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世界史のまとめ×SDGs 目標③すべての人に健康と福祉を:1979年~現在[前編]

 SDGsとは「世界のあらゆる人々のかかえる問題を解するために、国連で採択された目標」のことです。
 言い換えれば「2019年になっても、人類が解決することができていない問題」を、2030年までにどの程度まで解決するべきか定めた目標です。
 17の目標の詳細はこちら。
 SDGsの前身であるMDGs(ミレニアム開発目標)が、「発展途上国」の課題解決に重点を置いていたのに対し、SDGsでは「先進国を含めた世界中の国々」をターゲットに据えています。
 一見「発展途上国」の問題にみえても、世界のあらゆる問題は複雑に絡み合っているからです。
 しかも、「経済」の発展ばかりを重視しても、「環境」や「社会」にとって良い結果をもたらすとはいえません。
 「世界史のまとめ×SDGs」では、われわれ人間がこれまでにこの課題にどう直面し、どのように対処してきたのか、SDGsの目標と関連づけながら振り返っていこうと思います。

【1】世界史のふりかえり、【2】1979年~現在の状況と展望の2回に分けてお送りします。

* * *

【1】世界史の中の”健康・福祉”をふりかえる

ーまず今回も「健康」や「福祉」というトピックについて、世界史を通して振り返ってみよう。

◆狩猟採集時代は意外と健康だった!?

人間はかつて少ないグループに分かれ、自然にある植物・動物を取って暮らしていたんでしたよね。

ー狩猟採集生活だね。

 もともと人類の祖先にあたる類人猿は森の上で暮らしていた。
 森から草原に降りた人間が否が応でも接することになったのは、草原の野生動物だ。
 見方を変えれば、動物の排せつ物と接する機会が増えていったわけで、新たな感染症リスクも高まっていくことになった。

 そんな当時の人間の生活集団の規模は小さいものだったが、メリットもある。
 食料の量もそんなに多くなくてもやっていけたのだ。
 逆に言えば、食料の量がそんなに確保できないために、集団の規模は小さいものだったわけだ(下図)。

)この時代に人類への感染に成功したのは、後に出てくる「中間宿主」を持つ寄生虫や、アフリカ・トリパノソーマ症のように長期間にわたって宿主の体の中で生存できるものに限られた。

食料は安定的に獲得できるんでしょうか?

ー食料がたくさんとれるところでは、多くの集団を維持することができた。しかし自然の恵みに頼るといっても、どうしても不安定になるよね。

 「飢え」の心配は常に隣り合わせだった。

 そこで、自然にある植物や動物を管理下に置けないかという発想が生まれたわけだ。
 それが「農耕」と「牧畜」だね。

 狩猟採集時代にも、なんらかの形で植物が動物に食べられないように囲ったり、特定の動物が逃げないように手懐けたりすることがおこなわれていた。
 それがうまくいくと、ますます人口が増え、さらに農耕・牧畜の必要性も高まっていくことになる。


狩猟採集と農耕牧畜を比べると、どちらのライフスタイルのほうが「健康」なんでしょうね?

ー狩猟採集生活は、基本的に「移動する生活」だ。
 農耕牧畜の生活とどちらが大変だと思う?

やっぱり狩猟採集じゃないですか?

ーエリアにもよるけど、実は狩猟採集生活のほうが自由時間が長かったといわれている。

 栄養バランスの面でも、農耕牧畜生活ではバリエーションの貧しい穀物に偏る一方、狩猟採集生活のほうが木の実から魚に至るまでバリエーションが豊富だったと考えられている。

