7.2.2 清朝支配の拡大 世界史の教科書を最初から最後まで
◆準拠テキスト(188〜189頁)
17世紀末(今から350年ほど前)以降、清朝の支配エリアはますます拡大。
しかし拡大するにつれ、思わぬ相手とぶつかることとなった。
ピョートル大帝率いるロシア帝国だ。
ロシア帝国は当時、清が4代目の康熙帝のときになると、オホーツク海に流れこむ黒龍江(こくりゅうこう;ロシア語でアムール川)沿いにまで拡大していた。
清朝は、イエズス会の宣教師の情報を頼りに、事態の把握に努めると、1689年、アムール川上流部の支流アルグン川北方のネルチンスクで、双方の国境を定めた。
これをネルチンスク条約という。
このヨーロッパ式の条約は、歴史上初めて、中国が他国と結んだ対等の取り決めとして重要だ。
一方そのころ、タリム盆地西北部では、清朝の拡大に反発する勢力が力を強めていた。
ジュンガルだ。
すでにモンゴル高原のモンゴル人たちは清朝のコントロール下に入っていたけれど、タリム盆地を領域とした15世紀に一時モンゴル高原一帯を束ねたオイラト系のグループであるジュンガルは、チベット高原やモンゴル高原北部にまで進出する勢いを見せていた。
ジュンガルの指導者ガルダン=ハーン
清が不安視したのは、ジュンガルが、チベット仏教
の有力グループ(ゲルク派)率いるダライ=ラマ(ブッダの生まれ変わりとされている!)と手をつなごうとしていたこと。
ジュンガルは騎馬兵力のみならず火器も使用して清朝を悩ませたものの、6代目皇帝 乾隆帝(チェンロォンディ;けんりゅうてい)は圧倒的軍事力でもって彼らを滅ぼすことに成功。
こうして清は、タリム盆地のウイグル人地域の支配権とともに、ジュンガルの支配エリアも獲得。
タリム盆地のウイグル人たちと、ジュンガルの騎馬遊牧民エリアは“合体”され、“新しい土地”という意味の「新疆」(しんきょう;シンジァン;イチェ=ジェチェン)と命名されることとなった。
こうして、清朝は「最大領土」を達成することとなったのだ。
清朝は、中国本土、東北地方(女真人のふるさと)、台湾の3エリアについては直接支配。
しかしすべての領土を直接支配しようとはせず、各地の支配は各地のもともとの支配者に任せる政策がとられた。
たとえばモンゴルではモンゴルの王様や貴族、チベットではチベット仏教(ゲルク派)の指導者であるダライ=ラマが支配。
ゲルク派のガンデン寺
ダライ=ラマ5世は首都ラサに壮大なポタラ宮殿の建設を開始している。
さらに新疆では、ウイグル人の有力者(ベグと呼ばれる)がそのまま支配した(ベグ官人制)。
このように清朝は、もともとの支配者に対して女真人の風俗をおしつけることはせず、その土地の民族も存続を許した。
それどころか、チベット仏教に関しては手厚く保護し、「清の皇帝はチベット仏教を守ってくれている」という印象を、モンゴル人やチベット人に与えようとしていったんだ。
20世紀後半から現代にいたるまで、中国の少数民族の人権が国際的な問題になっているけれど、清の時代の支配はかなり“ゆるい”ものだった。
その後、どのような展開をたどって現在の問題にたどり着いていくのかは、この先の歴史を見ながら考えていくことにしよう。
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