7.3.2 オスマン帝国の成立と発展 世界史の教科書を最初から最後まで
オスマン帝国の成立
現在「トルコ」というと、アナトリア半島にある国を指すよね。
でもじつは、このアナトリア半島に「トルコ人」が居つくようになったのは、セルジューク朝が東から西アジアに移動し、アナトリア半島も支配下に入れるようになって以降のこと。
トルコ系遊牧民グループが、山がちな半島各地に分かれ、それぞれ国を建てていったのだ。
そのうちのひとつが、オスマン1世を指導者として13世紀末(今から700年ほど前)に建国したオスマン朝。
のちに支配エリアを拡張させ、異民族を支配下に置いてオスマン「帝国」と呼ばれることになる。
彼らはやがてバルカン半島にも進出し、1366年には現在のエディルネをアドリアノープルとして首都に定める。
しかし、バルカン半島にはギリシア正教会を保護するセルビア王国、ワラキア公国、ブルガリア王国、それにビザンツ帝国があったよね。
イスラーム教徒の侵入に対し、すでに”終了“していた「十字軍」をローマ教皇がふたたび呼びかけた。
これには、フランス王、ドイツ王(神聖ローマ皇帝)やバルカン半島諸国が「十字軍」に参加。
だが、1396年にオスマン帝国の君主バヤジット1世は「十字軍」を撃破、ヨーロッパ諸国に衝撃をあたえることとなった。これをニコポリスの戦いという。
しかし、オスマン帝国の“背後”には、別の脅威が忍び寄る。
「モンゴル」の伝統を背負ってイラン方面から進撃してきたトルコ系のティムール朝だ。
オスマン帝国の君主バヤジット1世は、1402年にアナトリア半島中央部のアンカラで敗北(アンカラの戦い)。
オスマン帝国は国力を低下させてしまう。
オスマン帝国の拡大
その後、国力を回復させたのはメフメト2世(在位1444〜46、1451〜81年)。
1453年に、三重の壁を持ち難攻不落といわれたコンスタンティノープルを、稀代の奇策「船で山を乗り越える作戦」によって攻め落とすことに成功するのだ。
あのローマ帝国の遺産を引き継ぐ「皇帝」を、コンスタンティノープルで由緒正しく続けていたビザンツ帝国(東ローマ帝国)が、ついに滅亡。
こりゃあ画期的な事態だ!
インド洋と地中海をつなぐ商業のセンターであったコンスタンティノープルが、イスラーム教徒のオスマン帝国に占領されてしまえば、かつてのようにキリスト教徒のイタリア商人、フランス商人、アラゴン(イベリア半島の国)商人はコンスタンティノープルに気軽に来れなくなってしまうだ。
コンスタンティノープルは、「イスタンブル」とも呼ばれるようになり、ここにあった壮大なギリシア正教会の大聖堂「ハギア=ソフィア大聖堂」もイスラーム教のモスクに改造されることに(「アヤソフィア」と呼ばれるようになります)。
さらにスレイマン1世は壮大なモスク「スレイマニエ=モスク」も建設させている。
17世紀初めに建設された「ブルー=モスク」とともに、現在のイスタンブルは、オスマン帝国のおかげで見所満載だ。
*追記 2020/08/09
【今とつなげる視点】「モスク」に戻ったアヤソフィア🕌
6世紀のビザンツ帝国の皇帝ユスティニアヌス帝によりキリスト教(正教会)の教会として建てられ、その後、15世紀半ばのオスマン帝国による占領以降はイスラム教のモスクとして使用。さらに、1935年以降は「博物館」として使われ、1985年には世界遺産にも登録。
2020年7月にトルコのエルドアン大統領は、このアヤソフィアをイスラム教の「モスク」に変更することを決定しました。
1922年のトルコ革命以来、「政教分離」の国づくりをしてきたトルコ共和国にとって、今回の決定は「イスラム教を重んじる国」への転換を象徴する出来事であり、波紋を呼んでいます。
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その後も、オスマン帝国の進撃はつづく。
1517年に、もう一つの商業の中心地であったカイロを占領。
すでに衰えていたマムルーク朝を滅亡させる。
ここに保護されていたイスラーム教徒の指導者(カリフ)は、オスマン帝国の君主(スルタン)の保護下に入ることとなった。
マムルーク朝が保護していたメッカとメディナ(両聖都)も、このとき以来オスマン帝国が保護することに。
