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16.4.4 現代思想・文化の特徴 世界史の教科書を最初から最後まで(完)

「人間は合理的に考える」

「人間は個人として自立し、社会をつくる存在だ」

これが近代ヨーロッパの思想にとって、ながらく暗黙の前提とされていた。



しかし、その「近代ヨーロッパ」の思想から生み出されたのは、未曾有の大戦。

第一次世界大戦直後には〈シュペングラー〉(1880〜1936年)の『西洋の没落』が広く読まれた。

巨大組織の中で操り人形のようになった人間。

「そもそも人間は、不合理な「何か」にとらわれているのではないか」
「人間は「自立した強い個人」ではなく「孤独な存在」なのではないか」


「そもそも人間は、不合理な「何か」にとらわれているのではないか」


このような立場を打ち出したのは、哲学では〈ニーチェ〉(1844〜1900年)。


人間の持つ潜在意識の世界に注目したのは〈フロイト〉(1856〜1939年)。


既存のピチっとしたゲイジュツの常識に囚われず、人間の内面の世界を写真・映画・詩によってダイレクトに表現しようとしたダダイズムのアーティストや、

シュールレアリスムをかかげたアーティストたちが盛んに作品を発表した。



「人間は「自立した強い個人」ではなく「孤独な存在」なのではないか」


20世紀初めの世界は「大衆」の時代でもある。
いっぺんに大勢におんなじ内容をたたきこむ義務教育が普及し、社会のほとんどの人は企業や工場に所属して労働者として働いた。
大勢の人々が集まると心理的に安心するが、その中への埋没は「孤独」とも隣り合わせだ。

しかし、数は夢でもあった。たとえばマルクス主義は、少数の前衛(エリート)に率いられ、社会の生産体制を大人数でひっくりかえすことで「共産主義社会」を目指すことができる説き、20世紀にはそれが実際にロシア革命(1917年)や中国の革命(1949年中華人民共和国の成立)などに影響を与えた。



同時に、数は落とし穴でもある。たとえば社会学者マックス=ヴェーバー(1864〜1920年)は、現代社会における官僚制(かんりょうせい)が拡大することの弊害(へいがい)をいちはやく見抜いていた。官僚制の弊害という点においては、ソ連もアメリカも同じ穴のムジナだった。



なお、アメリカ合衆国ではデューイ(1859〜1952年)によって、観念的な体系よりも経験を重視するプラグマティズムが広まった。アメリカの思想というと「銭やで〜金やで〜」という主張のように誤解されがちだが、簡単にいうと「物事を考えるときには、社会におけるその目的をしっかりと考え抜きましょう」という思考法のことだ。
主体性を失った人間は、たんなる「手段」を「目的」と取り違えがち。「自分だけの世界」にこもって他者を攻撃するのではなく、他者とともによりよい社会をつくっていくにはどうすればよいか。デューイ思想はおのずと教育活動につながり、問題解決学習の実践を生み出した。


物質的な豊かさと大衆文化

他方、物質的な豊かさはとどまるところを知らない。

あらゆる消費財がますます多くの人に行き渡っていった。

モール・オブ・アメリカ(アメリカ、1992年、ジョン・ジャーディ設計)
Photo by Runner1928、CC BY-SA 3.0、https://en.wikipedia.org/wiki/Jon_Jerde#/media/File:Mall_of_America_interior_three-level_corridor.jpg



《キャナルシティ》(1996年、日本、ジョン・ジャーディ設計)



自動車やラジオ、映画が普及すると、いちどに多数の受け手に対してある一定の表現を届けたり、文化を広めることが可能に。
マス=メディアを通した大勢の人を受け手とする文化を「マス=カルチャー」(大衆文化)という。

そうなると、これまで「カルチャー」(文化)というと、知識人や教養をもつという自負のある人に限られたもの(ハイ=カルチャー)であったのが、アメリカ合衆国を中心に「みんなの文化」(ポップ=カルチャー)へと変化していくことになる。


文学の世界においては、難解な形式をとる純文学に対し、大衆に親しまれるSF、ミステリー、ファンタジーなどに題材をとった娯楽小説の影響力も強まった。

トールキン(英)『指輪物語』
 
絶大な力を与える魔法の指輪は、米ソ冷戦時代の核兵器の比喩としてとらえられた。


また、西洋以外の地域の文化や、都市的生活を背景とする小説が、民族や国境を超えて受け入れられていくようにもなった。

・ガルシア・マルケス(コロンビア)『百年の孤独』


・村上春樹(日)『ノルウェイの森』




メディアの発達と映像表現の大衆化


一方、テレビ・映画といった映像を通したアメリカ文化 の影響力(ソフト=パワー)が絶大なものとなっていったのも、20世紀文化の特徴だ。



1980年代頃から、大衆的なポップ・カルチャーとは一線を画するサブ・カルチャーが日本で注目されるようになった。漫画アニメ、ゲーム、映画を中心とするオタク文化の誕生である。


