見出し画像

14.1.2 第一次世界大戦の勃発 世界史の教科書を最初から最後まで



セルビアやブルガリアなどのバルカン半島諸国が、それぞれ特定のヨーロッパの強国の後ろ盾を得ながら「強国づくり」を進めようとする中、1908年にオーストリアに併合されていたボスニア=ヘルツェゴヴィナで、ある事件が起きた。

1914年6月末のこと、ボスニア=ヘルツェゴヴィナの州都サライェヴォ(サラエボ)に、オーストリア=ハンガリー皇帝(1867年以降、オーストリアはハンガリーとの同君連合)の位を継ぐ権利をもつ皇太子夫妻が訪問。)の位を継ぐ権利をもつ皇太子夫妻が訪問。


この2人が、パレードの最中に「ここはスラヴ人の土地だ!」と主張する秘密結社に属するセルビア人青年によって暗殺されてしまったのだ。


オーストリア=ハンガリー帝国はこの一件を「スラヴ人の民族運動を弾圧する」絶好のチャンスと考え、ドイツ帝国の支持を得て、7月末にセルビアに宣戦。


このときには、のちに約900万人もの未曾有の死者を出す「世界大戦」が待ち受けていようとは、誰もが予想だにできなかったのだが...。


***



オーストリア=ハンガリー帝国がセルビアに宣戦すると、ロシアはセルビアを助けることを表明。

不気味な沈黙があって8月初め、水面下でうごいていた他のヨーロッパの強国もにわかに動き出すことに。



オーストリア=ハンガリー帝国と三国同盟を結んでいたドイツ帝国は、オーストリア=ハンガリー側で参戦。

ロシアと同盟を結んでいたフランス(露仏同盟が根拠)。さらに後でみるように、ドイツが中立国であるベルギーを侵犯(しんぱん)したことから、安全保障上を理由にイギリスも参戦(同盟や協商が参戦の理由じゃないことに注意しよう)。
日本(日英同盟が口実)も相次いで参戦。

閣下的に、あっという間にヨーロッパは、ドイツ&オーストリア=ハンガリーの(中央)同盟国と、フランス&ロシア&イギリスの協商国の2チームに色分けされることになった。




日本が入っているのは、1902年に日英同盟を結んでいたから...といいたいところだけれど、イギリス側は「これを機に日本が中国に進出するのは困る」と参戦を要請していたわけじゃない。日本の大隈重信内閣は「世界の大国と肩を並べるチャンス」と見なし、内外の意見を調整しつつ、同盟を「口実」に派兵することにこぎつけたのだ(詳しくは【進む→】14.3.2 日本の動きと東アジアの民族運動)。


その後、同盟国チームには、オスマン帝国やブルガリアが参戦。
ちょうど地図上でみると、同盟国が真ん中にびよーんとオスマン帝国のほうに伸びていて、それをフランスとロシアが挟み撃ちする形勢。

ふつうに考えると、二正面作戦の形勢じゃ、ちょっと勝ち目がなさそうだよね。


しかし、ドイツ帝国の参謀本部の見方は違った。

「中立」を表明していたベルギーに侵攻し、それを経由して北フランスに侵攻すれば、短期間で勝負がつくという電撃戦プランを立てていたのだ。




しかしこの電撃戦は、さっそく1914年9月のパリ近くのマルヌの戦いで、フランスとイギリス連合軍によって阻止される。

画像4


この頃にはすでに、フランス側の戦いのライン(西部戦線)では、長く深い「堀」が掘られるようになっていた。堀にたてこもった兵士が敵兵に対して一進一退を進める「悲惨な戦い」が幕をあけることとなったのだ。



泥や汚物まみれの塹壕(ざんごう;トレンチ)で驚怖にふるえる兵士たちを、実用化されていた航空機から落とされる爆弾(空爆)や、塩素などの毒ガス


それにあらゆるものを踏みつぶしながら塹壕を踏みこえる「戦車」(タンク)が容赦なく襲いかかった。


戦場は、かつてのように将軍に率いられ、さっそうと馬に乗って駆け抜ける”ロマン“に満ちたもの(もちろん実際には違うけれど)ではなくなり、大量虐殺や後遺症、深いトラウマをもたらす非人間的な場となっていったのだ。




一方、ロシアとの戦闘ライン(東部戦線)では、1914年8月にタンネンベルクというところでドイツ軍がロシア軍を破り、一時ロシア領内に進撃。



多くの兵士は「クリスマスまでに戦争は終わる」と、気軽な気分で戦争に向かったと証言している。

しかし広く寒いロシアを占領するだけの見込みはなく、「短期戦」と見積もられていたプランの甘さが次々に明るみになった。

オットー・ディクス《塹壕での食事》
「まるで威嚇するかのような画面右の骸骨が象徴するように、死と隣り合わせの塹壕陣地では、缶詰の味気ない昼食をとることすらままならない。」(岡田温司『反戦と西洋美術』ちくま新書、2023年、64ページ)


