【図解】これならわかる! ゼロからはじめる世界史のまとめ㉓1929年~1945年の世界
全時代・全地域を26ピースに「輪切り」し、人名を使わずに世界史をまとめていくシリーズ。
今回は世界史のまとめの22ピース目、1929年~1945年の世界を扱います。
未曾有(みぞう)の死者を出した大戦争後の「後始末」が進められ、特にアメリカとソ連がその中心に立ちました。
しかし、敗戦国の「復讐心」は消えることなく、かえって増幅するばかり。
国際関係のうねりは大きな渦となり、「2度目の世界大戦」へと突入することになりますが―。
経済問題をきっかけに世界秩序が崩壊し、二度目の総力戦へと突き進んでいった時代
◆1929年~1945年の世界
ヨーロッパ中心の植民地帝国がグラグラする時代
―この時期、「世界中を巻き込んだ大戦争」がふたたび起きる。
またですか~。
―2度目だから第二次世界大戦というよ。
きっかけは何だったんですか?
―アメリカを震源地とする、世界規模の大不況だ。
こうして「狂騒の20年代」と呼ばれた、アメリカのはなやかな時代が幕を閉じた。
その原因は。
―「ものをつくって売る」ビジネスが限界に突き当たってしまったこと、会社の業績と関係なくただ単にもうけを取るための株の売買がエスカレートしてしまったこと。さらにその後、それぞれの国が自分の国だけ「得」をしようとして、自由な取引がとどこおってしまったことが拍車をかけたのではないかといわれている。
多くの国では国の力がパワーアップされて、働く人の負担が軽くなるように国が積極的に動くようにした。「国民の暮らし」が不安定になれば政治家が票を獲得できなくなるし、国の結束も弱まる。国を倒そうという運動にもつながってしまうおそれもあったからね。
実際に、同じ頃に格差のない「夢の世界」を建設しようとしていたソ連では、たった一人の指導者に絶大な力と称賛があつめられ(注:スターリン体制)、短期間で驚異的な経済成長がなしとげられ、世界のあこがれの的となっていたんだ。
へえ。当時のソ連は世界のうらやむ国だったんですね。
―内側で何が起きているのかはわからないからね。
対抗しようとアメリカの大統領も、自分でさまざまな「大統領令」を出していった。
そうやって「国がすべきこと」がどんどん増えていったんだ。例えば、病気になったときの保険や老後の年金とか…。国民の「生き方」をも、国がコントロールする時代になっていくわけだ(注:生-政治)。
でも余裕のない国では大変ですよね。
―そうなんだ。
植民地を持っていた国では、自分の国の資源や売り場を国外に確保することができたから、なんとか乗り切ることができた。
一方、1度目の戦争で負けたドイツは「植民地がなければ、われわれドイツ人はやっていけない!」と主張し、同じく植民地を広げようとしていたイタリアと日本と組んで、「世界中に植民地を持つ国々」(イギリス、フランス、オランダ、アメリカなど)に「挑戦」しはじめるようになったんだ。
必読です。
ってことは・・・植民地として支配されていたアジアやアフリカ(当時の世界地図)の人たちにとっては、支配者が変わるだけってことですよね?
―その通り。
でも、植民地をとろうとして先進国同士が争っている状況は、ある意味ではチャンスだ。
各地でリーダーが現れて、独立に向けた行動を起こしていくことになるよ。
「ヨーロッパ中心」の時代が、まさに終わりを迎えようとしているんだ。
ってことは、次の時代にはアジアやアフリカが中心になっていくってことですか?
―即座にそうはいかないよ。
この2度目の大戦の過程で、アメリカ合衆国とソ連の力がぐんと強まっていくんだ。
この2つの国の支配者は、「古いヨーロッパの考え方」との「違い」を、それぞれの考え方を打ち出して強調していくよ。
どんな考え方だったんですか?
