史料でよむ世界史 11.2.5 イタリアの統一
イタリアの「統一」?
物語の多くには “主人公” がいて、たいていの場合、ある目標に向かい、障害をはねのけながら、目的を達成したり、挫折を味わったりしながら、成長していく。
それと同じように描かれることが多いのが、国家の統一だ。
ある地域を、特定の国家が中心になって「統一」する。その道のりは、たいてい平坦ではなく、多くの血がながれるものだ。
この時期に統一したドイツとイタリアは、その好例だ。「統一」するにあたっては、それを阻む「敵国」がいて、それを “主人公” がやっつけるという物語が描かれる。
しかし、イタリアの「統一」をよくよく見てみると、そのような理解だけでは腑に落ちない部分が残される。
すでに勉強されている方は、次のようなストーリーをご存知のことだろう。
このストーリーにおいて、マッツィーニには早熟の理想家、ガリバルディにはすぐれたバイプレイヤーとしての役割が与えられている。
マッツィーニとガリバルディの “意気投合” によって大団円を迎える。
そのようなストーリーだ。
そして、はじめから最後まで、敵であるオーストリアやフランスに逆らって、「サルデーニャ王国がイタリアを統一する」という目的が、一貫して用意されている。
このような理解はわかりやすい。
でも、実際のところは、どうだったのだろうか?
結論から述べてしまえば、実のところサルデーニャ王国は、当初から必ずしもイタリア統一を目指したわけでもなかった。
また、マッツィーニにはマッツィーニの、ガリバルディにはガリバルディの、それぞれの思惑があったのだ。
そのへんのところを考慮しながら、当時の様子を眺めていくことにしよう。
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イタリア統一の経緯
クリミア戦争終結後、ヨーロッパ諸国は産業力が試される「新しい」国づくりと海外進出に大忙しとなった。
そのスキに、まとまった国が建設されたのがイタリア地方だ。当時のイタリアには多数の国家が分立。
北イタリアのミラノやヴェネツィアはウィーン会議でオーストリア帝国の領土となっており、中部イタリアにはローマ教皇の国(ローマ教皇領)、南イタリアには、ナポリを都にブルボン王家の両シチリア王国が君臨する状況だった。
(コトバンク 日本大百科全書(ニッポニカ) 項目「イタリア史」より)
このような中でまず、動いたのは自由主義を掲げ反オーストリアとイタリア独立を目指すグループ「青年イタリア」を指導してきたマッツィーニ(1805〜72年)だった。
彼の人物像をよく示す次の自伝をよんでみよう。
このときマッツィーニが目撃したのは、1821 年にトリノという都市で立憲革命(憲法をつくろうとする革命)に参加したものの、その失敗によってスペインに向けて旅立つ亡命者の姿だった。
彼によれば、これが彼が、周囲の強国による支配を受け続けてきたイタリアに、自由をもたらすために革命を起こすのだ! という思いを起こさせたきっかけだったのだという。
その後、1848年に二月革命という政治変動が起きてウィーン体制が崩壊。すると同年にローマ教皇がローマを脱出していたローマに、再び「古代共和政ローマ」を復活させることを目標に、マッツィーニは1849年にローマ共和国を建設した。
しかしガリバルディ(1807〜1882年)
らの奮闘もむなしく、フランス軍に倒されてしまう。
一方、北西部のサルディーニャ王国も、イタリア統一の障害になっていたオーストリアと正面切って戦ったものの、あえなく敗北(オーストリア側の将軍の戦勝記念のためにつくられたマーチこそが「ラデツキー行進曲」だ)。
しかしサルデーニャ王国はあきらめない。
その後まもなくサルディーニャ王国の国王となったヴィットーリオ=エマヌエーレ2世(在位1849〜61年)は、失敗をバネにオーストリアに対するリベンジのため、近代化をトップダウンで進めていく。
推進したのは自由主義者のカヴール(1810〜1861年)。鉄道を建設するなどインフラ整備をすすめていった。
さらに外交的には、秘密裏にフランスのナポレオン3世を味方に引き込むことでオーストリアに対抗しようと画策。密約を結んだ上で、1859年に再びオーストリアに開戦した。
今度こそは用意周到。
サルデーニャ王国は戦いに勝利した。
ところがどっこい、フランスのナポレオン3世は途中でオーストリア帝国と和平を結び、戦線離脱。
この“寝返り” によって、オーストリアはヴェネツィアを確保。
サルデーニャ王国は、ロンバルディア地方しか獲得することができない結果に終わった。
そんな中、なんとナポレオン3世が「サルデーニャ王国が中部イタリアを領土に加えたいのであれば、フランス国境近くのサヴォイアとニースはフランスによこせ」とサルデーニャ王国に要求する。
サヴォイアといえば、サルデーニャ王国の王家の“ふるさと”だが、背に腹は変えられない。
1860年にサヴォイアとニースをフランスにゆずることで、中部イタリアを併合することに成功した。
中部イタリアにはいくつかの国があったものの、オーストリア帝国の脅威もあって、すでにサルデーニャ王国の“属国” と化していた。
このときサルデーニャ王国に併合されたエリアとしては、
モデナ公国、パルマ公国、フィレンツェを都とするトスカーナ大公国、そしてローマ教皇領の北部が含まれる。
この時点でサルデーニャ王国は、北イタリアから中部イタリアまでを確保する状態に。
今でこそ「イタリア」といえば “長靴の形” をしているものという先入観があるけれど、サルデーニャ王国の国王も宰相カヴールとしては「これでひとまずイタリアは統一できた。残るは、オーストリア帝国に支配されているヴェネツィアと、教皇の支配するローマをなんとかするだけだ」という認識だった。
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しかし、事態は思わぬ展開に。
