8.4.4 オランダの独立とイギリスの海上進出 世界史の教科書を最初から最後まで
オランダの独立
ネーデルラント北部(現在のオランダ周辺)ではアムステルダムなどを中心に商業が発達し、その気風にあわせたカルヴァン派の新教徒が普及していた。
しかしこの地を父カルロス1世から相続したスペイン王フェリペ2世は、カトリックを強制する政策をおこない自治権を奪おうとした。
中世以来、毛織物の産業と金融業で栄えたのが
ネーデルラント南部(現在のベルギー🇧🇪)にあるアントウェルペン。
この時期には、ネーデルラント北部(現在のオランダ🇳🇱)が商業的に繁栄。
アムステルダムやユトレヒトが有力都市だった。
スペイン王国の圧政に対し、1568年にネーデルラントの諸州は反乱を決断。
南部の10州(現在のベルギー🇧🇪やルクセンブルク🇱🇺のルーツ)はローマ=カトリック教徒の住民が多いこともあり、スペイン王国の支配下に置かれてしまうけれど、
北部の7州(現在のオランダ🇳🇱のルーツ)は1579年にユトレヒト同盟を結成。
当時のネーデルラントは、有力都市ごとに「州」が形成されており、「ユトレヒト」もそのうちのひとつだ。
ユトレヒト同盟は、オラニエ公ウィレム(1533〜84年)
のもとで抵抗をつづけ、1581年にネーデルラント北部7州の独立を宣言した。
これが「ネーデルラント連邦共和国」だ。
「ネーデルラント」の北部7州が連邦を形成し、君主は建てなかった。
なお、ネーデルラント北部7州のうち有力な州であった「ホラント州」が、日本における「オランダ」という呼び名の語源だよ。
ここではまだ「オランダ」とは呼ばずに、「ネーデルラント(連邦共和国)」と呼ぶことにするね。
ネーデルラント北部を失ったことは、スペイン王国にとって大きな痛手となった。
じつはネーデルラント北部をサポートしていたのは、イングランド王国。
スペインがネーデルラント北部にまで進出するのは、イングランドの安全保障にとっても由々しき問題だったのだ。
大陸からブリテン島って、意外と近いからね。
そこでスペイン王のフェリペ2世は“おしおき”のために、「無敵艦隊(アルマダ)」の名を持つ大艦隊をブリテン島沖に派遣。
1588年のアルマダの海戦だ。
しかし結果はイングランド海軍の大勝利。
コテンパンにやられたスペイン王国海軍は壊滅し、制海権を喪失した。
スペイン王国はその後もネーデルラント北部をとりかえそうと試みるけれど、バルト海の中継ぎ貿易と、アジアの香辛料の直接貿易で力をたくわえたネーデルラント連邦共和国を倒すことはできなかった。
ついに1609年の休戦条約で独立を事実上勝ち取ったネーデルラント連邦共和国。
首都アムステルダムはヨーロッパ随一の国際金融都市となった。
各地から流れ込んだ資金を元手に、イングランドをはじめとするさまざまな国々にお金を貸し出して発展していったのだ。
アムステルダムが国際金融都市になる前は、ネーデルラント南部のフランドル地方のアントウェルペン(アントワープ)がそのポジションだった。
しかし17世紀前半にはオランダへと覇権が交替したわけだ。
学問(スピノザやホイヘンスが有名)や芸術(レンブラントが有名)の都としても栄えたよ。
イギリスの海外進出
イギリスの王様の権力が強められていったのは、百年戦争後の内乱(ばら戦争)後の混乱をおさめたヘンリ7世以降のテューダー朝のときだ。
しかし、テューダー朝の王様が手放しで権力を掌握できたわけじゃない。
そもそも百年戦争とばら戦争の過程で、名門貴族は没落。
王様の支配への新たな協力者として、かつては有力な貴族の下っ端(騎士)として仕えていた地方の大地主たちに白羽の矢が立ったのだ。
大地主たちは、自発的に地方の政治に参加。
そのポジションは「貴族」の一番下の爵位である男爵(バロン)よりも下であるものの、名誉ある「地主貴族」として扱われた。
治安判事(下級裁判官)などの役職に就くこと自体が “名誉” とされたため、給料は支給されない。
こうしてテューダー朝の国王は、彼ら「とよばれる「地主貴族」の協力を得ながら、権力を集めていったわけだ。
***
ジェントリの勢力が無視できないものとなった背景には、産業の発展がある。
15世期末以来、領主(農奴に働かせて収入を得る人)や地主(農民から土地代をとって収入にする人)は、農民から農地をとりあげて生垣や塀(へい)で囲い込む動きが見られるように。
こうした非合法的な土地の占拠を「囲い込み(エンクロージャー)」という。
囲い込んだ土地では、ただ単に農業をするのみならず、羊を大規模に飼育し、羊毛を生産することで利益を生み出そうという動きが起きていったのだ。
やがて羊毛生産が増えていくと、これを輸出せずに毛織物に加工する工業(毛織物工業)がイングランドの国民的産業となっていく。
1530年代以降の「宗教改革」も、イングランドの社会を大きく変えた要因の一つ。
教会や修道院の保有していた広い土地は、国王に没収された後、ビジネスに成功した人々に売却された。
イングランドでは、土地の保有は “成功のあかし” とされ、ビジネスに成功した商工業者が、同時に地方の大地主(地主貴族;ジェントリ)であることも珍しくなかったのだ。
イングランドの国王を頂点とする「イギリス国教会」の組織ができると、イングランドにおけるローマ教会はローマ=カトリック教会からは独立。
ジェントリたちの間にも、「自分たちは新教の国民なんだ」という意識がしだいに形成されていった。
イングランド王国における宗教改革は、議会で法を定める形ですすめられた点も重要。イングランド国王による「統一的支配」には、議会の力が必要不可欠だったんだね。
毛織物工業で力をつけた領主や地主(地主貴族(ジェントリ)を含む)たちは、その利益を元手に積極的に海外に進出。
さらなる利益をとろうとした。
こうした中で、テューダー朝第5代エリザベス1世(在位1559〜1603年)が独占権を与える形で、アジア貿易を事業とするイギリス東インド会社が設立される。
東インドというのは、南アジア・東南アジア・東アジアのように、イングランドから見て東のほうに広がるアジアを漠然と指す呼び名だ。
ただ、先に拠点を各地に建設していたポルトガルやスペインを追い抜くことはなかなか難しく、国王wは外国船に対する海賊行為を指定の海賊たちに認めさせている(私掠船;私拿捕船)。
その代表格ドレーク(1540年頃〜96年)は、多数のスペイン船や植民地をおそいながら1577〜80年にかけて世界を一周。
スペイン王国を破ったアルマダの海戦(1588年)でも活躍した。その功績をたたえられ、貴族の称号まで得たすごい人だよ。
無敵艦隊に対する勝利を祝うエリザベス1世。
その手には地球儀がある🌎
その後のイングランド王国は、スペイン王国から独立宣言したネーデルラント北部のネーデルラント連邦共和国(現在のオランダ)との激しい覇権争いに突入。
でもネーデルラント連邦共和国には、いくつかの州が自治を保ったまま連邦する「連邦制」だったので、強い中央政府を持たなかった。
そのことが、国主導で海外に進出していったイングランド王国との大きな差となっていくんだ。
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