オスマン帝国は一気に、イスラーム教徒の守護者にのぼりつめたわけだ。
そして、満を持して1520年に即位したスレイマン1世(在位1520〜66年)のもとで、オスマン帝国は最盛期を迎える。
まず、ティムール帝国崩壊後、イラン高原からイラクにかけてを支配下に入れていたサファヴィー朝から、イラクの南部を奪うことに成功。
さらに北アフリカ沿岸の海賊たちを掃討し、チュニジアやアルジェリア沿岸部も支配エリアに加えた。
さらにバルカン半島方面では、ハンガリー王国の領土を奪い(1526年)、さらにドナウ川をさかのぼって、神聖ローマ帝国の皇帝を代々継いでいたハプスブルク家の都ウィーンを包囲攻撃(第一次ウィーン包囲、1529年)。
ヨーロッパの人々は「トルコ人」の進撃に震え上がった。
トルコの行進曲は、ヨーロッパ人にとってその後長らく “恐怖の音楽” となった。
現在では “観光” 化されている
トルコ軍楽はマーチングバンドのルーツ。この音楽のリズムは18世紀になるとモーツァルトら作曲家にも取り入れられていくことになる(トルコ行進曲)
スレイマン1世はウィーンからは撤退したものの、今度は1538年にはバルカン半島西岸のプレヴェザというところでスペインとヴェネツィアを相手に海戦を展開(プレヴェザの海戦)。
コンスタンティノープルをオスマン帝国にうばわれ、“商売あがったり”状態のスペインとヴェネツィアの抵抗もむなしく、連合艦隊は敗北した。
こうしてオスマン帝国は地中海の物流ルートを確保。
しかし、ヨーロッパ商人を完全に“シャットアウト”したというわけではない。
ヨーロッパ各地の商人に、オスマン帝国内でのビジネスと滞在を認める方針をとったんだ。
すでにスレイマン1世のときからおこなわれていたこの取り組みは、次のセリム2世(在位1566〜74年)のときにも実施。
オスマン帝国の君主が与えた特権を「カピチュレーション」というよ。
1569年にフランスに与えたものが有名だけど、他にも例があり、のちにイギリスやオランダにも与えられるようになった。
19世紀になるとヨーロッパ諸国はこの特権を利用し、オスマン帝国内の利権をゲットしようとしていくことになるけど、当時の力関係は、圧倒的にオスマン帝国が優位の状況だったことに注意しよう。
その後、1571年にバルカン半島西部のレパントというところ(1538年に海戦がおこなわれたプレヴェザの南東)での海戦で、スペイン王国などの連合艦隊に敗れたものの、特に地中海東部におけるオスマン帝国の物流ルート支配はその後もつづく。
ヨーロッパにとってオスマン帝国の君主は、その後も脅威でありつづけたんだ。
ゆるやかな専制
では、オスマン帝国の国の仕組みについても見ていこう。
オスマン帝国の君主は「スルタン」と呼ばれ、絶大なパワーを握る支配者として君臨した。
こういうタイプの君主のことを、「専制君主」というんだったね。
専は「たった一人で」ということ。
制は「コントロールする」という意味だ。
ただ、もちろん一人でなんでもかんでも支配できるわけはない。
実務を担当するのは、巨大な官僚機構だ。
全国は州、県、郡に分けられ、このとき定められたエリアは現代にまで影響を残している。
なお、スルタンは“自分勝手”に決まりをつくれるわけではなく、あくまで「イスラーム法」(シャリーア)にのっとって支配することが求められた。
また、イスラーム教にとっていわば“兄弟宗教である” ユダヤ教徒やキリスト教徒については、「イスラーム法」は適用せず、法の範囲内で自治が認められていた。
バルカン半島を支配しているオスマン帝国にとって、特にキリスト教の存在感はかなり大きいからね。大勢のキリスト教徒をがんばって支配するより、彼らを支配層に加えたほうが楽だ。
そういうわけで、バルカン半島のキリスト教徒の子どもたちを強制的に集め、イェニチェリという歩兵軍団を形成させた。
一方、君主が常に保有する軍隊(常備軍)として、土地から税金を徴収する権利(ティマール)を与えた騎士軍団とともに、ヨーロッパやアジア各地の支配で活躍したよ。
オスマン帝国の強さの秘密は、このような “やわらかい専制” (鈴木菫)と呼ばれる支配方式にあったと言える。
同時代のヨーロッパの王権との比較
16世紀以降のヨーロッパ諸国では、君主が絶対的・永続的な主権をもつ主権国家の理念が形成されていった。