見出し画像

14.1.5 ロシア革命 世界史の教科書を最初から最後まで

第一次世界大戦が始まって以来、ロシア帝国軍は負け続き。

物流ルートが寸断されてしまい、都市に十分な食料や燃料がとどかなくなっていたのだ。これに対し皇帝・政府は適切な対策をとることができず、「戦争反対」の声も高まっていった。

1916年夏には、「戦争に行きたくない」という声が中央アジアでロシアの支配に苦しんでいたキルギス人や

ウズベク人、

カザフ人

などのトルコ系民族たちからあがり、蜂起がおきる。

画像1


ロシア帝国に対抗するイスラーム教徒たちの運動もさかんになった。


そんな中、1917年3月8日、首都ペトログラードでパンと平和をもとめる平和的なデモやストライキが勃発。

画像2


しかし、このデモに「戦争の終結」を望むペトログラードの守備隊も合流すると、勢いづいた労働者と兵士はソヴィエトという “国に対抗して、自分たちを代表する” 組織を結成。
すでに存在していた国会(ドゥーマ)に代わって、自分たちで代表を選んで軍事力を独自に握ることに成功した。

画像3

皇帝の暮らしていたペトログラードの冬宮



ペトログラードの守備隊の“寝返り”と攻撃により、ロシア皇帝ニコライ2世は退位。ここにロマノフ朝は消滅した。

画像4

皇帝一家の写真


一方、ロシア帝国が滅びると、国会(ドゥーマ)を拠点としていた立憲民主党などの自由主義的な政党の議員は、自分たちの利益を守ろうと臨時政府を樹立する。
労働者や兵士によって設立されたソヴィエトに権力を握られてしまったら、彼らの持っている土地や工場などが取られちゃう恐れもあるからね。
臨時政府の首相兼内相には、貴族のリヴォフ公(1861〜1925年。在任1917年3月〜7月)が選ばれ、あくまで「戦争の継続」を遂行しようとした。彼らの多くはエリートであり、下層にいる民衆とはちがう世界の住人だ。

しかし、そんな主張では、肝心の首都ペトログラードの守備隊を押さえ込むことはできない。

こうしてロシア帝国崩壊後のロシアには、①臨時政府と②ペトログラードを中心とする労働者と兵士の代表機関(ソヴィエト)が、ダブルで存在する “妥協的” な体制が生まれたのだ。

画像5

臨時政府の首相兼内相のリヴォフ公


資料 二月革命後の「二重権力」状態?
そのため彼ら[注:臨時政府]は、民衆の信頼をつなぎとめるべく社会主義者の入閣を求めた。ケレンスキーに司法大臣、チヘイゼに労働大臣のポストが提案された。この2人もフリーメイソンである。
 だが、ペトログラード・ソヴィエトはこの提案を拒否した。公的機関でないにもかかわらず、労働者と兵士、それに社会主義者に関わる事柄では、ペトログラード・ソヴィエトが強力な発言権を有していた。現在のロシアはまだ民主化を実現する段階に過ぎず、自分たちが入閣しても社会主義的な施策は実行できない。それゆえあくまで外側か臨時政府を監督し、それが反革命と戦う限りにおいて支持を与える。この「条件付支持」が、ペトログラード・ソヴィエト執行委員会を主導するメンシェヴィキとエスエルに立場であった。ボリシェヴィキもさほどはっきりした違いを出すことはなかった。[…]
臨時政府とペトログラード・ソヴィエトの関係は、よく「二重権力」と呼ばれる。公式の権力機関は前者だが、事実上の権力は労働者と兵士を背後にもつ後者が握っていたという意味だ。だが、実際には臨時政府を主導するカデットと、ソヴィエトを率いる社会主義者は、二月革命後の秩序を維持せんとする運命共同体であった。だから二つの機関はセットで考えるべきであり、両者の対立のみを強調すべきではない

出典:池田嘉郎『ロシア革命―破局の8か月』2017年、岩波書店、46-47頁。太字は筆者による。


史料 日本への政治情勢の暗号電報による報告
ロシアの首都における不安なる政治情勢については、在ペテログラード日本大使館や駐在武官より、日々刻々と日本へ暗号電報をもって報告が 送られた。ロシア政府が転覆し、人民政府が樹立されるまでの電文を摘録したものを意訳すると、つぎのようになる。

 三月八日(ロシア暦2・ 23)…… 官の警戒がきびしいために、まだ ペテログラードの各地において、労働者その他が群をなし、その一部は食品店および電車にたいして暴挙にでた。警 大 おお 事 ごと になっていないが、不穏である。 (続報) をけ散らしている。 露都の不穏の状態は、きょうに至りその度をました。そのため軍隊の警戒はきびしく、コサック部隊も出動し、群集 今回の同 どう 盟 めい 罷 ひ 業 ぎょう (ストライキ)の範囲は、かなり広いものであるが、暴動にまでいたっていない。ストの主なる原 と叫ぶ者もいる。学生の一部もストに参加している。 因は、食糧品の供給がとどこおったほかに、ドイツ派が煽動したうたがいがある。現に群集のなかに、戦争をやめよ 今後、形勢が険悪になるのはやむをえない(石坂少将より田中参謀次長宛電報[第二十三号] )

