8.3.1 宗教改革の始まり 世界史の教科書を最初から最後まで
ローマ=カトリック教会への批判は、「近世」(通常ヨーロッパでは16〜17世紀中頃の期間を指す)に入ってからいきなり始まったわけじゃない。
13世紀には十字軍の失敗が目に見えて明らかとなり、”言い出しっぺ“のローマ教皇の権威はダウン。
14世紀になると国王や神学者の中には、公然とローマ教皇をディスる人も現れるようになっていたんだ。
財源が減少する中でローマ教皇庁は「罪がゆるされるお札」(贖宥状(しょくゆうじょう))を各地で販売するようになる。
この現状に眉をひそめたのが、ドイツ中部のザクセン選帝侯の領地で研究生活を送っていたマルティン=ルター(1483年〜1546年)だった。
彼はヴィッテンベルク大学の教授として、ローマ教皇の考えがいかに『新訳聖書』に背いているかを、95か条にわたって論理的に説明。
これを九十五カ箇条の論題という。
当時、豪華な生活をおくるため、ヨーロッパ有数の大富豪であったドイツはアウクスブルクのフッガー家に借金をしていたローマ教皇 レオ10世(在位1513〜21年)。
このレオ10世はなんとフィレンツェの大商人であるメディチ家の出身だ。
「サン=ピエトロ大聖堂を豪華なルネサンス様式で新築する」と銘打って、資金調達のために「贖宥状」(しょくゆうじょう)をドイツ各地で販売。
「教会にお金を寄付するなどの善行を積めば、過去におかしたありとあらゆる(宗教的な)罪がゆるされる」という触れ込みで贖宥状を売り出していたのだ。
ルターによる九十五カ条の論題のポイントは、「「ありとあらゆる罪」が許されるなんてこと間違いだ」というもの。
しかし、単純に神学的な論争をしたかったルターの手を離れ、15世紀なかばにドイツのグーテンベルクにより改良され普及していた活版印刷によって刷られ”大炎上“することに。
ドイツ中でさまざまな風刺画や主張を載せたパンフレットが刷られてRTされ、ルター派とローマ教皇派の間に“印象操作”合戦がひきここされた。
ルター支持にまわったのは、ローマ教皇による介入をきらった諸侯や都市の市民、それに領主に苦しめられていた農民たちまで広範な層におよんだ。
これをみて1521年、ローマ教皇はルターを破門する。
これを受け、ローマ教会を保護する立場にある神聖ローマ皇帝カール5世(在位1519〜56年)が、ドイツ中の諸侯たちの集まる帝国議会にルターを呼び出した。
しかし、ルターは自説を撤回しなかったため、ルターの「破門」状態は解かれることなく、“命の危険”にさらされることに。
そんなとき、ルターを保護したのが、ザクセン選帝侯だった。
国のなかで“犯罪者扱い”されている人を保護し、自分の領地の城でかくまうことができるなんて「?」と思うかもしれないけれど、当時の神聖ローマ帝国は、それほど各地の諸侯たちが自分たちの領地で独立性を高めていたんだよ。
ザクセン選帝侯にとっても、ルターをかくまうことにはメリットがあった。
ドイツの統一をすすめようとする神聖ローマ皇帝に抵抗する際、多くのひとに支持されているルターを取引の材料に使うことにできるからだ。
ドイツのフッガー家を“黒幕”とする贖宥状(しょくゆうじょう)の販売によって、ザクセンの富がローマに流出していたことも、ザクセン選帝侯がルターをかくまった理由の一つだった。
安心したルターは、ヴァルトブルク城に“缶詰”となり、かねての悲願である「聖書のドイツ語訳」を完成。その後12年間で20万部以上発行され、近代ドイツ語の発展に寄与した。
ローマ・カトリック教会の使用するラテン語聖書ではなく、当時研究の進んでいたギリシア語聖書から訳したことがポイントだ。
“だれでも自由に慣れ親しんだ言葉で聖書がよめる世界”をめざしたルター。
これまで教会を通してしか聞くことができなかった『聖書』の言葉を、直接人々に届けたい。
そんな思いが、ルターにはあった。
ルターは親しみやすい聖歌も作曲した
『聖書』はいわば、神の言葉そのもの。
その言葉(福音(ふくいん))を無視し、独自の儀式や奇跡を強調するローマ教会のほうこそ、『聖書』の教えに反している。
ルターはそう主張したんだ。
このような立場を福音主義というよ。
ただ、ルターの言葉に影響され、自由を求めた農民たちがミュンツァー(1490年頃〜1525年)の指揮下に大反乱を起こすと、ルターの態度は揺れた。
当初は農民に同情的だったルターも、「破壊をもたらす農民たちの行為は間違っている」と、諸侯の立場に立つことを決意。
「ルター派」の教えを採用した諸侯と協力して、農民たちを弾圧した。
ルター派に立った諸侯たちは、ローマ=カトリック教会の権威から離れ、みずからが領内の「ルター派教会」の首長となっていった。
これを領邦教会制(りょうほうきょうかいせい)という。
諸侯にとっては、ルター派を支持することで、領内にある広大なローマ=カトリックの修道院の土地資産をコントロール下におさめることが可能となる。
これはとってもおいしい話だ。
ルター派の領邦では、教会の儀式の改革もおこなわれていった。
一般にルター派の教会の内部は質素で素朴なことが多いね。
もちろんこのようにルター派に寝返った諸侯たちを、神聖ローマ皇帝も黙ってみているとは限らない。
しかし、当時のドイツには、ある ”危機“ が忍び寄っていた。
トルコ人のオスマン帝国だ。
オスマン帝国は1526年にハンガリーを奪うと、神聖ローマ帝国は「ルター派諸侯の助けも必要」と判断、ルター派を認めることにした。
しかしこの妥協は長くはつづかない。
1529年にウィーン包囲が終わると、ルター派の承認を撤回してしまったのだ。
「そりゃないよ」と、ルター派諸侯が「抗議文」(ラテン語でプロテスタティオ)を提出。
「抗議する人」という意味で、ルター派を含む宗教改革派のことが「プロテスタント」と呼ばれるようになったのは、このことがきっかけなんだ。
1530年に、皇帝に批判的なルター派諸侯や都市は「シュマルカルデン同盟」を結成し、その後1546〜47年までシュマルカルデン戦争に発展。
その後、1555年になってようやくアウクスブルクの和議が取り決められた、「これからは諸侯がカトリックを採用しようが、ルター派を採用しようがかまわない。ただし、領民は諸侯の決定に従うこと」という妥協が成立した。
そういうわけで、ローマ教皇と距離をとりたい諸侯たちの間に、その後もルター派は拡大。
ドイツ地方の分裂がますます深まる要因となった。
デンマーク王国、ノルウェー王国、スウェーデン王国、プロイセン公国(のちドイツに発展していくことになる国)などに広まっていった。
史料 『ザクセン選帝侯(フリードリヒ)の予知夢』
宗教改革100周年記念のポスター(1617年)
なお、現在ではルターの活躍したヴィッテンベルクの関連スポットは「世界遺産」に指定されているよ。
このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