それは意外ですね。

ーむしろ、農耕牧畜生活によって食事が高カロリーになると、生活習慣病の発症率が高まっていった。

 もちろん赤ちゃんのうちに亡くなってしまう子どもはまだまだ多い。それに、意図的に人口を調節する間引き」(嬰児殺し)や「棄老」がおこなわれる社会も少なくなかった。

* * *


 ところで、「移動生活」はある意味、汚なく不快なものから「逃げる」ことができるライフスタイルだ。

 例えば、感染症が流行ったら、そこから立ち去ればいいわけだ。
 こうして人類はしだいに活動範囲をひろげていった


逆に、畑を耕して定住する生活をしていたら、それって難しいですよね。

ーそうだよね。
 移動生活というのは、ある意味理にかなったライフスタイルということができる。


◆寄生虫との共生関係

ーしかも狩猟採集生活をしている集団の数は少なく、感染症が長い間安定的に流行することは難しい。

 感染症のもとになる細菌や寄生虫の立場から考えてみよう。

 寄生虫が、あるひとつの人間集団を感染させることに成功したとする。
 激烈な感染によって、何人かの人は命を落とすだろう。

 しかし、生き残った人たちは免疫(めんえき)を獲得することになる。

 同時に、寄生虫の毒はしだいに弱まっていき、人間と寄生虫との共生関係が生まれる場合がある。
 コンスタントにマイルドな感染がつづいている状態にしておけば、突然の大発生が起きることもない。
 寄生虫のほうも、小さい集団を長期にわたってターゲットにするために、中継地点となる別の動物(中間宿主)を見つけるようになる。

 日本の山梨県で猛威を振るった住血吸虫症も、この時期(1979年~現在)の初めに中間宿主の巻き貝を駆除することによって、ようやく終息宣言されている。



 このような形で共生関係が生まれれば、それは寄生虫にとっても人間にとってもwin-winの関係といえる。


なんだか寄生虫の立場に立って考えるなんて、変な感じですね。

ー寄生虫も、生態系のメンバーのひとつだからね。
 世界史は、べつに人間を唯一の主人公にしなくちゃいけないっていうわけじゃないでしょ。
 目には見えない細菌・ウイルスや寄生虫が、人間に対して持つインパクトはとてつもなく大きいんだ。

)人間は人間との戦争の中で、第一次世界大戦(1914~1918)で1000万人以上の犠牲者を出しているけど、世界的に感染症を引き起こしたウイルスは1918~19年にかけて約2000万人もの人間を死に至らしめている。


◆農耕生活の代償

それでも人間は農耕牧畜の生活スタイルを捨てなかったわけですよね。

ーやっぱり高カロリーの穀物の魅力には勝てなかったわけだよ。

一度食べたら忘れられない味。

ーその代償も払わなければならなかった。
 例えば高カロリーであるがゆえに、生活習慣病がひろがっていった。
 狩猟採集時代にくらべ栄養バランスが偏り、それによる病気も増えていった。それを補うように、場所によっては家畜のミルクの利用もすすんだ。


狩猟採集時代にはお肉をいっぱい食べていたんでしょうね。

ー場所によってはそうだね。
 哺乳類の肉を通して感染する病気(注:ボツリヌス菌など)もあった一方で、農耕生活においてはタンパク質不足による病気も起きやすい。


農業中心の生活になるといってもいいことばかりじゃないんですね。


◆都市が感染症の巣窟に

ー従来のようにみんなで平等に食料を分け合う小グループ生活から、多くの見知らぬ人の共同作業に基づく定住生活に移り変わると、さまざまな変化が生まれていった。

 まず、狩猟採集に比べ、農業は複雑な集団作業を必要とする。
 農業の本質は、自然から人工空間を切り離すことにある。
 つまり農業とは、「雑草との戦い」ともいえるよね。

 こうして狩猟採集時代よりも、労働時間が長くなっていった。

 食料の備蓄がはじまると、グループ内の格差がひろまる。
 栄養バランスが偏った人々の存在は、感染症を発生させる生物にとっての格好のターゲットだ。
 水やトイレの問題から、ただでさえ都市の環境は悪化しやすい。
 飼育する家畜が感染源となることもある。

 こうして、多くの人口が集まり「都市」が生まれた地域では、特定の感染症が広まる環境が生まれていったわけだ。


どんな感染症ですか?

