見出し画像

忘れられた「南洋」—冒険ダン吉と「土人」 2-2-6.アジアの経済成長と、都市化・開発・移民  

◆こちらの記事から独立させました。


南洋諸島ー忘れられた日本領

サブ・サブ・クエスチョン
1920年代の日本は、どの範囲を「日本」と認識していたのだろうか?

 「南の島」と聞いて、どのあたりを連想するだろうか?

 第一次世界大戦開始後の日本にとっての「日本の島」は、赤道以北の南洋諸島であった。ここは現在のミクロネシアを中心とする海域であり、もともとはドイツの植民地であったところだ。

 第一次世界大戦後に委任統治領として日本が統治をまかされると、政府は1922年にパラオに南洋庁を設置して、多くの日本人を移住させた。同年にはさっそく、サイパン~沖縄間を直行船が就航している。
 
 その後、南洋諸島は南方進出と資源確保のかなめとして、1944年にアメリカ軍の占領するまでは日本海軍の拠点となった。



企業の進出ー「海の生命線」

サブ・サブ・クエスチョン
「南洋」に、どのような企業が、何のために拠点を設けたのだろうか?


 南洋諸島の主要産業は漁業のほか、タピオカや果物、サトウキビ栽培と製糖業、硝石の採掘業、さらには羽毛用アホウドリの捕獲や、海鳥の糞が長期にわたり堆積してできたグアノの採掘業などであった。



