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5.3.6 教皇権の衰退 世界史の教科書を最初から最後まで

9~10世紀(今から1100年~1200年ほど前)の中世の西ヨーロッパには「広い範囲を統一的に支配する権力者」がいないかわりに、ローマの教会が精神的な支柱として君臨していた。

ローマの教会のリーダーはもちろん教皇。その下には多くの聖職者が出世レースに邁進(まいしん)していた。

だが、十字軍(1096〜1291年)の失敗によって、”言い出しっぺ”の教皇の権威が弱まると、代わって各地の武装勢力たちを武力・経済力・権威によってまとめ上げた国王の存在感が、俄然増していくことになった。

それを象徴するような事件が、13世紀初め(今から1700年ほど前)の3つのイベントだ。

① アナーニ事件

②「教皇のバビロン捕囚」

③ 教会大分裂


①アナーニ事件

①アナーニ事件は、ローマ教皇ボニファティウス8世(在位1294~1303年)が、フランス国王フィリップ4世(在位1285~1314年)によって捕らえられた事件だ。

ボニファティウス8世は教皇に即位すると、次の教書を発布し、教皇の権力(=精神的なもの,「前者」,「霊的権威」」)が君主権(=「世俗的なもの」,「後者」,「世俗の権威」)よりも優れていることを主張した。

この教会およびその権力には二振りの剣、すなわち精神的なものと世俗的なものがある。……この両剣、つまり精神的なものと世俗的なものとは、ともに教会の権力のうちにある。後者は教会のために、前者は教会によって行使される。前者は司祭(聖職者)の手によって、後者は王および騎士の手によって、だが司祭の意志と配慮に従って行使される。しかも一つの剣が他の剣の下に従属し、そして世俗の権威は霊的権威に服従せしめられるべきである。

(出典:ボニファティウス8世(朝倉文市・訳)「ウナム=サンクタム」、江上波夫・監修『新訳 世界史史料・名言集』山川出版社、1975年、40頁)


しかし、時のフランス国王フィリップ4世は、これにするどく反発。

フィリップ4世はイングランド王にも対抗し、先進工業地域のフランドル地方(現在のベルギー)を征服するため、国内の3つの身分(聖職者グループ、貴族グループ、平民グループ)を集め、必要な税をとる同意を得た。

この諮問会議(意見を聞く会議)を「三部会」という。


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フィリップ4世



それに対し、教皇ボニファティウス8世は国王フィリップ4世の勢力拡大を怖れて破門。しかし国王フィリップ4世は、教皇ボニファティウス8世の反対派も利用し、なんと教皇を生け捕りにしてしまう。

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アナーニ事件



失意のあまりボニファティウス8世は「憤死」(ふんし)したと伝えられる。



その後フィリップ4世は、自分に都合の良いフランス人の聖職者を、フランスで教皇に即位させる。
ローマ教会の本部組織であるローマ教皇庁も、アヴィニョンにうつされ、以後70年間、ローマ教皇はフランス王の管理下に置かれたんだ。


この「アヴィニョン捕囚」のことを、当時のイタリア人は、『旧約聖書』の中でヘブライ人がバビロンに強制移住されたエピソードにちなんで、②「教皇のバビロン捕囚」(1309~77年)と呼んだ。ローマ教皇側から見たネーミングだね。


しかし、フランス国王にとってみれば、教皇をフランスに移住させたのは、国王の権力をアップさせるための手段にすぎない。


1377年に教皇(グレゴリウス11世)はローマに戻されたのだけれど、1378年にはフランス国王のバックアップによりアヴィニョンに教皇(対立教皇のクレメンス7世)が立てられた。



これを③教会大分裂(大シスマ)といい、その後1417年まで続いた。シスマというのは、ラテン語で「分裂」を意味する言葉だよ。

教皇はやがてピサにももうひとり立ち、合計3人もの教皇が入り乱れる混乱状態に。

「どうしてこうなった」という批判の中から、「教皇側にも堕落や腐敗があったんじゃないか」「本来のキリスト教のレールから外れている部分があったんじゃないか」という改革運動も各地で起きるようになる。

その急先鋒が、14世紀後半のイングランドで活動したウィクリフ(1320頃~84年)さんだ。
彼は、〈「教会の起こす秘儀(奇跡)」がなければ信者は天国に行けない〉とするローマ教会の教えを批判。


そんなことしなくても、信徒は『聖書』を通じて、神=イエス=聖霊とつながることができます。だからとりあえず『聖書』と読みましょう。
え? ラテン語が読めない? 
―ならば私が英語に訳しましょう。


ウィクリフはラテン語訳しか存在しなかった聖書を、身近な英語に訳し、誰でも読めるようにした。



『聖書』にアクセスできるようになれば、「なんだ! 教会が「必要だ」と言っていた儀式は、『聖書』のどこにも書かれていないじゃないか! だまされていたのか!」と気づくことができる。
もちろんローマ=カトリック側には、なぜ儀式が必要なのかというきちんとしたロジックは用意されているわけだけれどね(現在のもの)。


ウィクリフの教説は、ボヘミア王国(ベーメン。現在のチェコ)の都プラハにあったカレル大学学長であるヤン=フスのもとに伝わった。



チェコ人のボヘミア王国(ベーメン王国)は、当時ドイツ人の神聖ローマ皇帝の支配下にあった。



神聖ローマ皇帝はローマ教皇を保護する存在であるわけだけれど、「教会大分裂」による混乱とローマ教皇の落ちぶれた姿を目にしたチェコ人たちは、自分たちを支配する神聖ローマ帝国の姿勢にも疑問を抱くようになっていた。



そんな中、イングランド王国でウィクリフが気持ちいいほど教皇の”間違い”を論破してくれているのに感動したフスは、大学で堂々とローマ教皇を批判。

教皇はフスを破門したものの、もはやその影響力は無視できなくなった。

そこで1414年に神聖ローマ皇帝が提唱して開かれたのがコンスタンツ公会議だ。

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提唱した神聖ローマ皇帝 ジギスムント(在位1410~1437年)は、

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もともとハンガリー王に即位しており、ベーメンのチェコ人には厳しかった。


コンスタンツ公会議(1414~18年)でチェコ人のフスは火あぶりの刑に処され、

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ローマ教皇の教義こそが「正統」だと再確認させ、複数存在した教皇を1本化することに成功した。


なお、フスがインスパイアを受けたウィクリフの遺体も掘り起こされ、火葬されてしまった。

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しかし「フスの死」は多くのチェコ人にとって、「チェコ人がいじめられている」と映り、大きな抵抗運動が勃発。
フス派の人々は1419~36年まで、最新鋭の戦法を導入し、神聖ローマ皇帝と戦った。
これをフス戦争というよ。


結果的にフス派が敗北したけれど、もはや教皇の権威はグラグラ。

ローマ教皇を批判するキリスト教改革運動が後を絶たない中、こうした動きはやがて、ルターやカルヴァンらによる「宗教改革」(リフォーメイション)につながっていくことになる。

このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