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5.1.3 フランク王国の発展 世界史の教科書を最初から最後まで

ヨーロッパ各地で続々建国した”ニューカマー“ゲルマン人。
その中でも着実に領土を拡大させていったのが、フランク王国だ。

「フランク」なんて聞き慣れないかもしれないけど、現在のフランス、ドイツ、イタリアの”生みの親“でもある超重要な国家なんだよ。


建国された481年の時点では、フランク人の有力部族の”寄せ集め“に過ぎなかったフランク王国が、その他多くのゲルマン人たちをしのぎ強国にのし上がっていった秘密は、ローマ人支配層と”タッグ“を組んだことにある。


「ローマ人? すでに西ローマ帝国が476年に滅んだんだから、もう落ちぶれているんじゃないの?」って思うかもしれない。

いやいや、そんなことはない。

476年に西ローマ皇帝が退位させられたとはいえ、ヨーロッパ各地の都市農村で強い力を持っていたのはローマ人の貴族たち。

すでに都市は廃れてしまったけれど、農村にウィラという大土地を所有し、多くの農民たちに農作業をさせる大領主でもあった。

それにキリスト教の教会の権威も無視できない。ローマ=カトリック教会は、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)のコントロール下に入るのを嫌がり、ゲルマン人たちへの布教にも熱心だったのだ。


フランク人のうちサリ族というグループを率いたクロヴィス(在位481〜511)は、こうした状況に目を付ける。

アリウス派だったフランク人の支配層とともに、ローマの教会が正統と認めていたアタナシウス派に集団で改宗したのだ。

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これを足がかりにローマ人の支配層に接近したクロヴィスは、534年にはフランス南東部のブルグンド王国を滅ぼして、ガリア(現フランス)の全土を統一することに成功した。


しかし、しだいにメロヴィング家の権力は衰え、王国も4つに分裂。

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さらに7世紀に入ると新たな事態が勃発。
イスラーム教徒の勢力が、地中海方面にも進出してくるようになったのだ。



711年にはウマイヤ朝がイベリア半島にわたって、ピレネー山脈をこえてガリアに進出する緊急事態となった。
これに対し宮宰(財政をつかさどる実質No.2の役職)のカール=マルテルは、ふんだんな財源を背景に騎兵隊をととのえた。
モーゼル川流域のもっとも肥沃な土地(アウストラシア)が支配エリアであったことも幸いした。


カール=マルテル率いる騎兵隊はトゥール=ポワティエの戦い(732年)をはじめとする戦いで、並みいるイスラーム教徒たちやイベリア半島のキリスト教支配者たちをフランスから撃退。 732年のトゥール・ポワティエ間の戦いは、「キリスト教世界を、イスラーム教世界から守った戦い」とみなされている。

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カール=マルテルは本当に「キリスト教世界」を守るために戦ったのか?

でも、その見方は、果たして当時の状況と照らし合わせると、どの程度まで妥当ものといえるのだろうか?

(1)19世紀の歴史家エドワード・ギボンの見方

「〔トゥール・ポワティエでアラブ軍が勝利を収めていたら〕今頃はオクスフォードの学位試験ではコーランが教授され、この大学の説教壇は割礼を受けた国民にマホメットの啓示した神聖な真理を論証する場になっただろう」

(出典:エドワード・ギボン『ローマ帝国衰亡史』第IX巻、筑摩書房、1992 年、第 52 章、164 頁) 

マホメットというのは、ムハンマドの、ヨーロッパにおける呼称。『ローマ帝国衰亡史』で知られる19世紀の歴史家ギボンは、「トゥール=ポワティエ間のおかげで、ヨーロッパ世界が防衛されたのだ」とベタに考えていることがわかるだろう。これがもっとも流布しているトゥール=ポワティエ間の戦いのイメージだ。


フランク人の見方

一方、同時代に記録された年代記には、どのように記されているのだろうか?