―人類の歴史は、「限られた資源」をどうやって「効率よく利用し」、どう「分けあっていくか」について歴史であったともいえるよね。
アメリカ合衆国もソ連も戦争の決着がつく前から、それぞれ人類の未来を明るくし、世界を平和にするような魅力的な「設定」(注:イデオロギー)を世界にアピールしていった。
その「設定」の中で、圧倒的な「悪者」は敵国(ドイツ、イタリア、日本など)のリーダーたちだ。
それだけでなく、世界各地に植民地を持っていたイギリスやフランスにも考え方を改めるように要求しているよ(注:脱植民地主義)。
でもその新たな「イデオロギー」が、「ほんとうに世界を平和にするもの」であったのか、注意深くみておく必要があるだろう。
2度目の大戦では6000万人以上の人(諸説あり)がなくなったんですよね。
―信じられないほどの数だよね…。
第二次世界大戦の死者数を国別に可視化。必見です。
国と結びついた科学技術が「人殺し」のために使われ、多くの人が理不尽な暴力を受けて亡くなっていった。
その反省のもとに、戦後の世界がたてなおされていくことになるよ。
◆1929年~1945年のアメリカ
◇ポイント
・「世界恐慌」後に当選したアメリカの大統領は「大きな政府」を推進
・大統領の権限をパワーアップし、中立をやめて第二次大戦参戦に踏み切る
⇨①まずは日本の拡大阻止(「ソ連の拡大阻止」という本音は我慢)
②「植民地だらけの世界」から「自由な貿易ができる世界」へ
ーさて、それではアメリカ大陸に視点をおいてこの時代を見てみよう。
アメリカはとんでもない不況になっていますねえ。
―当時の大統領ははじめは「なんとかなる」と思っていたんだけどね。
アメリカの繁栄は「終わることはない」と豪語していた矢先のことだったんだよ。
でもさすがに「なんとかならない」ことがわかると、新しい大統領に敗退。
彼は国が積極的に仕事をつくったり、働く人の権利を守ったりすることで、景気を回復させようとしていくよ(注:ニューディール政策)。
基本的にアメリカの政治はその後も、「国が経済に首を突っ込んで、手厚く社会保障・公共事業をおこなっていくべきだ」(注:アメリカ合衆国ではこれを「リベラル」といいます)「と考える経済政策が支持されていくことになるよ。
さらに大統領は、ほんとうにアメリカの景気がよくなるには、世界中の国が「自由にスムーズに貿易できる」ようになることが必要だと考えた。
どうしてですか?
―当時、イギリスやフランスでは不況を乗り越えるために、自分たちの植民地にアメリカの製品が入ってくると高い関税をかけて「ブロック」しようとしていたんだ。
それに対して大統領は「お前らずるい」と非難した。
さらにソ連の動きも気がかりだ。
「国」や「貧富の差」もない「理想の国」をつくろう!という考えを“正義”として掲げるソ連や、その協力国には、アメリカ合衆国でつくった商品を売り込むことができなかった。
自由な取引が認められていないからだ。
それに日本の動きも気がかりだ。
中国や東南アジア、太平洋に進出する動きがあったからだ。
じゃあ、アメリカはすぐに行動(戦争)を起こしたんですか?
―とっても「慎重」だった。アメリカの国民の多くは戦争をのぞんでいなかったからね。
開戦にいたる日本側の政策決定の紆余曲折を知るには、森山優(あつし)氏の『日本はなぜ開戦に踏み切ったか』が必読です。
でも、日本のハワイ空襲で「風向き」が180度変わる。
アメリカ本土が外国に攻撃されるという異常事態となった以上、大統領は国民を前に演説し、日本との開戦に踏み切った(タイミングの良さゆえ、”自作自演”だったのではないかという議論も繰り返しなされているが、証拠はない)。
日本はすでにドイツとイタリアと同盟を結んでいたから、こうして自動的に「東アジア・太平洋の戦争」が、「ヨーロッパの戦争」に「連結」されることとなったわけだ。
アメリカは開戦直後にイギリスとの間に「戦後の世界はこうしよう」という見通し(注:大西洋憲章)を発表。
のちに、イギリスのチーム(注:連合国(the United Nations))にはソ連も加わった。
えっ!? アメリカとソ連は考え方が「間逆」じゃないですか!
―だよね。
ドイツを倒すためにはソ連の力を頼って「挟み撃ち」にする必要があったため、仕方がなかったのだ。
こんな感じ。
イギリス → ドイツ ← ソ連
まぁそのことが、戦後に大事(おおごと)になっていくわけ。
最終的にアメリカはフランスからドイツを追い出し、ドイツはソ連とともに占領した。
日本には恐るべき新型兵器の原子爆弾を一般市民の上から投下し、ソ連は日本領への攻撃を開始し、北海道占領を計画した(未遂)。
その直後に日本は降伏の受け入れを認めた。
中央アメリカや南アメリカは、この時代にはどのような状況になっていますか?