ー人口がある程度増えたおかげで、中間宿主が必ずしも必要ではなくなると、人から人へとダイレクトに感染するウイルスとかバクテリアが猛威をふるうようになるよ。

 すると、世界各地に形成されていった文化圏ごとに、特徴的な感染症が多くの人間集団を定期的に感染させる体制ができあがっていく。

頻繁に「つきあい」のあるところでは、共通の感染症に対する免疫を持つ人々が分布する(注:アブー=ルゴド『ヨーロッパ覇権以前』より(図は千夜千冊1402夜))

 その文化圏にいる人々には免疫(めんえき)があるから、大規模発生による絶滅ということにはならない。

 人間は、大きな集団レベルで免疫を獲得することによって、感染症に対処したと考えることもできるよね。
 各地域では、さまざまな医療技術も発達していった。

 王様や貴族につかえる医者を中心に医学書や教育機関も生まれたが、ほとんどの人は病気になると民間の「治療能力のある人」を頼りにした。
 宗教の教えには、医療的な観点が反映されたとみられる教えも多い(注:豚の禁忌カースト制度)。


◆感染症の大流行へ

でも、文化圏を超える交流がうまれたら?

ー問題はそこだよね。 

 世界史をみてみると、戦争や交易などにより交流が活発になれば、必ずと行っていいほど世界的な感染症の流行に見舞われる。

 シルクロードが開通したとき。

 東ローマ皇帝が地中海一帯に領土を広げる戦争をしたとき(注:ユスティニアヌスのペスト)。

 中国の皇帝の使者が、インド洋沿岸に大規模な使節(注:鄭和)を派遣したとき(注:山本太郎「人類が直面する新たな感染症の脅威」)。


免疫の有る無しって大切なんですね。

ー感染症が免疫のあるエリアを超えて広がると、大変なことになるよね(注:世界的大流行(パンデミック))。

 でも、騎馬遊牧民を筆頭に東西の交流がさかんだったユーラシア大陸では、14世紀なかばの黒死病(ペストといわれるが異説あり)など幾度かの大流行を経て、しだいにどの地域でもだいたい同じ感染症の免疫を持っている状態になっていく。

 ヨーロッパの都市では感染症の流行に備えるため、患者を隔離するテクニックが発達していった。

)ユーラシア大陸・アフリカ北部でもっとも大規模な感染症の流行は、14世紀中頃のペストの流行だった(⇒1200~1500年の世界史のまとめ)。マクニールによると、モンゴル帝国が軍隊を中国南西部の雲南やビルマに進めたときに、原因となるペスト菌に感染したノミを中央アジアに広げ、そこにいたげっ歯類が中国→西アジア→ヨーロッパ方面に広まったものと考えられている。当時の日本列島はペストの難を逃れている。


◆アメリカ大陸への感染症の進出

ーさらに今度は、西ヨーロッパの人々がアメリカ大陸に進出すると、ユーラシア大陸にあったさまざまな感染症がアメリカ大陸にもたらされることになった。

 アメリカ大陸にも梅毒などの感染症はあったけど、ユーラシア大陸はまさに「感染症のデパート」。その幅広いレパートリーゆえに、アメリカ大陸の人々の作り上げていた文明は短期間で滅んでしまったんだ。

 ・天然痘
 ・はしか
 ・コレラ
 ・トラコーマ
 ・デング熱
 ・発疹チフス
 ・インフルエンザ
 ・百日咳
 ・水痘
 ・腺ペスト
 ・ジフテリア

アメリカ大陸に進出したのはヨーロッパの人々だけですか?

ー奴隷貿易の「商品」として、西アフリカの人々も連行されているよ。
 彼らとともにアフリカから黄熱病やマラリアが持ち込まれているよ。
 こうした感染症によってアメリカ大陸の人口は激減。
 同じように、ヨーロッパ人の進出先のオーストラリアやニュージーランドでも、先住民の人口が激減している。


なんだか悪いことしか起きていないですね…

ー健康の観点からみると、アメリカ大陸への進出によって、ユーラシア大陸やアフリカの貧しい人々が恩恵を被ったこともあるよ。
 例えば、アメリカ大陸にしか分布しなかったジャガイモやトウモロコシは、条件の悪い畑でも育てることができ、多くの農民の命を救った。


 また、ビタミン豊富なトウガラシも、インドをはじめとする人々の栄養を改善するとともに、嗜好をも変化させている。


* * *

◆全世界にひろまる感染症

感染症の発症エリアは、全世界にひろがっていますね。

ーそうだね。
 蒸気機関が交通手段に応用されると、人だけでなく感染症の発生源となる動物も一緒に短時間で世界中に広まってしまうからね(注:国立感染症研究所 獣医科学部・人獣共通感染症室 神山恒夫「北アメリカの野生げっ歯類とペスト」)。

蒸気船は人だけでなく、感染症にとっての”乗り物”みたいですね。

ーたしかに(^^;)
 同時に、工業化した都市の生活環境の悪化や人口の激増も、感染症の格好のターゲットとなっていくよ。 
 19世紀のヨーロッパは、幾度となくコレラの猛威にさらされている。

どんな対策がとられたんですか?

