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8.3.2 カルヴァン派と宗教改革の広がり 世界史の教科書を最初から最後まで

スイスの宗教改革

ルターによるローマ=カトリック教会への“ツッコミ”がおこった頃、スイスでも同様の動きが起こっていた。


アルプス越えの“重要拠点”として発展していた山岳地帯の「スイス」。
ここでは、ハプスブルク家からの13世紀末以降の独立戦争の結果、13世紀末にいくつかの州が事実上独立を果たしていた。

しかし、チューリヒにおける

ツヴィングリ(1484〜1531年)がローマ=カトリック教会からの距離をとり、

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「聖書に書いていること(福音(ふくいん))」を重んじる改革をはじめると、カトリック側の州とツヴィングリ派の州の間に深刻な対立が生まれることとなった




ツヴィングリの宗教改革に続き、フランスの人文主義者カルヴァン(1509〜64年)は、弾圧を避けてフランスの外に出た。

カルヴァンははじめ、ギリシア・ローマの古典文化にどっぷりつかった人文主義者だったのだが、途中「回心」し、キリスト教会の改革をこころざすようになる。
いま主流になっているキリスト教の考え方、どこかおかしくない? と、ローマ・カトリック教会に反旗を翻したのだ。

解説 『キリスト教綱要』について

[…]フランスでは当時、宗教改革に走るのは下層民であり、上層に属するヒューマニストたちは、カトリック教会の堕落に対する批評はするが、教会の改革に踏み切らず、かえって、過激な改革を試みようとする民衆を軽蔑し・非難した。
[…]
1533年の1月にカルヴァンはバーゼルに来た。このときから、フランスにおける宗教改革への迫害は一段と苛烈になった。パリでは多くの殉教者が出た。[…]
このバーゼルにいる間に、カルヴァンはすでに着手していた著作を書きあげた。これを書きあげてから、フランス王フランソワ1世への献呈の辞を書き加えた。もともとこの書は、王に献じようとして書きはじめたものではない。また、福音主義の信仰について弁証をして、迫害をやわらげようと意図して書かれたものでもない。これは福音主義の信徒のために書かれた。たまたま迫害が激しくなったので、もともとヒューマニストの傾向のあるフランソワ1世に読んでもらい、誤解を解いてもらおうとしたので[ママ]る。

日本では「綱要」という語が定訳になっているから、わたしたちもそれを踏襲するが、本来の意味から考えて「綱要」という訳語は適切ではない。ラテン語で「インスティトゥーティオ」というのは、「教え」「教育」「教程」というような意味である。「綱要」というとキリスト教を体系的に述べたもののように感じられるが、カルヴァンはそうではなく、信仰の教えを述べようとしたのであり、学問的な書物でもあるがそれととも[ママ]実際的な信仰書でもある。在来の神学書とくらべて、用語はずっとやさしい。論の進め方も、素人にわかるような平易さと明晰さとをもっている。[…]16世紀のフランスで、フランス語しか読めない人は、昔の日本で、仮名書きの本しか読めなかった人と同列になる。仮名書きで、学問的な本が著述された例はほとんどない。だが、カルヴァンは、仮名しか読めないような人を相手にした。

出典:渡辺信夫『カルヴァン』人と思想10、清水書院、昭和43年、48-49頁。太字は筆者による。


バーゼルの後、身を隠しながらカルヴァンの向かった先はスイスの西の端にあるジュネーヴだ。この都市はもともと周囲のサヴォワ公の権力のもとにあったのだが、商業の発達を背景として独立意識が高まっていた。そのとき、市民たちが求めたのは、サヴォワ公とむすびついたローマ・カトリック教会の司教ではなく、カルヴァンの提唱する新しい信仰だった。
こうしてジュネーヴでは、カルヴァンによる宗教改革がはじまった。

民衆に寄り添うカルヴァンの思想は、商工業者たちにも歓迎された。

なぜか?