―アメリカを震源とする不景気の波が押し寄せ、仕事を失った労働者も増加することとなった。
アメリカは混乱する国内をまとめてくれる指導者を求め、相変わらず軍事力と広い土地を持つ有力者(注:カウディージョ)がリーダーに選ばれているよ。
彼らは、労働者に仕事を与えたり社会保障を充実させたりすることで、「票集め」をしようとしたので、国のお金の「使いすぎ」が赤字を招くこともあった(注:ポプリスモ)。
戦争が始まるとほとんどの国はアメリカの側に立ったけど、アメリカに対して批判的なグループも各地で成長しているよ。
例えば、アメリカの“お隣”メキシコでは、大統領(注:カルデナス)が中心になって石油や鉄道を「国のもの」にしている。「自分の国のものは、自分の国のもの」という考えだ(注:資源ナショナリズム)。
メキシコでは石油が国有化され、アメリカ合衆国の資本を締め出そうとした。
「開発」を優先するか、国民の「平等」を優先するか、各地で意見が割れるけど、アルゼンチンやブラジルでは強力なリーダーシップを発揮して、工業化を進めようとする指導者が現れている(注:輸入代替工業化)。
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◆1929年~1945年のオセアニア
◇ポイント
・日本は太平洋の島々に進軍したが、連合軍に奪回される
―オセアニアも、この時代の世界大戦と無縁ではなかった。
日本が「絶対に確保すべきエリア」(注:絶対国防圏)「に設定した中に、オセアニアの大部分が含まれていたからだ。
戦況が不利になると日本の占領していた地域は、今度はアメリカが代わりに占領していくこととなるよ。
オーストラリアやニュージーランドはどうなっていますか?
―「自治領」という特別なポジションが与えられていたけど、この時期にイギリスは、イギリスの国王への忠誠と引き換えに、この2つの地域に自国と「ほぼ対等なポジション」(注:自治領)を与えている。
つまりイギリス国王を頂点とする「イギリス・グループ」に所属することを条件に、「国」としての独立が認められたわけだ。
直接支配するのも大変になっていたけど、切り離してしまえば経済的に不利になる。そのはざ間でくだされた結論だ。
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◆1929年~1945年の中央ユーラシア
中央ユーラシアの大部分はソ連の支配下に入っていますね。
―ソ連は「資本家のいない夢の国をつくろう!」というところから結成された国家グループだったわけだけれど、その実態は「ロシア人の国」が“社会主義”を正義に掲げつつ他民族の住む地域を支配するというものだった。
タテマエとしては、各地から平等に資源をあつめて、計画的に物を作り、平等に配るというわけだけれど、実際のところはかなりアンバランス。
これだけ広いんだから大変ですよね。
―そうだね。
表向きは、「すべての民族は平等」っていうんだけどね。
ソ連と協力しているものの独立した国をつくっていたモンゴルも、この時代にはソ連と一緒になって日本の進出と戦っている(注:ノモンハン事件)。
当時のソ連側のドキュメンタリー映画(Халхин-Гол (1939) )
― 一方、中国の支配下にあったウイグル人やチベット人、一部のモンゴル人は、この時期に自分たちの国をつくろうとする運動が活発になっている。
日本がそうした運動に「協力」するという口実で、かつての中国の皇帝をトップとする国(注:満洲国)を建設したわけだけれど、その発端となった鉄道爆破事件が”自作自演”であることが明らかとなると国際的な問題となる(注:満洲事変)。
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◆1929年~1945年のアジア
◇ポイント
・東アジア⇨日本の大陸進軍が泥沼化、中華民国を英米がサポート
・東南アジア⇨日本軍の占領が長期化、大戦末期に独立へと向かう
・南アジア⇨独立運動が抑えられ、第二次大戦へと協力させられる
・西アジア⇨多くが連合国側に立つが、米英vsソ連との間に揺れる
◇1929年~1945年の東アジア・東南アジア
日本はどうして中国と戦争することになったんですか?