ーコレラが広まるのは、生活環境が悪化し、汚い水から「毒気」が発生するからだと考えた当時の政策担当者は、「公衆衛生」のために「飲み水」と「トイレの水」をハッキリと区別する施策をおこなうようになったんだ。

ー「毒気」には科学的な根拠はないけど、”直感”的には正しい発想だったわけだ。
 感染症の治療法としては、すでに18世紀に弱毒化したウイルスを予防接種する技術が普及されていた。


 しかし、感染症の当の”原因”については、まだ手がかりが得られていなかった。
 それを突き止めたのは19世紀の生化学者たちだ。

 ついに感染症の原因が、細菌によるものだということを突き止めることに成功した。

 都市でのコレラの流行は、公衆衛生プランの甲斐あって終息していく。

でもどうしてこの時期にコレラという感染症が広まっていったんでしょう?

ーそれは19世紀に世界規模で植民地を展開していたイギリスやフランスのネットワークのせいだ。

ピンク色の部分がイギリスの主な進出先

1826~1827年のコレラのパンデミックの伝播ルート

)「コレラはもともとガンジス川のデルタ地帯に多発する風土病でした。19世紀に入ると世界的に流行するようになりました。理由として人々の移動が活発になったり、鉄道の発達により聖地巡礼の規模が拡大したことなどがあげられています。
 世界規模の流行は以下のように広がりました。最初1817年にインドからミャンマー、タイを経て東南アジアの島々に侵出したのち、1820年に広東から北京の地域に拡大しました、1822年(文政5年 この翌年シーボルトが出島に着任)には日本に上陸し、8月から10月にかけて西日本で流行しています(筆者注:その後も流行例がある(安政コレラ))。

 また1821年にペルシャ(いまのイラク)に達したコレラは中東を席巻し、1823年にはコーカサスの山麓やカスピ海沿岸で流行しました。
 1830年ペテルスブルグとモスクワに達したのち、ポーランドに広がっています。

 1831年にはイギリス全土で蔓延しました。フランスでは1832年カレーではじめて発生した後パリに到達し、このときの死者の数はパリ1.8万人に上り、およそ5人に1人という高率で人が亡くなったことを示しています。」(「パリの下水道の歴史」より)

 インドではイギリスによる支配のもたらした「飢え」に加えて、感染症の大流行で多くの人が命を落とした。

 イギリスで感染症に強い近代都市づくりが進んでいったのとは裏腹だ。


でも植民地にもヨーロッパの人は移り住んだわけですよね。環境を改善させるようなことはしなかったんですか?

ー植民地の人々のためというよりも、経済的な動機から行われることがほとんどだった。
 内陸の僻地(へきち)と海岸が鉄道や道路によって結び付けられ、上下水道やダムといったインフラも、経済的な利益が出るところでは建設されていったよ(⇒ゼロからはじめる世界史のまとめ 1870年~1920年)。

植民地から独立した後(⇒ゼロからはじめる世界史のまとめ 1945年~1953年1953年~1979年はどうなったんですか?

ー豊かな国をめざすために、インフラや農地の開発ががむしゃらに進められていったよ。

でも、「鉄道や道路を敷設」っていうところが引っかかりますね。人の移動ルートが変われば、細菌・ウイルスの移動経路にも影響が出そうですが。

ーそのとおり。

 開発することによって、新たに接触が濃くなった地域どうしで、今までは流行していなかった感染症が広まる事例が増えていくよ(注:開発原病、これについては次回取り扱う)。

 ほかにも、ダムを建設したのはいいけれど、巻き貝が繁殖してしまって、これを中間宿主とする住血吸虫が大発生する事態も発生してしまった。

開発には必ず「裏」の面もあるわけですね。

ー「経済」と「環境」「社会」のバランスを無視すると、感染症という形で府の側面がのしかかってくる例といえるね(次回【2】に続く)。

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