カルヴァンの考えはざっくり言うとこうだ。

自分が最後の審判のときに救われる魂を持っているかいないかなんて、人間にはわかるはずがない。
そんなのジタバタしてもしょうがない話。
だって、救われるか救われないかなんて、神様がすでに“決めている”ことなんだから(予定説)。
自分が生まれ、歩んできた人生、選び取った職業について文句を言ったってしょうがない。
それは全部、神様の思し召し。
だから自分が働かせていただいている職業をありがたく受け入れ、とにかく一生懸命働くことが、神様をたたえることにつながるはずだ。
結果としてお金を稼いだからって、べつに卑しいことじゃない。
金儲けは、定めを受け入れて頑張った証拠。
神の栄光をたたえていることになるんだから。

渡辺信夫は、カルヴァンの思想の中心に「予定説」があるわけではないとしつつ、次のように述べている。
「では、人は、救われているのかいないのかわからない、という底しれぬ不安の中にあり続けなければならないのか。そうだ、という解答もある。不安の中にあえて踏みとどまること、それこそ選びのしるしだ、という説である。しかし、カルヴァンはそうは思わない。信仰は確信であり、平安にみちた信頼である。他の人が選ばれているかどうかについてせんさくする権限は全くないが、自分自身が選ばれていることの確かさは、信仰によってとらえていなくてはならない。救いとは全く確かなことがらなのである。そして、信仰とはその確かさの中に安らうことである。」(渡辺信夫『カルヴァン』人と思想10、清水書院、昭和43年、166頁)



しかもカルヴァンは教会のようなピラミッド型の組織を否定し、「信徒の平等」を強調。

みんなから「この人ならば」と選ばれた信仰の厚い信徒が長老にえらばれ、牧師(ぼくし)さんがそれをサポートするという「長老主義」も、商工業者の自由な気風にマッチしていた。

)こうしたカルヴァンの考え方にこそ、西ヨーロッパで資本主義の発達した事実の要因があるんじゃないかと論じたのが、「社会学の巨匠」マックス=ヴェーバー(1864〜1920年)という学者だ。『プロテスタンティズムと資本主義の精神』は社会学の“古典”になっている。

やがてツヴィングリ派とカルヴァン派は合流。
カルヴァン派」としてまとめられることが多いね。

カルヴァン派は、16世紀後半には、フランス、ネーデルラント(現在のオランダ)、イングランド、スコットランドなどに広まった。



北欧を中心に広まっていたルター派とは、細かな教義の面で相入れなかったけれど、どちらもローマ=カトリック教会に対抗する キリスト教の新たな分派としての存在感を急速にアップさせていった。
そこで、ルター派とカルヴァン派は、あわせて「新教徒」(プロテスタント)とくくることがある。「改革派」とか「長老派」という呼び名も使われるよ。

ローマ教皇や教会の権威を認めず、聖職者だから偉いという考えを否定し、誰もが”司祭“なんだという考え方(万人司祭主義)がとられる。

改革派の教会は偶像や装飾を排し、スッキリしているのが特徴だ

参考)カトリック教会



ただ、注意しておくべきことは、教科書の説明の中には登場しない、ルター派やカルヴァン派以外のさまざまな少数派の存在だ(再洗礼派など)。

「ルター」や「ツヴィングリとカルヴァン」が突如として「宗教改革」をおこなったわけではなく、ローマ=カトリック教会に対する反発の“流れ” 自体も、中世の時代の終わり頃からすでに起きていた。

また後に見るように、批判されたローマ=カトリック教会の側も、いろいろな形で「宗教改革」をおこなっている。



イングランドの宗教改革


さて、同じ頃イングランド王国でもローマ教皇の権威を否定し、独自の教義を組み上げる動きが起きていた。

仕掛け人は、百年戦争後の内乱(ばら戦争)をおさめてテューダー朝をひらいた国王ヘンリ7世をついだ、ヘンリ8世(在位1509〜47年)だ。

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彼は、ローマ教皇とのつながりの濃いスペイン王家出身の王妃との結婚取り消し(離婚)をみとめようとしない教皇に反発。


