ぴえん自体が気持ちを表すようなので、使い方が間違っている模様)

気持ちが沈む方向にもっていかれるのに、どうして好きなんだろう。

私には弟が2人いる。正確にはいた。1人はお母さんが違う弟で、一緒に育ったことがない。とても良い子で元気に働いている。彼も村上春樹が好きだと言っていた。そして一番好きな小説も一緒だった。こんなところに同じ血が流れているのかなと思う。言うなれば父の血がそうさせるのか。

何ヶ月かに一度通っているお医者さんへ、たまたま行く日だった。時間を盗んでは村上春樹の本を読んでいる私は、もちろん、病院にも持っていった。小さなクリニックで、いけば軽口を叩くくらいには先生と仲良くなった。

「何読んでるの?」と聞かれたので、本を見せた。「先生、読む?」 「いや…最近は読まないな」「村上春樹は好きじゃないんだ?」そんな会話の先に先生がこう言った。

「村上春樹はさ、結局、"関係性のなかでしか存在しない、世界は相対的なものでしかない"ということを永遠に言っているんだよね。」

ここのところ、気持ちが沈む方向に持って行かれるのに、こんなに惹かれるのはなぜか? ということをよく考えていたので、先生のこの言葉は響いた。ああ、と思った。私も、私という存在は関係性のなかでしか存在しないと思っているし、大きな流れのなかの淀みのようなものと捉えている。その関係性は、人間関係であり、暑い夏という環境であり、東アジアの果ての島国であり、巨人に負け続ける阪神でもある(また今日も負けた…)。若かりし父の遠い記憶でもある。村上春樹綴る言葉でもあるかもしれない。

「村上春樹を論理的に考えてみたことがなかったから、先生の意見は面白いですね。ただ、私は思春期からこんな大人になってまで、ずっと同じ方向にもって行かれる小説家は他に知らないから、読み続けている」と私。

「小説家というのは、皆そうだけれど、自分の世界からしかものを見られないよね。大江健三郎にしても、誰にしても」と、先生は続ける。「いや、でもそれは仕方がないことでしょう? 誰だって自分の経験を通してしか、ものを見ることはできないのでは?」と反論してみた。

先生のお考えは、そこからミステリーやSFははるかに個人の経験を超えている、バカにされることがあるけれど、想像力という意味でじつに高等だという方向へ進んでいった。それはそれで、なるほどなと思ったけれど、私が今考えているテーマとは違うので、ここは流しておこう。

「所詮世界は、相対的なものでしかない」ということが喪失感を生み出すのだろうか。中心がいくつもあって、輪郭をもたない円の集合がどういったものか、私には分かる気がする(←小説に出てくる)。素粒子みたいなものじゃないかな。もう少しスケールアップすると、原子の周りを飛び回っている電子の軌跡みたいなものではないか。そういうものが集合して、あたかも実体みたいに見えているのが、この私。そして、あなた。シュレディンガーの猫。残念ながら小説家ではないけれど、自分の科学的な経験を通して考えるとそんな風に思う(もしこれを読むことがあったら、きっと物理屋さんたちは笑うことだろう)。

中心さえ定まらない相対的存在であることが、ある種の喪失感を生むわけではないだろう。関係性のなかでの喪失、存在の消失、期待や信じていたものが欠けていく過程、そういったものにあがらうことができない状況。つかみどころのない、実体の捉えられない自己。そういった雑多なものが生み出す事象を受け容れざるを得ないことに、ぬったりとした心の淵、ある種の心の動きをみているように思う。だって、関係性の子どもなのだから。つねに変わりゆくものを都度受け入れていくよりほかない。その飲み込みがうまくできないと、歪みがたまるんだろうな。

物語を通して、ともにあきらめることを受け容れていく儀式が、受け入れざるを得なかった過去の痛みを緩和する方向へと導いているのかもしれない。

画像1

p.s.本には、「ヤクルト・スワローズ詩集」という短編が綴られている。その短編はクスっと笑ってしまう。いちいち共感できるから。球場でみる野球が最高だ。讀賣新聞が販促用に配っていた後楽園球場の1塁側からみた阪神の試合ですら、鉄板のビールのない高校時代ですら、球場でみる野球は素敵だった。後楽園球場はその後ドームになってしまった。その点でも、神宮球場はずっと素敵だ。なんでヤクルトファンにならなかったのかと思うくらいだ。

冒頭の短編には、短歌が出てくるのだけれど、この短歌がすこぶる格好良かった。

やまかぜに/首刎ねられて/ことばなく
あじさいの根もとに/六月の水

寺山修司の短歌を想い出した。久しぶりに読み返したくなったけれど、引越したときに、たぶんタンボールに入れて実家に送ってしまった…ち。でも寺山修司を読んでも同じ気持ちの方向へもってかれそうだから、いいや。謝肉祭より、Walz for Dabbyがいい。

W-p.s 昨日1時間半ほど歩いて、ご飯食べて夜ぐっすり眠れたら、なんか今日は元気。

!