オットー・ディクス《ガスマスクの突撃隊》
「ガスマスクは、ひとりひとりの人間から個人としての顔を完全に奪い去り、一様な機会もどきに変容させる。彼らは、犠牲者にもなれば殺戮者にもなるだろう。」(岡田温司『反戦と西洋美術』ちくま新書、2023年、64ページ)「…だから私は戦争に行ったのです…無条件に体験をしたのです。私はまた、自分の隣である 者が突然倒れ、死に、弾丸が彼に命中するさまを体験しなければならなかったのです。こう したことすべてをまったくそのままに体験しなければならなかったのです。私はそう望んだ のです。ですが、私はやはり平和主義者ではまったくないのです。では何なのかって?… ひょっとすると好奇心旺盛な人間だったのかもしれませんね。私はすべてを自分で見なけれ ばならなかった。ご存じのように私はレアリストであり、それがそうであったということを 確認するために、すべてを自分の目で見る必要があるのです。…つまり、私はまさしく現実人間なのです。すべてを見なくてはならない。人生のあらゆる浅薄さを自分で体験しなくて はならない。だから私は戦争に行ったし、しかもみずから志願までして行ったのです。」(勝山紘子「描かれる痛み ―オットー・ディックスの『戦争』シリーズを手掛かりに―」、京都府立大学学術報告(人文)第68号、2016年、)。




長期にわたる戦争を勝ち抜くためには、農産物の大量生産、工業製品の大量生産、それに新兵器の開発能力が必要。
「軍事力」イコール「経済力」。
この「世界大戦」は、単なる戦場での戦いという枠をはみだし、国全体をまきこむ「経済戦争」へとエスカレートしていくことになったわけだ。



そこでイギリス側の連合国は、ドイツの経済を封鎖させようとドイツと海外との経済をブロック。
国全体の経済活動を麻痺させることで、戦争に勝とうとする。


それに対してドイツも、新兵器である潜水艦で、イギリス、フランスの物流ルートを攻撃。

1915年にはアイルランド沖で、著名人も載っていたアメリカ合衆国の豪華客船ルシタニア号が、アイルランド沖でドイツの潜水艦に撃沈され、1198名が亡くなるという大惨事も発生した。



1917年にはドイツはさらに一歩すすんで「無制限潜水艦作戦」を宣言、指定ルート以外のすべての船を無警告で攻撃する措置をとる。


これがもとで、ヨーロッパの「大戦」との間に距離を置いていたアメリカ合衆国ウィルソン大統領も、ドイツとの外交関係を切ることを決断。
1917年4月にドイツに宣戦することになる。

建国以来、”ヨーロッパの同盟に関与しない“立場(孤立主義)を貫いてきたアメリカ合衆国の、大きな大きな方針転換となった。

 戦争に巻き込まれるのは嫌だという世論を超えるため、政府は大々的に戦争の正当性を訴える広報を開始した。こうした行為は、人々の無意識に着目するマーケティングの手法とも結びつき、「プロパガンダ」(元来はキリスト教の宣教を指す言葉だった)と呼ばれるようになった(精神分析学医フロイトが『夢判断』を刊行したのは1900年。広告とマーケティングの関係についてはhttps://www.advertimes.com/20190809/article296905/2/を参照)。

資料 第一次世界大戦中のアメリカにおける「戦時広報」
 
早くも参戦の1週間後の4月14日、戦時の「健全な世論」形成を担う戦時広報委員会(CPI)が大統領行政命令のかたちで設置された。事業全体を統括する委員長には民間のジャーナリスト、ジョージ・クリールが就いた。[…]
 CPIに課せられた最大の任務は、人々に戦争目的を周知、解説することだった。たとえば第一号パンフレット、『いかに戦争がアメリカに到来したか』は次のように参戦の経緯を語っている。
 […(下記写真参照)]
 ここに示された戦争目的は、参戦直後のアメリカ政府の公式見解と見て間違いない。モンロー・ドクトリンの伝統と将来の平和構築を結びつけるレトリックや、ドイツの専制とアメリカが依って立つ「被治者の合意」を二項対置する論法は、CPIが製造する様々な媒体に登場する定番のモチーフとなった。[…]すでに見たように、二年以上前に起ったルシタニア号事件は、アメリカ参戦の直接的な原因とはいいがたかった。しかし、戦時下の国内宣伝によって、この二つの出来事はアメリカ人の集合的な記憶の中で分かちがたく結びつけられた。『いかに戦争がアメリカに到来したか』は、総部数543万という凄まじい数が印刷され、全米の津々浦々に配布されたのであった。その後、休戦までの一年半、CPIは膨大な情報を国民社会に向けて発信し続ける。新聞各紙へのプレスリリースは6000回を超え、総計7500万部のパンフレットと無数のポスターを発行した。

(出典:中野耕太郎『20世紀アメリカの夢—世紀転換期から1970年代』(シリーズ アメリカ合衆国史③)岩波書店、2019年、68-70頁)

※Google Booksで閲覧可能(上記リンクは第1号)


ジョージ・グロス《血は最上のソース》
マックス・ベックマン《復活》
ケーテ・コルヴィッツ《母たち》


サージェント《毒ガスを浴びて》
「…行列の兵士たちの脚のあいだをよく見ると、何やらサッカーに興じているとおぼしき土地の少年たちの姿が遠くに小さく描かれているのがわかる。」(岡田温司『反戦と西洋美術』ちくま新書、2023年、90ページ)

このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