―国内の経済問題を、国外に領土を求めることで解決しようとしたんだ。
世界中が不況になっても、植民地をたくさんもっている国はなんとか早期に立ち直ることができたのに対し、日本は長期にわたり痛手を負っていた。
その頃の中国は、一応「中華民国」という国が全国を支配していたけど、それに従わないグループとの「内輪もめ」が続いていた(注:第1次国共内戦)。
従わなかったのは、ソ連とも連絡し「資本家のいない国」をつくろうとしていたグループだ(注:中国共産党)。
それに対し「中華民国」のリーダー(注:蔣介石)「は、まずは国内の反対派をやっつけることを優先しようとしていた。
日本が、北のほうに満州国という国をつくり、さらに中国の本土に侵入しようとしても、中国での「内輪もめ」は依然として続いていたんだ。
中国側は「一致団結」できなかったんですか?
―ぎりぎりのところで両者の歩み寄り(注:西安事件→第二次国共合作)が成功し、ひとまず「内輪もめ」はやめて、日本という「共通の敵」と戦うことにはなった。
こうして始まったのが日中戦争ですね。
―そう。戦争といっても互いに宣戦布告はしていない形だったんだけれどね。
北京に進軍して本格的戦闘をスタートさせた日本軍はただただ広い中国に引き込まれて、多くの死傷者を出しながらも決着のつかない「泥沼」にはまりこんでいくことに。
日本の戦争指導者の中にはドイツの仲介もあって「ひとまず戦争はやめよう」という人もいたけれど、結局は「さらに南に移動して、東南アジアを占領しよう」(注:南進論)という考えが優勢になった。
どうしてそんなことを?
―本音は、戦争が長引いたので安定的に資源を確保したかったということだ。
でも、それでは占領される東南アジアの人たちも納得しない。
当時の東南アジアはヨーロッパ諸国の植民地となっていたけれど、現地の人たちにこう呼びかけたんだ。
「東アジアから欧米勢力を追い出した後で,日本が中心になって植民地のない新しい東アジア(注:大東亜共栄圏)を建設しよう!」
それは、東南アジアを植民地にしていたヨーロッパ諸国から反発をくらいますよね。
―だよね。こういうわけで日本は、フランス(当時はすでにドイツに占領されていた)、イギリス、オランダ、アメリカの植民地に進出し、これらの国と戦争状態に入ったんだ。
あれ? アメリカって東南アジア持ってましたっけ。
―フィリピンだね。
というか、日本が戦ったのはアメリカだけだと思っていました…。
―「鬼畜米兵」っていう言葉もあって、そういうイメージはあるよね。
で、日本といえば、東南アジアの現地人による政治をいつまでたっても認める気配もなく、戦争の終わりごろには日本を追い出そうとする運動が各地でさかんになっていった。
このとき日本と戦ったり、日本式の教育を受けた組織の指導者が、多くの国で戦後にヨーロッパから最終的に独立するときの指導者となっていくんだ。
***
◆1929年~1945年のアフリカ
◇ポイント
・アフリカの人々も、世界各地の戦場に動員されることに
・フランスがドイツに占領されると、フランス植民地はドイツ派政権(ヴィシー政権)の支配下に
アフリカはまだ植民地から抜け出せないんですか?
―まだまだ「植民地だらけ」の状況のままだ。
この状態のまま
世界恐慌で経済がやばくなっていたヨーロッパ諸国は、アフリカの植民地の資源を頼りに、自分の国の経済を立て直そうと必死だ。
独立を保っていたエチオピアも、ついにイタリアの植民地となってしまう。
北アフリカ一帯は、ドイツ・イタリア側とイギリス側によって激戦地となった(注:北アフリカ戦線)けど、最終的にはイギリス側が奪回しているよ。
―戦局が悪化すると、当たり前のようにアフリカから大勢の兵士が戦場へと送られた。
「母国の皆さん、忘れないで下さい。もし兵士に手紙を書いて下されば、私はここビルマで喜んで受け取ります」
これ、何ですか?
―この時代、戦場となったビルマから故郷に向けて送られた手紙の一部だよ。
だれが送ったんですか?
―送り主は、アフリカ人なんだ。
これはアフリカのジンバブエから、イギリスによって東南アジアのビルマ(現・ミャンマー)に駆り出された兵士だった。
注:出典:溝辺泰雄「第二次世界大戦期のビルマ戦線に出征したローデシア・アフリカ人ライフル部隊(現ジンバブウェ)のアフリカ人兵士からの手紙:全文訳(2/2)」『明治大学国際日本学研究』第 7 巻第 1 号。写真は同じくイギリス軍によってビルマに派兵された現在のマラウイの人々(The King's African Rifles (KAR) )
なんでまたアフリカの人が東南アジアのビルマにまで行って、日本軍とたたかわないといけなかったんですか?
