4.2.3 西方イスラーム世界の変容
アラブ人中心のイスラーム世界が崩れていった11世紀半ば(今から850年ほど前)、アラビア半島から見て「西方」のイスラーム世界でも、“ご当地色”が濃くなっていくよ。
ベルベル人が北アフリカからイベリア半島にまたがる国を建てた
従来、北アフリカの先住民ベルベル人(自称はイマジゲン)は小さなグループに分かれており、アラブ人の支配下に置かれた者も多かった。
掘削した岩塩をラクダに乗せてサハラ砂漠を南に進み、ニジェール川の都市で南方の商人のもたらした金と交換する塩金交易にも従事した。
そして11世紀後半(今から950年ほど前)、武装したベルベル人修行者グループたちが「イスラーム教のもとに国をつくろう!」という運動をはじめる。
彼らはモロッコのマラケシュを都にまずムラービト朝(英語:アルモラヴィド朝、1056〜1147年)が建てた。
その後さらに別のベルベル人グループが、「ムラービト朝の教義解釈はまちがっている!」としてムラービト朝を打倒。ムワッヒド朝(英語:アルモハード朝、1130〜1269年)という国を建てるんだ。
両方の国が都を置いたマラケシュは、今でも当時の街並みがよく残る、エキゾチックな古都だよ。
ムラービト朝もムワッヒド朝も、ジブラルタル海峡を越えてイベリア半島に進出。前者は、アラブ人の王朝だった後ウマイヤ朝を滅ぼしている。
だが、北方からはキリスト教徒の勢力がしだいに南へと拡大。イベリア半島はキリスト教徒とイスラーム教徒の政治的な対立の最前線となったんだ。
キリスト教徒による領土拡大運動のことを、国土回復運動という。
イスラーム教徒は後から土地を取った“侵略者”であって、その土地をもう一度キリスト教徒によって取り返すんだ!というわけだね。スペイン語では、レコンキスタReconquistaー英語っぽく解釈すると、もう一度Re・征服するConquerという意味だ。
けれども「対立」はあくまで政治的なもの。ムワッヒド朝のように異教徒を厳しく弾圧した政権もあるけれど、この時期のイベリア半島ではイスラーム教徒、キリスト教徒、それにユダヤ教徒たちが、街の中でおおむね共存する状況もみられた。
イベリア半島最後のイスラーム政権はナスル朝
ムワッヒド朝は、1212年にキリスト教徒のカスティリャ王国などと戦って敗北。
最後は、モロッコで別のベルベル人勢力に滅ぼされてしまった。
ムワッヒド朝が滅ぼされた後、スペイン南部(アンダルシア地方という)各地には小さなイスラーム教徒の政権が残存。
そのうち最後の勢力となったのが、最南部のナスル朝(1232〜1492年)だ。
グラナダという都市を中心に、地中海の貿易の支配権を握ろうとした。
グラナダに残る世界文化遺産のアルハンブラ宮殿を見れば、彼らがいかに独特で洗練された華麗な文化を生み出してきたかが良くわかる。
幾何学的な装飾文様(アラベスク)のデザインに、思わずうっとりするはずだ。
グラナダのナスル朝にとどめを刺したのは、1492年にキリスト教徒の国であるスペイン(イスパーニャ)王国だ。
ここに、800年にわたってイベリア半島を支配したイスラーム教徒の政権は消滅した。
グラナダが陥落する前に、次のような協定がスペイン王とナスル朝君主の間に締結されていた。
ところが、その後イスラーム教徒に対しては、次のような勅令のような措置がとられることになった。
イスラーム教徒の多くは「キリスト教徒に支配されるのは嫌だ」と、北アフリカに逃げていった。しかし、キリスト教に改宗したり”隠れムスリム”となることで、そのままイベリア半島に残った家柄も少なくないよ。
ムラービト朝はサハラ砂漠にも進出
ちなみに、モロッコのベルベル人国家 ムラービト朝(1056〜1147年)は、サハラ砂漠方面にも拡大したことで知られている。
サハラ砂漠にいったい何があるんだ⁉︎と思うかもしれないけど、サハラ砂漠を超えれば南方には金(きん)の鉱山があるし、サハラ砂漠各所では岩塩(がんえん、ロックソルト)もとれる。
金と岩塩を運ぶ商人が集まるのは、砂漠のど真ん中を貫通する大河ニジェール川沿いのオアシス都市だ。
この富をねらったムラービト朝は、1076/77年にニジェール川沿岸のガーナ王国を滅ぼし、塩金貿易ビジネスの支配権を獲得したのだ。
この侵略が、サハラ砂漠以南のニジェール川一帯にイスラーム教が広まっていくきっかけとなった。
商人にとって、“コネ”は命。
イスラーム教徒になることで、遠くアラブや中央アジアにまで広がるイスラーム教徒のネットワークへ参加しやすくなると期待された。
しかも改宗するのはカンタンで、教義もシンプル。
そういうわけで次第に西アフリカ各地の商人や政権も、イスラーム教を保護していったんだ。
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