14.4.1 世界恐慌とその影響 世界史の教科書を最初から最後まで
1920年代後半は、イギリス、イタリア、フランス、日本の主導する国際連盟や、国際連盟には加盟しなかったアメリカ合衆国が中心になって、戦争が起こらないような世界づくりをつくろうとする動きが活発だったよね。
でも、そんなムードがぶっこわれてしまう出来事が、1929年に起きてしまう。
1929年10月24日に起きた、ニューヨーク株式市場(ウォールストリートにある)の株価の暴落だ。
「暗黒の木曜日」と呼ばれたこの日以降、「株価の下げは、このまま止まらないんじゃないか」「銀行の預金を引き出しておかないと、なくなっちゃうんじゃないか」という不安が不安を呼び、空前の好景気を迎えていたアメリカ合衆国は、どん底の不景気に突入(大規模な不景気のことを「恐慌」(きょうこう)という)。
どうしてこのタイミングで「恐慌」が起きたのかについては、いまだに定説はないけれど、複数の要因が絡み合って発生したんじゃないかと指摘されている。
そもそも世界的な農業の不況で農民は生活がくるしく、消費は冷え込んでいた。
トラクターの導入で機械化が進み、アメリカは「世界の穀倉地帯」となっていたものの
過度な開発は表土の流出と破壊的砂嵐(ダスト・ボウル)を生み、
野菜の過剰供給は、農業不況を生んだ。
商品をつくったら、つくった分だけ売れるなんていうわけじゃないからね。
もしもつくった商品が、ちゃんと欲しい人のところに届くしくみがあればよかったかもしれないけど、そもそもアメリカは自国の会社を守るため、輸入品に高い関税をかけていた。
「自由なモノの流れ」(自由貿易)は着実に滞っていたのだ。
アメリカ合衆国の関税率の推移
それにイギリスやフランスは、世界中に「イギリスの支配エリア」「フランスの支配エリア」をちゃっかりキープ。
「帝国」支配を延命させていた。
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一方で、イギリスとフランスは第一次世界大戦の間にアメリカから借りた資金の返済にも必死だ。
これではアメリカでつくった商品を購入する余裕も、なくなってしまう。
アメリカに大量の資金が流れ込むのは、一見良いことのように思えるかもしれない。
流れ込んだ資金を投入し続ければ、永遠にもうかり続けることができるかといえば、そうとも限らない。
多くの家庭が「もう一通り家電をそろえちゃったから、もう要らないよ」となれば、お店の在庫は増える一方。
じゃあ、生産のために投資してももうからないということなら、どうするか?
資金を貸して利子を稼いだり、あるいは土地や株式を買い占めて値をつり上げてから転売してもうけるといった「投機」目的に、資金が使われるようになっていったんだ(投資と投機の違い)。
そうなると、本当はたいしたことのない土地や株式に、実体とかけはなれた価値が付けられる状況(バブル)が発生してしまう。
トップ0.01%のスーパー富裕層が保有する富の、アメリカ国内の富に占める割合の移り変わりを示したグラフ。
1929年にピークに達し、そこから急速に下がり、1980年代までは低い率を示していることがわかる。
「地価」や「株価」という不確かな数値に対する「信用」は、ちょっとした拍子で一気に壊れてしまう非常にもろいもの。
10月24日の株価の暴落以降、企業、銀行、それにお金を貸したり借りたりする金融のシステム全体に対する「信用」が吹っ飛んでしまった。
工業生産は急落し、企業の倒産、商業と貿易の不振がいっぺんに進んでいき、銀行などの金融機関も閉鎖や倒産ラッシュに。
労働者の実に4人に1人が職を失い、国民の生活水準は大きく低下した。
事態はアメリカだけにとどまらない。
アメリカ合衆国の生産と消費、それに金融(資金を貸したり借りたりすること)の機能がダウンしてしまったことは、第一次世界大戦がらみの資金の移動と密接に結びついていたヨーロッパ諸国にも波及。
ヨーロッパ諸国も恐慌に見舞われてしまった。
破壊的な規模の大きさと、期間の長さから、この恐慌は「世界恐慌」と呼ばれるよ。
こうした状況に対し、当時のアメリカ合衆国大統領フーヴァー大統領(共和党)は、1931年に、イギリスとフランスに対して、「第一次世界大戦のときに貸した資金(戦債(せんさい))の返済を1年間停止しますよ」と宣言。
さらにドイツに対しても「賠償金の支払いを1年間停止します」とした。
これをフーヴァー=モラトリアムというよ。
モラトリアムというのは「支払いを猶予する(待ってあげる)」という意味だ。
しかし、それでも危機は止まらなかった。
国内問題に追われる諸国は、もはや国際問題について協議する余裕もない。
「自国のことで精一杯」という状況だったのだ。
当時の世界には、インターネットもSNSもない。
世界が一致して危機を乗り越えようという機運は、なかなか高まらなかった。
1932年からスイスのジュネーヴで開かれた軍縮会議も、成果を見ることなく閉会。
第一次世界大戦後の設置された国際連盟も、有効な手立てを講じることはできなかったのだ。
そんな中、国際連盟を見限る勢力も、敗戦国を中心に台頭。
ドイツでは、ヴェルサイユ条約を戦勝国の“押し付け” だとして、ヴェルサイユ体制をぶっこわそうとするヒトラー率いるナチ党が、街中での過激な行動や選挙によって勢力を伸ばしていった。
そして、すでにイタリアでおきていたムッソリーニ率いるファシスト党の手法(ファシズム)に学び、国の制度を改変、
政府にめちゃくちゃ強い権限を与える「全体主義国家」という新体制を建設していくことになる。
国際連盟の常任理事国となっていた日本も、世界恐慌の影響を受ける中、国内問題の解決のためには、中国への進出に圧力をかけるアメリカ主導のワシントン体制をぶっこわす必要があるという思想が広まった。
やがて軍部が主導する形で、全体主義的な国づくりを進める政治家も登場することになるよ。
こうして、世界では、国民の「多様な意見」を無視し、わかりやすくシンプルなメッセージで「国」と「国民」の利益を強力に押し進めようとする国が多数現れることに。
国の権限を強めて人、物、金を動員しつつ、強力な財政出動によって経済を立て直そうという動きが、全世界に広がっていったのだ。
その被害をこうむったのは、もちろん国外の植民地の人々や、国内で “置き去りにされた” 人々。
いよいよ第二次世界大戦の足音が、ゆっくりと聞こえて来る。
そんな時代だ。
ガンディーと対談するチャップリン(1931年、ロンドン)
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