法政大学社会学部学会 , 社会志林,66(1),1-77 (2019-07)、https://core.ac.uk/download/pdf/233058638.pdf


とりあえずここまでが、1917年3月に起こったロシアの権力をめぐる争いの第一幕。
これをロシア二月革命(第二次ロシア革命のうちの二月革命)というよ。


)3月なのに「二月」となるのには理由がある。ロシアではロシア革命前までは、現在世界中でつかわれているグレゴリウス暦よりも13日おそいユリウス暦(ロシア暦)がつかわれていたので、ズレてしまうのだ。ややこしいので、「三月革命」と呼ぶこともある。




臨時政府の政策に対し、戦争を今すぐにでもやめさせたい労働者や兵士を代表する組織(ソヴィエト)は、猛反発。


同時に、農村部でも「土地をよこせ!」という農民の革命がおこり、ウクライナやフィンランドでも「独立させろ!」という民族の革命がおこる危機的状況に陥った。


そんな中、1917年4月に革命の最強硬派だったボリシェヴィキというグループを率いるレーニンが、「労働者と兵士の代表であるソヴィエトこそが、革命を遂行することができるただ一つの政府だ」「なぜならば、人々の思いに基づいてつくられた権力組織だからだ」「臨時政府は、資本家(ブルジョワ)の集まりであって、人々の意見はまったく反映されていない」「ソヴィエトを中心に、革命をさらにすすめよう!」(すべての権力をソヴィエトに)と声明を発表(四月テーゼ)。

ソヴィエトの活動を協力にサポートした。

レーニンは、ソヴィエト内部のボリシェヴィキの勢力にもつとめ、7月には臨時政府の新首相 ケレンスキー(1881〜1970年)と対立する。
ケレンスキーは、ソヴィエトにも関与していた社会革命党の政治家で、辞任したリヴォフ公に代わり、首相だけでなく陸海軍大臣にも就任。
一時は労働者や兵士の人気も集めた。

画像6

ケレンスキー

しかし、国内の混乱を押さえきれなかったケレンスキー首相に対し、9月にはボリシェヴィキの勢力は全ロシアに拡大。

満を持したレーニン

画像7

トロツキー(1879〜1970)は11月7日に武装蜂起を決行。
臨時政府を倒して国家権力をにぎった(ケレンスキーは亡命。この時点では、のちに独裁者となるスターリンはたいした活躍をしていないことに注意しよう)。



「レーニンが政権をとれるわけなんかない」と思っていた人々は、一様に衝撃を受けた。


史料 日本の軍人のみた十月革命直前の状況
 本(11月)2日は、過激派が政府転覆及資本家征伐の名目を以て武装出動を予定せしが、夕刻迄は未だその実現を見ず。或は近く再挙を図るやも知れず。…過激派は…露都兵労会に於て大多数を占めるのみならず、露


翌日11月8日、レーニンらは全ロシア=ソヴィエト会議を招集し、「われわれがロシアの新政権だ」と宣言。


すでに滅んだロシア帝国が戦っていた敵に対しては、


「①領土の要求はしません」(無併合
「②賠償金の要求はしません」(無償金
「③民族ごとの意見を大切にします」(民族自決


この3つの原則をかかげ、“仲直り”をしようと呼びかけた「平和に関する布告」を発表。


史料 平和に関する布告
 10月24~25日の革命によって樹立され,労働者・兵士・農民代表ソヴィエトに立脚する労働者・農民政府は,すべての交戦国民とその政府とに対して,公正な民主主義的平和について直ちに交渉を開始するよう提議する。戦争に疲れ苦しみ,悩みはてたすべての交戦諸国の労働者階級と農民階級の圧倒的多数が渇望している公正な,あるいは民主主義的な平和,ロシアの労働者と農民が,ツァー君主制を打倒してのち,なによりもはっきりと,また頑強に要求してきた平和とは,無併合(すなわち他国の土地を掠奪せず,また他の諸民族を暴力的に合併もしない),無賠償の即時平和のことである。……
 (ソヴィエト)政府は,すべての交戦諸国の政府と人民とに対して,直ちに休戦協定を結ぶことを提議する。……
(『西洋史料集成』 平凡社)



また、国内向けには農民による革命をみとめる「土地に関する布告」が採択された。

画像8

布告を読む農民


1917年11月7日にはじまる2度目の体制変動のことを、十月革命(11月革命)というよ。

第一次世界大戦の、ちょうどその裏側では、たいへんな変革が起こっていたのだ。


このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