資料 「海の生命線」に飛躍する南洋興発 熱と力の松江社長の新規計画注目さる(時事新報 1934.4.30 (昭和9))
松江南洋興発株式会社長 
「海の生命線」南洋を守れの声は澎湃として起り、今や非常時日本を風靡し、南洋が陸の満蒙に比較して重要な国防線であり、移民線であり、又物産線たることは何人と雖充分に認識している。だが今から十数年前の南洋諸島はどうだったろう。大戦後我国はこの地の領土権を独逸から承継し南洋庁を置いて委任統治の端緒を開いたが毎年三百万円の赤字を国庫が負担せねばならなかった。又民間実業家も一時は南洋熱に浮かされてかなりの資本をつぎ込んだが皆失敗に終った。南洋開拓絶望論が起ったのもこの頃である。固よりすべて事業は資本と天然資源に俟つところ多いがこれを運用する人が重大な要素たることを忘れてはならぬ、如何に豊富な資源を資本を持ってしても若しその人を得ざれば事業の失敗は必定だ南洋開拓初期時代には恐らく官民共にその人を得なかったに違いない。
南洋に着眼した松江春次社 
然し南洋の大富源が何時までも埋もれている筈はない誰か慧眼の士がこの開発に任ずるだろうと予期されていたが果せるかな先輩失敗の跡を引受け敢然立って雄飛を企図せる快男児があったこれが今日海の生命線上に躍る南洋興発株式会社長松江春次氏である。即ち南洋占領後企業して一敗地に塗れた西村拓植、南洋殖産の諸会社及び南洋企業組合等敗残の跡を救済すべく、東洋拓殖株式会社が投資し、大正十年十一月二十九日南洋興発株式会社が設立されるや松江氏は同社専務に就任した。而して製糖業に着眼し多くの反対論を排して開拓絶望とされた南洋未開の地に、まず千噸の大製糖所を設置今日の基礎を作り、爾来松江社長は孤軍奮闘、よく苦心経営して今日の大南洋興発を完成した、毎年三百万円の赤字を出していた南洋庁特別会社が近年これを克服し、台湾と同様一般会計のお世話にならぬと揚言し得るようになっているがその裏面に毎年三百五十万円を南洋庁に納入する「興発」社長松江春次氏あるを知らねばならぬ。昨秋南洋に氏の銅像が建設されたが永くその事業と人格を欣慕せんとする島民の心持がよく解る。茲に同氏の経営する南洋興発株式会社の全貌を述べるのも徒爾ではない。
資産状態堅実 
同社は最近特に世上の注目を惹いている。固より松江社長の努力の結果に外ならぬが昨年三月千三百万円を増資して二千万円とし、事業を大拡張して、将来産糖百五十万担への増産を計画、又将来新に耕地白糖の製造に着手するなどの新方針を決定したことにあると思う何となれば若しこれが実現の暁は、台湾糖業の被る影響は勿論、内地糖界に一層の衝動を与うるからであろう。同社、今日の存在亦偉なる哉だ。現に同社が製糖事業を開始したのは大正十一年末であったが僅か短時日月の間に異常な発達を示し優良なる台湾糖業会社にも匹敵する程の成績を示しているではないか。試みに昭和五年以降の実績を示せば次の如くである[図表あり 省略]即ち同社は平均払込資本の九百六十万円(資本金二千万円期末払込金一千二十五万円)に対して二割五分の利益率を示している。この限り一割乃至一割二分の配当は極めて容易であるのに僅か九分の配当に止めている、従来利益の半分を社内に蓄積することに努めて来たが今やその方針は一段の手堅さを加えて来た。同社が内容の堅実を誇るのも当然である。
製糖業の実際
同社の蔗作事業地は現在サイパン島とテニアン島の両地であるが一年後には更に予定地たるロタ島に工場建設を決し、目下その準備中である。現在事業地の規模は次の如し[図表あり 省略]即ち二工場の圧搾能力は二千四百英噸であって、既懇蔗園は七千七百余町歩、これに島民及社外蔗園を合すれば八千四百六十七町歩となる、但テニアン島には前途第二工場の建設が予定され、このため原料蔗園の拡張が行われておるしロタ島にも亦工場建設の準備を整え既に前期より原料園の植付に着手した前者の操業期は昭和十年後者は同十一年以降の予定であると言う。テニアン工場の拡張完成に依って将来の年産糖高は百万担に達する予定であり、更にロタ工場の完成する暁には産糖年額百五十万担の実現が期待されている。同社事業の中心は以上の通り糖業にあるが、その他の新計画としては、澱粉事業及び燐鉱採掘事業がある、澱粉事業は、ボナペ島において工場建設に着手し、本年末工場完成の上は毎年澱粉五十万貫を製造移出する予定で、本事業を更にパラオ本島にも拡張すべく企図している。又燐鉱は前期においてパラオ支庁下ペリリュウ島に採掘の許可を得、本年五月諸設備を完成して燐鉱の移出を行うと言う。
附属事業現状
殖民的使命を帯びている同社の事業は単にこれ許りでない鉄道、船舶、通信の事業にも手を染め、又牧畜造林の事業にも相当の成績を挙げたが特筆すべきは製氷業と漁業である。同社は大正十五年既に製氷機械を購入して氷の製造を開始し社外にも供給医療用並びに飲料として多大の賞讃を博したが僅か一日一噸半の能力に過ぎなかったので需要の増加に伴うことが出来ず遂に大日本製氷会社と共同して積極的に斯業に進出するに至った又表南洋からパラオ近海に群棲する鰹、鮪に見込みをつけ漁業にも着手した。今日「南興節」と言う安くて良質な鰹節を我々の食前に見ることが出来るのも同社のお蔭である。
恵まれた前途
以上の如く南洋興発会社は旭日昇天の勢いを示している非常時財界に不況をかこつ内地事業会社の存在を無視して。十数年前南洋開発絶望論を唱えた人もこの現状を眺めては「永生きして恥多し」の感を深くしているだろうがそれは「絶望論者」の罪ではない同社経営者の達識活眼、敏腕が然らしめたものだすべての事業は人の力である松江社長以下同社重役従業員諸君の努力こそ非常時日本の再認識せねばならぬ事実だと思う。今や同社は新計画遂行のため増資、千二十五万円の払込資本を擁してスタートした。それに同社には一銭の社債もなく、支払手形もないと言う強味がある。加うるに南洋開発の目的を達成せしむべく背後に拓務省、南洋庁が在ってこれを保護援助している名実共に三拍子も四拍子も揃っているとはこの南洋興発会社のことだ。その前途期して待つべきものがあろう。

(出典:神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 東南アジア諸国(7-113)、http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00501614&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1)




移住した人々ー沖縄出身者

サブ・サブ・クエスチョン
「南洋」に移住したのはどのような人々で、どのような目的で移住を選択したのだろうか?