サブカルチャー作品においては、冷戦や核技術、核戦争後の荒廃した世界がしばしば題材として取り上げられた。以下の例を挙げておこう。


手塚治虫『来るべき世界』(1951年) 朝鮮戦争期に発表された。

映画『ゴジラ』

映画『マッドマックス2』


『北斗の拳』

宮崎駿『風の谷のナウシカ』

日本を発信源とするサブカルチャーが世界中で消費されるようになっていったのは、1980年代以降のICT(情報技術)革命のおかげだ。電波やICTを通じれば、同じ作品をグローバルに享受することができる。1980年代には衛星放送がはじまり、映像を楽しむことのできる地域も広がった。

一度発信した電波は、必ずしも受信先を限定することできない。西欧のテレビニュースなどから漏れた情報は、東欧の社会主義諸国に流れ、それが1980年代の東欧革命につながった。


2010年代に入ると、携帯端末を通じて自由にSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)にアクセスすることのできる人口が、途上国においても激増する。たとえば2011年の「アラブの春」においては、SNSが市民の反政府デモ開催に威力を発揮したとされる。


こうして現在、情報のグローバル化によって、文化のグローバル化とローカル化が同時進行的に発展している。国境を越えた文化の混ざり合いと、土着のものを見直そうとする動きの二つのベクトルは、ときに対立し、ときに絡み合うものだ。映像メディアには、人間の感情を揺さぶる力がある。ユーゴスラヴィア内戦やルワンダ内戦において、メディアによるキャンペーンが民族紛争を激化させる一因となったことも知られている。



教科書には「仮想空間のなかに閉じこもり、現実と混同する事例なども発生する」とあるけれども、今後情報の容量がさらに増大すると、本当にに現実とデジタル空間の間の見分けすらつかない状況になることも十分考えられるだろう。


非西洋の文化への注目


西洋文化 = 文明

非西洋の文化 = 野蛮

20世紀を通して西洋の文明がさまざまな問題を生み出す中で、非西洋の文化の中に「人間の別のありかた」「異なる文明のあり方」を探る動きが進んでいった。西洋の文化的な要素が、非西洋のそれとミックスされ、あたらしい文化も生み出されるようになる。

その代表例が19世紀末ころからアメリカ合衆国南部のアフリカ系住民の間でうまれた独自の音楽の発展したジャズだ。

第一次世界大戦と第二次世界大戦の間の時期に注目されるようになったジャズは、西洋の楽器や音楽理論にアフリカ系のビートや即興演奏が混交ざって生み出されたあたらしい音楽ジャンル。のちにロックなどのポップ=カルチャーにも発展していった。

メキシコではシケイロス(1896〜1974)が1920年代に壁画運動を盛り上げた。これはスペイン人が征服する前のメキシコ先住民文化の影響をもとに、先住民(インディオ)やメスティーソの民衆の絵を壁画に描くもので、その力強い画風はアメリカ合衆国のアート・シーンにも影響を与えた。


1960年代末ころからはパレスチナ人のエドワード・サイード(1935〜2003)が西洋の思想の裏に流れる「非西洋を野蛮、西洋を文明」という固定観念が、植民地から独立した後(ポスト=コロニアル期)の国々において、なおも現実の「西洋の非西洋に対する支配」を支え続けているのではないかという批判をこころみ、注目を浴びた。

 また、1960年代〜1970年代にかけて先進国では人種平等や男女平等、環境保護を求める動きが盛り上がった。
これらも、近代の西洋文明は、一見「平等」とか「人権」をかかげているように見えても、実際には人種や性別による差別をスルーしていたのではないかという事実を明るみにするものだった。


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「大きな物語」の崩壊


20世紀前半に “夢の社会” をつくろうとして誕生した、ソ連は20世紀後半に崩壊。20世紀前半に資本主義国によって打ち立てられた社会保障重視のための「大きな政府」も、20世紀後半には自由競争をすすめる新自由主義に転換していった。
こうして「社会主義は平等な社会を保障します!」とか「資本主義は豊かな社会を約束します!」といった、だれもがあこがれる「大きな物語」をベタに信じることは、もはやできなくなっていく。

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人間の進歩や理性、主体性を重視する、西洋で発達した「近代」的な知を疑う動きは、20世紀後半以降、思想・学問の領域でさかんに見られるようになっていった。
レヴィ=ストロース(仏)の文化人類学、フーコー(仏)、デリダ(仏)、ドゥルーズ(仏)に代表される現代思想が、その代表例だ。




グローバル化のもたらした地球的課題


しかし、自由な取引が世界規模に広がっていくのにつれて、国内外に所得の格差がうまれたり、短期的な「もうけ」を考えるだけの投機が世界的な経済危機を生み出すような状況が生まれると、「このままではいけない」という動きも起きるようになっている。

なんらかの「コミュニティ」を復活させる必要があるのではないか。その際、従来のように「大きな理想」にすがるか、それとも自分だけが信じられる「個人的な主義主張」にしがみつくか。それとも地球全体のことを考えつつ、自分の住む土地のことを考えることは可能か。



地球規模の環境危機が現実味を帯びる中で、化石燃料の消費に依存し、地球そのものに大きな負荷をかけてきた「進歩」に代わる、あたらしい方向性が必要だという声も高まっている。


また、人間という種の「内部」における文化の違いではなく、人間という種を超える「動植物」「感染症」「地球」との関係性も視野に入れた、あたらしいライフスタイルや価値観も模索されている。





このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