―イギリス軍は当時、植民地だったインドとビルマを守るため、ビルマを占領しようとした日本と戦っていた。
その兵力として、イギリスの植民地だったアフリカの人々までもが動員されたというわけだ。
イギリスの植民地だったアフリカの人が、同じくイギリスの植民地だったビルマに行って、そこを狙う日本兵を殺さないといけなくなる…...複雑というか理不尽というか...。
―世界全体がひとつの戦争に巻き込まれ、暴力が正当化されていく...まさに文字通り「世界大戦」というべきだよね。
その一方でアフリカ各地では、戦後の独立をにらむ動きも活発化。民族運動のグループもつくられるようになっている。
***
◆1929年~1945年のヨーロッパ
◇ポイント
・ドイツの独裁者がソ連と提携し領土を拡大(ヴェルサイユ体制を否定)
⇨助っ人アメリカがフランス・西ドイツなど西ヨーロッパを解放
対するソ連は、ポーランド・東ドイツなど東ヨーロッパを解放
⇨西ヨーロッパ(英仏+用心棒のアメリカ)
vs 政治思想によるヨーロッパ東西分断のはじまり!
東ヨーロッパ(ソ連派政権+ソ連)
―さて、最後はヨーロッパの目線からこの時代を見てみよう。
ヨーロッパを震源地に二度目の大戦が起きますね。でもどうして...?
―一度目の大戦の後には「反省」を生かして、「すべての国が加入する平和組織」(注:国際連盟)をつくったり、「自衛以外の戦争は禁止する条約」(注:不戦条約)をつくったりと、進展があったように見えたよね。
でも、アメリカ合衆国ではじまった景気の破壊的悪化(注:世界恐慌)がヨーロッパにまで延焼すると、各国で経済が傾くようになった。
先の見えない人々の「不安な心理」が、暴力的な指導者を国のトップにつかせてしまったという面もあるね。
その後、どうして戦争になっちゃったんですか?
―「1度目の世界大戦」で莫大な賠償金を課せられていたドイツが、同じく国際的にハブられていたソ連と組んで、「世界平和を守る組織」(注:国際連盟)のつくった秩序に対して挑戦したことで始まったんだ。
「いじめられっ子どうしが組んで」戦争を起こした形ですね。
―たしかに。
「世界平和を守る」とかなんとか言っちゃって、結局は「勝ち組に有利な体制を守るための組織じゃないか!」というような主張を、当時のドイツとソ連の政権担当者は展開したわけだ。
でもソ連って労働者の国をつくろうとしていたわけですよね。どうしてドイツなんかと組んだんですか?
―ドイツは当時、世界的不況の影響をもろに受け、街には失業者があふれかえっていた。
そんな中、「悪いのは賠償金を課しているイギリスやフランスだ!」
「敵はドイツの中にひそむユダヤ人だ! イギリスやフランスとつるんだユダヤ人が富を牛耳っている!」
「人類でもっとも優秀な人種は、科学的にみるとドイツ人だ!」
「ドイツ人が生き残る道はただひとつ! イギリスやフランスに「押し付け」られた条約を破棄して、領土を回復させることだ!」と、過激な主張をアピールする政党(注:ナチ党)が政権をとったんだ。
すでにユダヤ人に対するあからさまな弾圧もエスカレートしていました(注:水晶の夜)
まわりの国はどう反応したんですか?
