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7.3.1 ティムール朝の興亡 世界史の教科書を最初から最後まで

さて、これからはモンゴル帝国が滅んだ後西アジア、中央アジア、アジアの様子を見ていこう。


13世紀後半(今から750年ほど前)にモンゴル人に支配されていたイランと中央アジア。



イランにはイル=ハン国が建てられ、中央アジアではチャガタイ=ハン国が建てられていたね。
両方とも、チンギス=ハンの子孫が現地の人々を支配する国。

イランのイル=ハン国の住民はトルコ系の遊牧民やイラン系の人々、中央アジアのチャガタイ=ハン国ではトルコ系のウイグル人が多かった。

イランのイル=ハン国では君主はイスラーム教に改宗し、イランの伝統に合わせた支配を進めるなど、実態に合わせた変化も見られるようになっていた。

14世紀半ば頃になると、中央アジアでも支配層のチャガタイ家の中で ”仲間割れ“が起き、パミール高原より西側(西トルキスタン)の西チャガタイ=ハン国と、東側(トルキスタン)のチャガタイ=ハン国に分裂。


このうち、西トルキスタンの西チャガタイ=ハン国で、1370年に王朝(ティムール朝(1370〜1507年))を建設したのが武将ティムールだった。

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彼はチンギス=ハンを方のご先祖にもつ名家の生まれ。
父方のご先祖がチンギス=ハンでなければ「ハン」は名乗れないので、自身は「ハン」を名乗らず、別の人物に「ハン」を名乗らせることに。
だからティムール=ハン朝とはいわないんだ。

さっそくイランのイル=ハン国を攻め滅ぼすと、イランからイラクに広がる領土を獲得。

さらに南ロシアのキプチャク=ハン国や北インド(トゥグルク朝)にも遠征している。


また、アナトリア半島にも攻め入り、1402年にアンカラでトルコ人の国家と戦闘。
これをアンカラの戦いという。
トルコ人の国家の君主 バヤジット1世(在位1389〜1402年)を捕虜(ほりょ)にした。


この国家こそ、のちに地中海東部から西アジアにかけてを取り巻く大帝国に発展する「オスマン帝国」だ。
オスマン帝国は敗戦により存亡の危機を迎えるけど、のち復興を遂げることになる。

さて、オスマン帝国に勝利したティムールは、しかし、アナトリア半島から180度向きを変える。
モンゴル人を北方に追い出した中国の(みん)を討伐しようと、東方遠征を開始したのだ。
だが、その途中で病死。

破竹の勢いで急成長を果たしたティムール朝だったが、イラク方面で別のトルコ系遊牧民グループ(白羊朝や黒羊朝)の勢力も強く、早々に分裂。




しかし東西の物流ルートに位置したサマルカンドはその後も繁栄を続けた。
壮大なモスクやイスラーム教の学院(マドラサ)が建設され、14〜15世紀には一躍中央アジアの商業・学芸の中心地となったんだ。

史料 クラヴィホの旅行記にみるサマルカンドの繁栄

この大都市、そして、その周辺の豊かさはまことに見た目にもすばらしいものである[…]このように交易もさかんにして、その都をもっとも立派な町にしようと、ティムールはつとめていたのである。そして彼が遠征したところからは、その土地の大部分の男子をサマルカンドに強制移住させ、同時にいろいろな国の熟練した職人たちも連れてきた。たとえば、ダマスクスからは、そこに居た職工を全部連れてきて、絹織業に就かせていたし、[…]このようにして、今やサマルカンドにはあらゆる民族の者が集まり、人工も非常に増え、家族も含めてその数は15万以上だといわれていた。

クラヴィホ(山田信夫訳)『チムール帝国紀行』東洋文庫



また、現在のアフガニスタンに位置するヘラートも、ティムール朝の時代に整備されている。



学芸を大事にする伝統はその後も守られ、宮廷ではイラン文学や細密画の傑作がつくられ、トルコ文学(チャガタイ=トルコ文学)も発達する。

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われわれ日本人にとっては“わかりにくい”けれど、モンゴル系の要素の影響を受けつつ、古来のイラン系とトルコ系の言葉の両方が息づく多様性が、中央アジアの特徴でもあるんだよ。


理系の分野では、君主ウルグ=ベグ(在位1447〜49年)が天文台をつくらせ、天文学やカレンダー製作の精度も高められた。
現在のウズベキスタンでは、ウルグ=ベクは評価が特に高い名君だ。

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天文台



その後、ティムール朝は分裂と統合をくりかしたものの、結局トルコ系の騎馬遊牧民であるウズベク人によって滅ぼされる。



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ウズベク人は、現在のウズベキスタンを中心とする民族のルーツで、のちにヒヴァ=ハン国、ブハラ=ハン国、コーカンド=ハン国を建設する。




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