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14.3.1 第一次世界大戦と東アジア 世界史の教科書を最初から最後まで

第一次世界大戦でヨーロッパが戦場となると、それまで中国、東南アジア、インド方面を植民地や勢力エリアとして支配したり、ビジネス関係を結んでいたイギリス・フランス・ロシア・ドイツなどの強国は、ヨーロッパに資力を集中せざるを得なくなった。


加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』朝日出版社、2009年、第3章。

これにより、ヨーロッパからの輸入が途絶えると、植民地として支配されていたわけではない中国と日本では、ヨーロッパ人の工場ではなく自前の工場で工業製品をたくさん作っていくことになる。


こうした変化は、第一次世界大戦後にいきなり始まったわけじゃない。
すでに1880年頃から成長していたアジア間貿易の発展の延長線上にある出来事だ。
ヨーロッパ人の進出によって、アジア人の産業が破壊されてしまったわけではなく、インド(イギリスの植民地)・東南アジア・中国・日本の間で貿易をめぐる分業と競争が(イギリスの制度や物流インフラに依存しつつも)ある程度自立的に発展していたのだ。


当初、イギリスの植民地下でインド人の資本家がビジネスを起こすことでアジア最大の工業製品輸出国だったインドを追い越そうとして、日本の工業生産は重工業も含めて大幅にアップ。
主要な輸出品目は、生糸(きいと)や綿織物だ。
これは今でいうところの機械や自動車だね。

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安い労働力と豊富な資源を求め、中国にも工場を進出させていった。


一方、中華民国(1911年に成立し、翌年に清を滅ぼした)でも、漢人による民族資本が成長し、紡績(ぼうせき)などの大工場が建てられ、日本のライバルとなった。


両国ともに都市で働く労働者の数は増え、高等教育で学ぶ学生などの青年知識人も増えた。

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また、第一次世界大戦終結とともに「皇帝」の支配する国が敗れ、戦後処理にあたって民族自決の原則が提唱されたこと(【←戻る】14.2.1 ヴェルサイユ体制とワシントン体制)、それに、ロシア革命起こったことなどは(【←戻る】14.1.5 ロシア革命)、知識人や労働者に大きな影響を与え、東アジア各地では社会運動と民族運動が活発化した。

また、第一次世界大戦の模様は中国でもさかんに報じられ、中国の知識人のあいだでは、「根本的に国家や戦争のあり方が変わっている。早急に対応しなければ」「革命が起きて清を倒したはいいが、一向に近代化が進まない。中国の政治をなんとかしなければ」という思いが広がった。

そんな中、知識人の間で、この世界の一大事を「中国社会が根本的に変わるチャンス」とみる動きが拡大。
この新文化運動といわれるムーブメントは、陳独秀(ちんどくしゅう、1879〜1942年)の刊行した『新青年』(しんせいねん)を中心に繰り広げられた。

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『新青年』で陳独秀は「民主と科学」を旗印に、儒教道徳を思い切って批判。

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青年知識人層の絶大な支持を受け、改革思想の一大プラットフォームとなったよ。

この運動に合流した胡適(フーシー;こせき;こてき、1891〜1962年)は1917年、『新青年』の中で「これからの時代は、古臭い儒教の言葉で思想を語るのではなく、話し言葉(白話)で文章を書くべきだ。古い文体で書くと、儒教の思想にまみれてしまう」と主張。口語で中国語を書こうという運動を始めた。
この文体を白話文学(はくわうんどう)という。

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また、日本の仙台医学専門学校(現在の東北大学医学部)への留学経験のある魯迅(ろじん、1881〜1936年)は、中国を救うには国民性をがらっと変えることが必要だとして、医学の道から文学の道に変更。

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中国社会がいかに遅れているかを鋭く風刺した『阿Q正伝』(あきゅうせいでん)や『狂人日記』(きょうじんにっき)をあらわし、センセーションをまきおこした。

こうした文学に関する改革運動を、特に「文学革命」と呼ぶよ。


新文化運動や文学革命の拠点となったのは北京大学だ。
ロシアで革命を起こした勢力が「中国でも革命を起こそう」と話をもちかけ、李大釗(リーダーヂァオ;りたいしょう、1889〜1927年)らによってマルクス主義の研究がはじめられた。

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陳独秀もこれに参加しているけれど、ハーバード大学に留学しプラグマティズムを展開したデューイ(1859〜1952)の下に学んだ経験を持つ胡適(こてき)は社会主義を痛烈に批判。
新文化運動のメンバーは、一枚岩とは言えなかったんだ。



第一次世界大戦の衝撃は日本にも伝わった。

新しい時代の戦争が、最先端の科学テクノロジーを駆使し、国民すべてをまきこむ「総力戦」であることがわかると、日本の政府も変革を迫られることに。

各国で参政権が女性に与えられるなどの改革が起きたことにも刺激され、日本でも政治への参加の拡大を求めるムードが広がったのだ。
これを大正デモクラシーという。

また、日本の近代化のモデルであった強国どうしの植民地の取り合いが、破局的な戦争を招いたとの認識や、ロシア革命が成功したことに刺激を受け、日本での社会主義の運動を盛んにする。
労働者による待遇改善をもとめる運動や、農民たちによる地主に対し待遇改善をもとめる運動も激化。


日本軍がロシアでの革命をブロックするためにシベリアに派兵したことを受け、「米が不足する」という不安な心理やデマに乗じて、大商人が米の値段を買い占めて価格を釣り上げると、各地で米商人に対する襲撃事件も発生。
日本中に暴動が広まった。
この1918年(大正7)年の米騒動(こめそうどう)で社会が騒然とする中、政治の舞台には積極的に政党(せいとう)が関わるようになっていき、一部の有力者により独占された政府ではなく、政党を中心とする政党内閣も成立。
1925(大正14年)には男性普通選挙法が成立した。


しかし、政府としては、日本国内で「革命」につながる運動が起きているのを野放しすることはできない。
同年には、日本国のしくみを壊す(とされる)考え方を厳しく取り締まることを可能とする治安維持法(ちあんいじほう)を成立させている。

いずれも、同時代のヨーロッパの激動を背景とした対応だ。


なお、1923年には未曾有の都市型直下地震である関東大震災が勃発。死者・行方不明者は10万5000人を数える悲劇となった。


このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