 そんな「南洋」諸島の産業における働き手となったのは、沖縄の人々だった。

サイパン島の製糖工場(パブリックドメイン、https://ja.wikipedia.org/wiki/南洋興発#/media/ファイル:NKK_Saipan_sugar_mill.JPG

資料 「移民大洪水」の見出しの記事が伝える、当時沖縄県から南洋群島に数多く渡航 しているとの報道

南洋 の新天地を目指して突進する移民の群は毎航海とも移しい数に上り先づ便船 毎に百名以上は渡航してゐる盛況ぶり、これら移民はまづ大部分南洋興費骨社 に働くべく、それを昔込んで渡航す る移民で大部分は沖縄移民である。南興合社では本年に至り正式に同社で直接募集 した関係移民は約一千名で、このうち既 に四百名は現地行き残る六百名は徐々に本年中に送る。
注 目すべきは合社が従来主として取扱った移民は沖縄移民が大部分であったが,最近では殆 ど合社直接に沖縄移民は取扱はず,今年募集の分 も全部内地各府醇から募集の移民ばかりで、沖縄移民は正式には一人も採用 してゐない。従来南洋に働 く移民は沖細入が最も耐熱性に富んでゐたものといはれてゐたが、幾多の経験か ら北海道東北移民で も決 して活動する上において支障をきたさぬと裏書 されたのによるものといはれてゐる。いづれにしても南洋 を目ざす移民は宛ら洪水の如 くである。

(出典:『南洋群島』第 1巻第 5号 (1935年 6月)、124-125頁、 石川友紀
「旧南洋群島日本人移民の生活と移動 -沖縄県出身移民の事例を中心に」『移民研究』No.7、p.123 -142、2011年、http://ir.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/20.500.12000/22611/1/No7p123.pdf)


資料 トラック諸島における 1935年 (昭和 10)4月現在の全邦人 (日 本人移民全体) と沖縄県人 (沖縄移民)の男女別移民数

昭和五年以降鰹漁業勃興 し沖縄醇人の渡島著 しく十年四月現在では次の通 り
男   女   計   
全邦人 1,461人  608人  2,069人
沖縄県系人 790人 317人 1,107人
全在留邦人の半数は沖縄解人が占めて居 る。

(出典:『南洋群島』第 1巻第 10号 (1935年 11月)おか しま生の 「トラック邦人戸 口の推移」、http://ir.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/20.500.12000/22611/1/No7p123.pdf。「これをみると,1935年時点で南洋群島の トラック諸島において,沖縄県人は全邦人の男
性で 54.1%,女性で 52.1%,合計で 53.5%をも占めていることが判明 した。」)


資料 貴族院議員男爵伊江朝助の論説「沖縄県人を救へ」
元来沖縄縣は小 さな島であ りなが ら,六十帝人か らの人 口があるので,彼等はすべ て移民によって生活を立て ゝ行かねばな らない。賓際南米,北米,ハ ワイ等-出稼 ぎ に行ってゐる者か らの送金が年に三,四百商圏もあ り,この外金 を握って締って乗 る ものを合すると優 に四,五百商圏の金が県系に入ってゐる。これ等の金によって どれ程 疲弊 した解が救はれてゐるか知れないと思ふ。故に移民奨励 は同解の生命であ り,私 も機合 ある毎に解知事や有識者にその保護善導を説いて来たのであった。

(出典:『南洋群島』第 2巻第 9号 (1936年 9月)、同上、127頁)


資料 「南洋」への移住案内
南洋群島も他の植民地 と同 じく,自由移民 と契約移民がある。自由移民は希望者が自由に渡航 して,自由に職 を求めて働 く。之等の自由移民は最初は多 く人夫 として働き,若干の貯蓄を残 して,それか ら濁立 して行 くと云ふのが今 日迄の多 くの人々の経路である。
中には最初か ら若干の資本を持 ち,又は技術を持ってゐるものは,渡航後直ちに目的の仕事に着手 して行 くのである。若干の資本を持 ち又は特殊の技術を有する人から見れば,南洋群島は未だ魔女開拓を薦す可き有望な仕事は多い。
契約移民は南洋拓殖株式合社の農場及アンガウル錬業所同社傍系合社及南洋興蟹合社の砂糖耕地の人夫小作人,同社の採錬所,タピオカ澱粉製造所等の人夫が主で,何れ も最初合社 と一定の契約のもとに渡航 し合社の仕事に従事するのである。之等の契約移民は多 く合社の出張員が,募集県系の事務取扱所で取扱ってゐる。旅費 と仕度金は合社で前貸 しす るので簡単に渡航出来 る。
契約移民は勿論, 自由に渡航 して南洋で一旗あげや うと決心 して移住する人々も,絶海の異郷で常夏の風土に於いて仕事を焦すのであるか ら,所期の 目的を達す るには,心身共に強健で幾多の労苦に堪 ゆる覚悟がなければな らぬ。苛 も,一機千金を夢見るが如きことは絶封に禁物である。今 日何れの園,何れの植民地 と錐 も,専心其業務に,従事す るにあ らざれば成功は到底困難である。南洋群島も亦植民人 として其覚悟は勿論必要である。

