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14.2.4 東ヨーロッパ・バルカン諸国の動揺 世界史の教科書を最初から最後まで

第一次大戦後、東ヨーロッパとバルカン地域では、多くの新興国が成立。

しかし、領土を失ったオーストリアや、オーストリアから分離独立したハンガリーが、もう一度領土を取り返しに来るんじゃないかとの心配から、チェコスロヴァキアポーランドルーマニアは相次いでパートナー関係を締結。

そこへ、オーストリアやハンガリーの復活を懸念していたフランスが後ろ盾につくかたちで、「小協商」というグループが成立した。

フランスにとっては、地図をみればわかるように、ドイツに対する “はさみ撃ち” の体制づくりと、ドナウ川流域へのビジネス進出という意味を持っていた。


1924年のパリ五輪


けれど、新興国はいずれも少数民族問題をかかえていたため、国内はなかなかまとまらない。

いきなり「あんたはルーマニア人だよ!」って言われても、「うーん😐 自分はハンガリー語話すしなあ...」ってなっちゃうでしょ。
そこで、「ハンガリー人とは?」「ルーマニア人とは?」という “アイデンティティ探し”が“イメージづくり”が、盛んにおこなわれるようになっていくんだ。



しかも、チェコスロヴァキアをのぞきほとんどは農業国だ。


1920年代に世界規模の農業不況がおきると、経済的にも一段ときびしくなっていった。



そのため1920年代の末になると、「外国人は敵だ!」と叫ぶ過激な民族主義や、「個人よりも国家権力のほうが大切だ!」とする強権政治によって国民をまとめあげようとする国が、東ヨーロッパにおいても多くなっていった。


すでにポーランドは独立直後の1920年にウクライナに侵攻して、できたばかりのソヴィエト=ロシア政権と戦争している。
この結果領土を拡大したものの、国内の議会政治ははやくから混乱。
初代国家元首でありながら早々に引退し、機を見て1926年に軍事クーデターに成功した軍人ピウスツキ(1867〜1935年)が、独裁権を掌握。

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個人の権利に制限をかけつつも、強いリーダーシップで危機を乗り越えようとした。当時のポーランドにとっての脅威は、敗戦国である西のドイツと、社会主義革命に成功した東のソ連
多数のユダヤ人を含むポーランドの人々は、力強いピウスツキに未来を託したのだ。




一方、ハンガリーではなんと、1919年にロシア革命をモデルにした革命が勃発(ハンガリー革命)。
西ヨーロッパ諸国の支配層は「このままじゃ、ロシアの社会主義が西に伝染してしまう!」と危機感を募らせた。
そこで、ルーマニアをはじめとするハンガリー周辺の新興国とフランスは、ソヴィエト=ロシア政権を後ろ盾とするハンガリーの革命政府に軍事介入。
革命政府はまもなく崩壊した。


社会主義者たちを倒したのは、軍人ホルティ(1868〜1957年)だ。

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彼は、第一次世界大戦後のトリアノン条約で周辺国に割譲(かつじょう)した領土をなんとか取り戻すべく、かつて強い権威を持っていた「ハンガリー王冠」を持ち出し、ハンガリー王国の復活に乗り出した。

しかし、近隣諸国のハプスブルク家に対するアレルギーは根強く、「国王」に誰かを即位させることは現実的に難しい。

そこで、「王国」という体裁をとりつつも、国王の椅子に座る人は不在のまま、ホルティ自身が「摂政」(せっしょう)という形でが権力をふるうことにしたのだ。


助ける人がいないのに「摂政」っていうのは、なんとも不思議な体制だよね。
国王不在なので、国王中心の政治でもなければ、ホルティは単に摂政なのだからホルティ中心の政治でもない。
革命を起こそうとする社会主義を抑え込みながら、軍人や大地主・資本家たちにより支持される、いわゆる権威主義的な体制が、こうしてスタートしたのだ。



最後に、バルカン半島の新興国を見てみよう。


バルカン半島は14世紀以来、イスラーム教徒の支配エリアと、キリスト教徒の支配エリアに分かれていたよね。

前者はオスマン帝国、後者はハプスブルク家のエリア(第一次世界大戦時には「オーストリア=ハンガリー帝国」)だった。

しかし、第一次世界大戦によって両者は崩壊。

バルカン半島のセルビア人、クロアチア人、スロヴェニア人にとっては、「支配者はいなくなったのはいいけど、じゃあ次はどうするのか?」ということになる。

そもそも第一次世界大戦が勃発した「引き金」となったのは、セルビア人の民族主義者が、オーストリアのハプスブルク家の皇位継承者を暗殺した事件だったよね。

歴史的にみても、この地域における「セルビア人」の存在感は大きく、新しい国づくりもおのずとセルビア人主導でおこなわれることになっていった。

こうして1918年に成立した国が「セルブ=クロアート=スロヴェーン王国」。セルビア人が、クロアチア人とスロヴェニア人のエリアを吸収する形でできた国だ。
国名には名前が連ねられているものの、王にはセルビア王国の国王が即位。言語的にも権力のバランス的にもセルビア人優位であることはいなめない。

結局、クロアチア人をはじめとする民族間の対立が激しくなると、1929年には国王が権力を強化。国名をユーゴスラヴィア王国と改め、クロアチア人の抵抗運動を押さ、力ずくで国をまとめあげようとしていくよ。

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ユーゴスラビアの国王(アレクサンダル1世)はセルビア人だった

その後も続くクロアチア人とセルビア人との深刻な対立は、このあたりにルーツがあるんだ。



このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