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3-3-3-2. カカオの支えた絶対王政と市民社会 新科目「世界史探究」をよむ


ココアとフランス宮廷

1643年にフランスではルイ14世が即位し、官僚制と常備軍を整備した。
彼の治世に宮廷に浸透した嗜好品のひとつ、ココアに注目してみよう。

ココアはルイ14世の結婚相手、スペイン・ハプスブルク家の王女マリ・テレーズの侍女を通して伝わる。当初は薬用として嗜まれるものだった。

ルイ14世とマリ・テレーズの結婚


もともとマヤ文明アステカ王国のある中南米で、特権階級の嗜好品として飲まれていたカカオ(マヤ語ではチャカウ・ハ、熱い水の意)は、16世紀にスペイン人によって砂糖がもたらされると、甘くして熱い状態で飲まれるようになる。


それが17世紀には、ヨーロッパの貴族層のステータス・シンボルとなり、客人に対して磁器製のカップに注がれ、砂糖たっぷりの菓子とともにふるまわれるようになった。



拡大するココアの栽培

ココアの産地は、16世紀前半、新大陸を征服したスペインによっておさえられた。主要な産地は当初中央アメリカだったが、17世紀にはカリブ海周辺やであるグアヤキル(現在のエクアドル)やカラカス(現在のベネズエラ)といった南アメリカにも広まる。



カカオ農園を経営していたスペイン人のなかには、新大陸で積極的に布教したイエズス会の宣教師たちもいた。活動資金を稼ぎ出すためだ。

スペインのバルセロナ港に入荷されたカカオは、南フランスのトゥールーズの政商を介して、フランス貴族が購入する。この売上が当時オランダの覇権に対抗するため、国内の商工業を保護育成して輸出を増やす重商主義政策をとっていたフランスの国家財政を潤すことになる。

政商には独占権が与えられ、輸入品には高い関税がかけられた。だからココアの値段は高い。高いからこそ、それを購入し、ふるまうことは貴族にとってステータスとなったわけだ。




17世紀にはフランスによるカカオ栽培もはじまった。

1635年に植民地化されたカリブ海のマルティニーク島に、1660年頃にカカオが植栽され、1697年にはここで黒人奴隷により収穫されたカカオがフランスに運ばれる。
まさに同じ1697年にはサン・ドマング(現在のハイチ)が植民地化され、やはり黒人奴隷をもちいたサトウキビのプランテーションが本格化。いずれもルイ14世の治世のことである。

カカオというと今はアフリカ産のイメージが強いが、たとえばガーナが一大産地となるのは19世紀末以降のことなのだ。



イギリスでは市民階級にも広がる

一方、17世紀のイングランドでは、専制政治をしていた国王(当時スコットランドと同君連合をとっていた)が、歴史的に特権が認められていた議会と対立し、そこにスコットランドとアイルランドとの対立も加わって戦乱に発展した(三王国戦争)。

1649年にイングランド国王チャールズ1世が処刑され、共和政が樹立し、厳格なカルヴァン派(ピューリタニズム)の信仰をとるクロムウェルが権力を握る。
クロムウェルはオランダとの戦争(英蘭戦争)を戦い、当時海上貿易の覇権を握っていたオランダに挑戦。植民地でとれた農産物を輸入する商工業者を後押しした。

しかし独裁的な権力を握ったクロムウェルが亡くなると、まもなく王政が復活。開放的な雰囲気の中、オランダとの対抗上、新国王のチャールズ2世と結婚したポルトガル王女キャサリンを通して、新大陸の文物がもちこまれた。
その一つがココアだ。

1650年にオックスフォード、1652年にロンドンでコーヒー・ハウスがオープンし、新大陸の珍しい嗜好品を求める人々のつどう社交の場としてにぎわった。イギリスでは紅茶が人気を博することとなるが、ココアも味わうことができた。

17世紀フランスの薬剤師デフュール(Philippe Sylvestre Dufour)によるコーヒー、茶、チョコレートに関する書物の挿絵(1685年)。下記リンク6頁に挿絵あり。
トルコ人(左)のコーヒー、中国人(中央)の茶、アステカ人(右)のチョコレートをそれぞれ表している。



このようにココアは、オランダの覇権に挑戦せんとしていた17世紀のフランスとイギリスの政治・経済の状況と密接に関わり合いながら、普及していったのだ。


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