歴史総合入門(8)2つ目のしくみ : アメリカとソ連と日本の台頭
■アメリカとソ連、そして日本
「イギリスとフランスよ。委任統治領とかいって、やってることは植民地と大差ないじゃないか」「これじゃあ、あいかわらずだよ」とクレームをつけたのが、当時としては新興国であったアメリカ合衆国とソ連です。
2か国は、言ってみれば20世紀の2大役者。
しかし、なんでもかんでも西ヨーロッパに中心の置かれていた当時の世界においては、アメリカもソ連も伝統に挑む ”異端児” 的存在です。
今後の両国は新しい国際秩序の主導権をにぎろうと、20世紀を通して火花を散らし続けることになります。
アメリカ
第一次世界大戦後のアメリカには、戦時中の借金返済のために多くの資金がヨーロッパから流れ込み、経済が一気に活気づきました。都市部では、急ピッチで大衆化がすすみ、人々は「みんなが欲しがるもの」を欲しがります。企業は大衆の需要にあわせて大量に商品を生産し、モデルチェンジや広告をとおして、人々の「買いたい!」という欲望をかき立てました。
「アメリカは自由の国」といわれるように、国が特定の思想を国民に強制するということはありませんが、国内では先住民や黒人、そして移民に対する差別が根強く、特に第一次世界大戦後の1920年代には排外主義的(敵と認定した人々を、仲間から追いやる)雰囲気が拡大します。
ソ連
ソ連がすでに崩壊してしまった現代からみれば、ソ連のやり方はさぞ微妙だったのだろうと思うかもしれません。たしかにソ連の経済は「中央指令型」と呼ばれるトップダウン型で、商品生産も兵器やインフラ建設のための重工業に偏っていました。こと日用品については、人々の需要を正確に反映したものとはならず、資源不足・部品不足・品不足が常態化していました。
しかし、それでも当時の人々は、そんなソ連に対し、大きな期待をもっていました。「アメリカ型の自由な競争を重んじる社会ではだめだ」「ソ連こそが、人類の社会をよくしてくれるはず!」と、多くの人が実際に信じていました。イデオロギーが力を持つ時代だったということが重要なんですね。
日本
最後に、第一次世界大戦後には、日本が国際連盟の常任理事国となり、アジアのなかで唯一欧米列強と肩を並べる「一等国」になった、との自信を深めたことが重要です。
しかし日本の台頭は欧米諸国の警戒も生み、日本が太平洋の旧ドイツ領を委任統治領として獲得すると、その拡大をおさえるためにワシントン会議を開催しています。
■根強かった人種主義
日本への警戒の一つにあったのは、アジアの黄色人種に対する人種差別である黄禍論(こうかろん)です。19世紀にヨーロッパでダーウィンが進化論を提唱すると、その理論が人類の社会に無理やり適用され、白人が一番優秀で、黄色人種がその下、黒人はもっとも進化が遅れており、競争に敗れていまに消え去る運命との理解がまことしやかにひろまりました。
もちろんこれは誤りなのですが、欧米諸国の人々はこれを根拠にアジアやアフリカを支配し、アジアやアフリカの人々もこれを受け入れ、「消え去らないために、ヨーロッパの性質を少しでも身につけよう!」と焦ります。
ただ、日本人のなかにも、おなじような意識がなかったわけではありません。
たとえば北海道や沖縄の人々、さらには日本が第一次世界大戦後に委任統治領として獲得したパラオなど南洋諸島の住民は、人種的に劣っているという言説が、まことしやかに広められました。
これもまた、1つ前から作動する「近代化」のしくみに内在している「ひとつにまとめようとする力」のもつ、残酷な側面でした。
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