サルデーニャ王国の宰相カヴールがいくつかの土地をフランスに渡したことに、自由主義者ガリバルディが憤慨したのだ(ニースはガリバルディの生まれ故郷である)。
ガリバルディの『回顧録』を読んでみよう。
このあたりに、ガリバルディという男の「つかみにくさ」がうかがえる。
自分は共和主義者であり、本来的にはサルデーニャ国王とは組みたくない。
でもイタリアのためには、組むこともやむを得ない。
そのように考えていた中で、サルデーニャ国王はニースをフランスに与えてしまった。
もう我慢ならないという思いから、南イタリアのナポリ王国を「ブルボン朝から取り戻す」計画を実行する。
プライベートな私設軍隊「千人隊」を、ナポリ王国支配に抵抗する反乱の起きていたシチリア島に上陸させた。
赤シャツをきていたので「赤シャツ隊」ともいわれる彼の兵隊は、さらにナポリにも進撃。
なんと、ナポリ王国を滅ぼしてしまったのだ。
つまり、イタリア統一の主導権をめぐる、「国王派」と「共和派」の対立が鮮明となったことのだ。
言い換えれば、サルデーニャ国王が中心となって統一するか、それとも、反国王派=共和主義派が中心となって統一するのか。そのような対立だ。
ガリバルディの勢いに、サルデーニャ王国の国王も宰相カヴールも慌てた。
国王のいない国を志向するガリバルディが南イタリアを握ってしまったのは、国王ありきの国づくりを進めるサルデーニャ王国にとっては大きな痛手だ。
しかし、両者のにらみ合いを断ち切るように、ガリバルディはすんなりサルデーニャ国王に、ナポリ王国の領土をゆずる決断をする。
このときに交わされた会話を、同席したジャーナリストは次のように記している。
●ガリバルディとヴィットーリオ・エマヌエーレ 2 世の会話 「千人隊」に参加したジャーナリストのアルベルト・マーリオの記録
これを風刺した、当時のイギリスの風刺雑誌『パンチ』の絵を見てみよう。
“A cartoon which appeared in the English journal Punch for November 17, 1860."—Webster, 1920
Q1. 靴を履かせている左の人物は?
Q2. 靴を履かせてもらっている右の人物は?
左がガリバルディで、右がサルデーニャ国王 ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世だね。
ちなみにガリバルディは、かつて日本においても、なかば伝説化され、紹介されている。
三宅雪嶺(みやけせつれい)というジャーナリストによる次の文章を挙げておこう。
おなじく“伝説”化されている西郷隆盛と比較されているところがおもしろいね。
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さてさてこの結果、1861年3月にイタリア王国が成立し、サルデーニャ王国のヴィットーリオ=エマヌエーレ2世(在位1861〜78年)がイタリア国王に就いたのだ。
その後、イタリア王国は、オーストリア帝国がプロイセン王国で敗北したスキをついて、ヴェネツィアを併合。
フランスのナポレオン3世がプロイセン王国との戦争で敗北したスキをついて、ローマ教皇領も併合し、1871年に首都もローマにうつしている。
しかし、イタリア語を話す住民のいるトリエステ、南チロルなどオーストリア領にとどまるエリアものこされ、「まだ“未回収のイタリア”がある」と宣伝された。
また、ローマ教皇は「領土を奪ったイタリア王国を許さない!」その後もイタリア政府との対立を続けていくこととなった。
南北格差とイタリア移民
イタリア王国が成立した後も、近代化がすすみ工業の発達した北部と、貧しい南部の経済格差は解消されず、イタリアからは多くの移民がアメリカ合衆国に渡っている。
当時の首相は、この問題をどのようにとらえていたのだろうか?
●シドニー・ソンニーノ首相の南イタリアの貧困と移民政策に対する見方 ―移民容認論
移民が国外に渡航する理由は、しばしば「プル要因」と「プッシュ要因」によって説明される。
「プル要因」というのは、渡航先に経済的な魅力がある場合で、それらが移民を引っ張る(pull)形で引き寄せるものだ。
「プッシュ要因」は、はんたいに、移民が母国から追い出される要因を指す。たとえば母国で厄介もの扱いされている人々や、職にあぶれた人々が、国策によって国外に放り出される場合だ。
上記の文章からは、そのどちらを読み取ることができるだろうか?
次に、移民に反対する意見についても見ておこう。
●ナポリ選出エンリーコ・ウンガロによる意見
●コッラディーニによる意見
どちらの意見からも、移民たちの境遇のひどさを嘆く論調が感じ取れるだろう。
移民自身の声
しかし、こうした史料を読むときに重要なことは、当のイタリア移民たちは、どのような考えや感じ方を持っていたのかということだ。
普通の人々の声というのは、今でこそSNSなどを通じてさまざまな形で残されるけれども、19世紀後半のこの時代にあっては、記録に残されたものは多くない。
しかし同時代の移民たちの様子を聞き取りした記録(フランチェスコ=サヴェリオ・ニッティの農村調査)が、さいわいにも残されており、それをイタリア史家の北村暁夫さんが紹介している。
以下に見てみよう。
●カラブリア地方コセンツァ県ベルヴェデーレ・マリッティマ町の農民
●息子がアメリカに移民しているという コセンツァ市の零細な借地農
●コセンツァ市の農民
どうだろうか。
「イタリア統一」という出来事も、ただ単に「統一できてよかったね」ではなく、イタリア南部の状況に注目してみると、ずいぶん違った角度からとらえることができることがわかるだろう。
▼現在のニューヨークには「リトル・イタリー」というイタリア系地区がある。
参考文献
このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