―ソ連ははじめこの動きを警戒した。
だって、ドイツが東に領土を拡大すれば、必ずやソ連のほうに進出してくるはずだからだ。
それにドイツはイタリア(注:ムッソリーニ政権)と組んで、スペインでも同じような考えを持つ指導者(注:フランコ)をサポートした。
スペインの独裁者(注:フランコ)
イタリアの独裁者(注:ムッソリーニ)
当時のイタリアでは、ドイツと同じように「国民の権利を制限して、国の力を強める」ことで、強い国をつくろうとするリーダーが独裁体制を固めつつあったんだ。
同じ時期に似たようなリーダーが現れていたんですね。
―強い指導者が国民を強力にまとめあげる支配方式を導入したのはイタリアのリーダーが先で、それに惚れ込んたドイツの指導者が多くをパクったわけなんだけどね。
このイタリアの指導者は、自分をローマ皇帝の「生まれ変わり」と豪語し、かつての(約2000年前の)ローマ帝国のような強国を復活させることを目指したんだ。
世界的な大不況の影響で、多くの国の政治が混乱していた中、「強力なリーダーシップで国民を束ねる」やり方(注:ファシズム)は、かえって「新鮮」にうつったようだ。「話し合い(注:議会制民主主義)ではいつまでたっても解決しない」という考え方だ。イギリスの首相(注:チャーチル)も、イタリアの指導者に対して当初は好感をもっていたくらいなんだよ。
ドイツと開戦したときのイギリスの首相(注:チャーチル)
でも、国民をまとめ上げようとするには、例えば労働者の国をつくろうとするグループなんかは、敵視されそうですね。
―その通り。
ドイツやイタリアの独裁者と、ソ連のような考え方とは、「相性」が悪かった。
ソ連は世界中の人たちに叫んだ。「このままでは、自分の国のことばかり考えて、平和をぶち壊す組織がのさばってしまう。細かい主義や信条の違いは「おいといて」、自由を壊すグループに反対する運動を世界中で起こそう!」(注:人民戦線)と主張した。
でもしばらくすると、なんとソ連はドイツとタッグを組むという選択をくだすことになる。
またまたどうしてですか!?
―ソ連はイギリスとフランスのことを警戒していたからだ。
イギリスとフランスがドイツに甘いのは、「ドイツを使って、ソ連をつぶそうとしているんじゃないか」と疑ったんだ。
そこで、「ドイツと組む」という世界があっと驚く方針転換をしたわけだ(注:独ソ不可侵条約)。
でも、ソ連とドイツの「パートナーシップ」なんて、長続きしますかね...?
―やはり、そうはいかなかったんだ。
ドイツが南東方向に領土を広げようとしたことに、ソ連が反発したんだ。
結局ドイツとソ連との間には戦争が勃発し、ソ連はイギリス側に立ってドイツと戦うことになった。
「ソ連がイギリス側に立つ」っていうのも変な話ですね。
―敵はあくまでもドイツだっていう「一点」のみでの提携だ。
国の運営の方法をめぐっては、決して一致はしていない。
現実主義的な選択だ。
戦いはもはや「なんでもあり」。
一般市民をねらった空襲や、特定の民族や障害者の抹殺をねらった無差別大量殺人などもおこなわれた。
イタリアもドイツも結局負けたんですよね?
―そうだね。順次負けていく。
イタリアが降参し、フランスがドイツから解放され、その後ドイツも降参した。
「なにも条件はつけません。どんな形の処置になるのかは、戦勝国のみなさんでご自由にお決めください」という形の無条件降伏がとられた。
まさに、勝者こそが「正義」というわけだ。
敵がいなくなってしまったら、イギリスとソ連の間には対立も生まれますね。
―その通り。
すでにアメリカも交えて、ドイツが滅びる前から「戦後の世界をどうするか」ということについて話し合いが持たれていた。
基本的にドイツを追い出すことができれば、そこの住民は喜ぶよね。
だから、ソ連がドイツを追っ払えば、そこの住民はソ連に頭があがらなくなる。
ユーゴスラビアのように自力で解放できたところでは、ソ連のいうことなんか聞かないっていう態度がとれるわけだけれど、東ヨーロッパのほとんどの国々では、ソ連のいうことを聞かざるをえなくなっていったわけだ。
イギリスやアメリカにとってはいや~な展開ですね。
―だよね。
ソ連の勢力圏が「西に広がる」わけだもんね。
結局、ドイツは西をイギリスやアメリカが占領、東はソ連の占領下に置かれた。
実はバルカン半島も、秘密裏にイギリス側とソ連側で勢力圏が決められていたんだよ(注:ヤルタ会談)。
でもイギリスは今度の戦争で本格的に「へとへと」だ。
かつての世界ナンバーワンのプライドを捨てきれずとも、ソ連の軍事力に立ち向かうためには、もはやアメリカの力を頼らざるをえなくなっていくよ。
でも、ヨーロッパのことなのに、アメリカ合衆国はどうしてそんなに口出しをすることができたんですか?
―それはね。
アメリカ合衆国は当時、「使ったらおしまい」というべきとんでもない破壊力を持つ兵器を持つ、唯一の国であったからなんだ。