"世界史のなかの"日本史のまとめ 第9話 稲作社会の拡大と大規模集落の出現前夜(前200年~紀元前後)
Q. 稲作文化はどのように広がっていったのだろうか? ③
弥生文化は東日本にも広まっていますか?
―しだいに広まっているけど、じわじわとしたスピードだ。
この時期は花粉の分析によると、温暖な時期にあたっていたという説がある。農業を導入する必要がなかったのかもしれない。
世界的にみても温暖だったんですか?
―地域によって違う。この時期は北アメリカや中国では温暖期だったけど、ヨーロッパでは寒冷だった。世界どこでも同じというわけではない点には注意しよう。
で、この時期に注目すべきことは、ユーラシア大陸中央部の騎馬遊牧民の勢力拡大だ。
東のほうでは、いくつもの遊牧民グループを大同団結させることに成功した「匈奴」(遊牧民の親玉グループ)が、「皇帝」によって統一された中国の定住民の国と対立しているよ。
「皇帝」というのは、中国では天の神様に認められた最強の支配者(と考えられた支配者)のことだ。
西アジアでは現在のイラクやイランあたりを治めていたパルティアの戦士は、騎馬戦術に長けていた(馬の進む方向と逆向きに弓を射ることができた)。
かつての「大きな川エリア」(あ:エジプトのナイル川、い:メソポタミア、え:インダス川、お:長江)から見て北方エリアが、定住民(おなじ場所で農業・牧畜をする人)と遊牧民(家畜と一緒に動く必要がある人)の対立の最前線となっていった。
そういう意味では、この時期の終わり頃にできた「ローマ帝国」も、遊牧民を常に意識していたといえる(ヨーロッパの場合は牧草地帯が限られているから、半分農業・半分牧畜の人々が北のほうで生活していた。代表的なのはゲルマン人)。
(上の地図中の注)う:ここはイラン高原(イランは雨の降らない山だらけ)の北方、軍馬の産地として知られる地方(=ホラーサーン)。さらに北に行くと乾燥気候なのに大きな川が流れている理想的な農業エリア(=ソグディアナ)。
A: 騎馬遊牧民のサルマタイ人。 B: 騎馬遊牧民のトカラ人。 C: 騎馬遊牧民の南匈奴(きょうど)。
アメリカはどんな感じですか?
―トウモロコシやジャガイモを基盤とした農耕の文化を引き継いで、都市の規模が大きくなっている。中央アメリカのマヤ文明と南アメリカのアンデス山脈の地域から目が離せないね。
なんか日本の文化はちょっと遅れている感じですかね。
―「進んでる」とか「遅れてる」とかって一概に言えないけど、「複雑さ」「多様性」っていう観点とか、「食料の生産力」や「情報の多さ」っていうところから比べてみると、まだまだって感じかな。
やっぱり「異質なもの」に出会わないと、技術や文化っていうものは発展していかないんだよね。
それにユーラシア大陸には騎馬遊牧民っていうめちゃ強いやつらがいたから、「強制的に影響を受けざるをえない」面もあったわけだ。
梅棹忠夫が遊牧民の活動する乾燥地帯を「悪魔の巣」とまで呼んだのは、騎馬遊牧民の持っていた強大な影響力が背景にある。
そういう意味では、日本は「騎馬遊牧民」の脅威は受けずに "済んだ" ってわけですね。
―そうそう。
騎馬遊牧民の脅威は少ないから、日本列島のことに集中できる。
もちろん海は開かれているけど、騎馬遊牧民と隣合わせのユーラシア大陸の人々と比べると、そういう部分のメンタリティは異なるのではないかな。
「海」っていうと、沖縄のほうの人たちは貝塚文化でしたね。
―そうそう。熱帯産の貝の輸出で栄えている。八重山諸島のほうは、どちらかというと台湾方面の文化との共通性が大きい。
また、北海道では「続縄文文化」といって、狩りとかクジラなどの漁業に重点が置かれた文化が栄えているね。「縄文文化の続き」っていうと「遅れている」感じがするけど、彼らは彼らにあった環境に適応して暮らし、農業に頼らない豊かな文化を発展させていったわけだ。
なんと沖縄で産出されるイモガイも見つかっている(注:有珠モシリ遺跡)。
貝輪をはめて葬られた若い女性の遺骨(北海道HPより)
スケールが大きいですねえ。
―地域によって考え方には差が見られるけど、この時代の「弥生文化」の担い手は、「縄文人」とは異なる発想をしていたこともわかっている。
縄文人はお墓を家のそばにつくっていたのに対し、弥生人は集落の近くにある共同墓地に葬るようになった。
何らかの理由で、死者を「生活の世界」から「避ける」ようになったわけだ。
動物を殺さなくてもよくなった影響から「ケガレ」の観念が発達していったのかもしれない。
葬られた人たちも手足もかがんだ姿勢にする代わりに、伸ばしたままにすることが多くなっている(注:伸展葬)。
すでに縄文人も、板状の石を箱の形にしてその中に遺体を埋葬していた(注:箱式石棺墓)。
弥生時代になると木棺(もっかん)を土に埋め、その周りに溝を掘って、掘った土を上に盛った形の墓(注:方形周溝墓)も西日本に現れるようになる。
こうしたお墓の種類には地域によって大きなバリエーションがあるんだ。
どうしてですか?
―「あの世」についてどう考えるか? っていうのは、人間にとっての大きなテーマの一つ。
それを形にしたものが「お墓」だと考えるなら、その「お墓」のスタイルを共有するグループも多様化していると考えることができるわけだ。
以上で「"世界史のなかの"日本史のまとめ 第7回」は終わりです。
次回は、紀元前後~200年の日本史のまとめを見ていきましょう。
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