『フレデガリウス年代記続編』第 13 章(8世紀)

「ちょうどこの頃、大公エウドー〔ウード〕は正規に結んだ協約を遵守してはいなかった。使者からその知らせを受けたカール侯カール・マルテル〕は、軍隊を動かし、ロワールを渡河してウードを潰走させた。 この年[731 年]2度にわたって敵から掠奪した多くの戦利品を得て、彼は故郷に凱旋した。一方大公エウドーは、敗北して嘲笑されているのを知り、不実な民族であるサラセン人を扇動して、カール侯とフランク族への抵抗を支援させようとした。
彼ら〔サラセン人〕は、…(中略)…教会を焼き払い、 人々を虐殺した後、彼らはさらにポワティエに進軍した。…(中略)…彼らに対 してカール侯は勇敢に戦列を整え、戦士として彼らに突進した。キリストの庇護をもって、彼〔カール〕は、彼ら〔サラセン人〕の天幕を破壊し、突撃に急行して大殺戮を展開した。…(攻略)」(出典:★1)

 

…はじめは、カール=マルテルが戦っていたのは、アキタニアという地方の大公であったエウドーだったのに、いつのまにかその相手がサラセン人(=ウマイヤ朝のイスラーム教徒)に変わってしまっているのがわかるだろうか。

しかも、エウドーがサラセン人(=ウマイヤ朝のイスラーム教徒)を扇動した、とあるのは事実ではないし(★2)、ほかの史料と合わせて分析すると、実際には、次のような複雑な関係が浮かび上がってくる。

①サラセン人がアキテーヌ地方に侵攻してきたので、エウドーが応戦した。
エウドーは、サラセン人(=ウマイヤ朝のイスラーム教徒)の支配を嫌ったベルベル人の族長と同盟して、サラセン人(=ウマイヤ朝のイスラーム教徒)に対抗しようとした。
③失敗したエウドーは、カール=マルテルにSOSを求めた。

つまり、

キリスト教世界を守ろうとしたフランク王国

vs

イスラーム世界を広げようとしたウマイヤ朝のイスラーム教徒

という見方は正しくなく、

実際には、

フランク王国 対 エウドー 対 ウマイヤ朝 対 ベルベル人

という非常に錯綜した関係があったことがわかるわけだ。


カール・マルテルには王国南部に進出する道が開かれたのであった。その後カール・マルテルは、王国南部の諸都市への 攻撃・掠奪を繰り返し行うのであり、この点ではイスラーム勢力とまったく変わることがなかったとすらいえる。現実における対立関係 は「キリスト教対イスラーム」などという単純なものではなかったのである。」
(出典:津田拓郎「トゥール・ポワティエ間の戦いの「神話化」と8世紀フランク王国 における対外認識」『西洋史学』261巻、2016年、9 頁)

http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/bitstream/123456789/9926/3/seiyo-shigaku_vol261_p1-20.pdf

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歴史的事実が「神話化される」ということ

というわけで、現在ではトゥール=ポワティエ間の戦いに、冒頭のような意義を認めることは、ほぼない。その意義を認めるとするならば、フランク王国のカール=マルテル率いる鉄甲騎兵の勝利によって、カロリング家が、しょぼいメロヴィング家の国王を圧倒し、その後フランク王国の主導権をカロリング家がにぎるきっかけになった点に注目すべきだろう。

補足
このように、歴史的な出来事に、「実際におこったこと」とは異なる意味が盛り付けられ、その実態以上の意味を持たされるようになることを、歴史的な事実が「神話化される」という。歴史的な事実は、のちの人々による記録、意味づけ、解釈、記憶、忘却、再解釈を経て、さまざまに変化していくものだ。トゥール=ポワティエ間の戦い以外にも、「神話化された」出来事はあるのだろうか? あるとしたら、それはどの事例で、どのように「神話化されている」といえるのだろうか?
★1  『世界史史料(5)』岩波書店、2007 年、16-17 頁
★2  同上、16頁

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カロリング家の台頭

ともかく権威を低下させる一方だったメロヴィング家の王様に対し、日増しにカロリング家の名声は上昇。

カール=マルテルの子ピピン(小ピピン、在位751〜768年)は、ローマのキリスト教会(ローマ=カトリック教会)の指導者(教皇)の”お墨付き“を得て、メロヴィング朝をクーデタで倒し、みずからの王朝を創始した。

これがカロリング朝だ。

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小ピピンの後世の肖像画。
日本人のイメージするいかにも”王様”という格好をしているね。


このカロリング朝こそが、現在のフランス・ドイツ・イタリアを中心とする広大な範囲を統合することになる。

ゲルマン人出身のフランク王国が、
ローマ人の上流階級と結びつき、
ローマ=カトリック教会を保護する形での統合だ。



こうして、ローマ帝国の衰退によって混乱状態となっていた地中海の北岸エリアは、

①フランク王国中心の「西ヨーロッパ」と、
②東ローマ帝国中心の「ヨーロッパ」に分かれながらも、

ヨーロッパ」というある一定の共通点をもったエリアに成長していくこととなるんだ。


このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