ローマ=カトリック教会では離婚が禁止されているからだった。

そこでヘンリ8世は「だったらローマ=カトリック教会から抜け、自分がイングランド国内における教会のトップに立ってやろう」とたくらむ。

1534年に国王至上法(首長法)を出し、イングランドにあるカンタベリー大司教を、イングランドの教会組織のトップ「カンタベリー大主教」として、国王みずから選任できる制度につくりかえた(現在では国王による指名)。


さらに、国内の高位聖職者・貴族・都市や地方の代表の集まった議会で承認を得て、ローマ教会の修道院のもっていた土地財産を没収することにも成功した。年収20ポンド以下の374の小さな修道院が1536年に解散され、次のステップとして186の大規模修道院は1538〜1540年が解散された。修道院を全部あわせると、国教会の全収入のおよそ半分を締めていたんだ。

要するに、イングランド国内からローマ教皇の影響力や国内の修道院勢力のパワーを排除したかったわけであって、離婚問題はその口実として使われたわけだ(ただし、王室はせっかく手に入れた修道院財産を手放してしまい、その大部分は地域の地主たち(貴族やジェントリたち)の手に移るという結果に終わったんだけれども)。


イングランドの宗教改革の風刺画(16世紀)
中央やや下で倒れ込んでいるのがローマ教皇
中央やや左上でヘンリ8世(右上)に聖書を差し伸べているのがカンタベリー大主教



さて、ヘンリ8世が「ローマ教会から一抜けた!」と宣言したからといって、ローマ=カトリック教会が積み上げてきた壮大な教義体系をいきなりやめるのは難しい。

ヘンリ8世の長男エドワード6世(在位1547〜53年)のときに、ようやくカルヴァン派の教義を導入することで一致。
ミサは聖餐式だけとなり、大主教トマス=クランマー(1489〜1556年)によって英語で書かれた祈祷書(きとうしょ)が導入された。当時の史料の中には「(新しい礼拝は)クリスマスのお遊戯みたいだ」という批判も見られるなど、まだまだ反対する人も多かった(エイザ・ブリッグズ(今井宏・中野春夫・中野香織訳)『イングランド社会史』筑摩書房、2004年、p.180)。


しかし、つぎの女王メアリ1世(在位1553〜58年)は、スペイン王室や国内のローマ=カトリック派勢力と結託してイングランドにローマ=カトリック教会を復活させようと試みた。


彼女の夫はなんとスペイン国王のフェリペ2世。名門ハプスブルク家出身だ。

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支配者の都合と、国の方針がかならずしも一致するとは限らない、この時代の特徴がよくあらわれた出来事だね。


激動の中、女王に就任したのは、ヘンリ8世の娘エリザベス1世(在位1558〜1603年)。

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外国勢力の介入や血みどろの抗争を目の当たりにして育ったエリザベス1世は、1559年に統一法を出し、他国の介入を否定し、イギリス独自の教会体制をうちたてることを最終確認する。



イギリス国教会」(アングリカンチャーチ)。
現在の日本で「聖公会」(せいこうかい)と呼ばれる教会だ。

教義としてはカルヴァン主義を採用しているのだけれど、組織の面ではローマ=カトリック教会やルター派と同じピラミッド型の司教制(主教制)を採用している、いわばハイブリッド型だ。



これに対し、「組織の面も、ちゃんとカルヴァン主義でやるべきだ」とするカルヴァン派の人々は、イギリス国教会に対する批判を続けていく。

彼ら「清教徒(せいきょうと、ピューリタン)」と呼ばれる人々の存在をめぐり、17世紀中頃にイングランド王国はおろか、スコットランド王国やアイルランド王国も巻き込む「内戦」が勃発することとなるよ(→ 9.1.2へ)。

このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