(出典:大宜味朝徳 (1941)『南方年鑑』昭和16年版(179-180頁)、同上、136頁)




「南洋」へのまなざし ー冒険ダン吉と教育

サブ・サブ・クエスチョン
日本人は「南洋」を、どのような地ととらえていたのだろうか?

 沖縄の人々を中心とした日本人移民の向かった南洋諸島には、もともとチャモロ人などの人々が住んでいた。彼らは「島民とうみん」とされ、その言葉は「島語とうご」と呼ばれた。
 国籍は与えられず、南洋庁により、約8割の土地が日本人や日本企業の所有となった。

 この南洋諸島を舞台とした作品がある。1933~39年に雑誌『少年倶楽部くらぶ』に掲載された、『冒険ダン吉』(島田啓三しまだけいぞう作)という漫画だ。


 この作品において、「島民とうみん」(「土人どじん」)は、日本人の少年ダン吉と比較し、どのような人々として描かれているだろうか?

資料 『冒険ダン吉』

Q. 作品のなかでダン吉と島民の間には、どのような違いがあるものとして描かれているだろうか?


サブ・サブ・クエスチョン
日本人は「南洋」の住民を、どのように統治していたのだろうか?

資料 「トラック島だより」
三月二十五日お出しのお手紙を昨日受取りました。おとうさんはじめ皆様お元気で何よりです。叔父さんも相かはわらず丈夫で島々を廻つてゐるから,安心して下さい。
此のトラック島へ来てからもう三月になるので,土地の様子も一通りはわかりました。冬でも春でもこちらではちやうど内地の夏のやうです。暑さも年中此のくらゐのものださうで,かねて思つてゐたとは違ひ,なかなか住みよいところのやうです。それに此の辺一帯の島々は我が国の支配に属してゐるので,内地から移つて来た人も多く,少しもさびしくはありません。
内地から来て先づ目につくのは植物で,其の中でも殊に珍しいのはココ椰子の木やパンの木などです。椰子は,高いのは十四五間もあります。鳥の羽に似た大きな葉が,幹の上方に集まつていてをり,其の葉の根本には,大人の頭ぐらゐのすずなりになつてゐます。実の中にはかたい殻があつて,その内がはに白い肉のやうなものがあります。これから椰子油を取り,石鹸・蝋燭などを造るのださうです。まだ十分にじゆくしてゐない実は,中にきれいな水があります。これがなかなかうまいもので,私たちもよく取つて飲みます。又パンの木も所々に美しい林をつくつてゐます。其の実は土人の一番大事な食料で,焼いて食べたり,餅にして食べたりします。味はまことにあつさりしたものです。(中略)
土人はまだよく開けてゐませんが,性質はおとなしく,我々にもよくなつき,殊に近年我が国で学校をそこここに立てたので,子供等はなかなか上手に日本語を話します。此の間も十ぐらゐの少女が「君が代」をうたつてゐました。
いづれ又近い中に便りをしませう。おとうさんやおかあさんによろしく。

    四月十日    叔父から
   松太郎殿

(出典:『尋常小学校国語読本 巻9』、http://www2.nsknet.or.jp/~mshr/kyokasyo/tokuhon3/tokuhon09.htm)

資料 島民の教育

南洋群島教育会がまとめた『南洋群島教育史』[1938]には次のような記述がある。

(引用はじめ)邦人子弟の教育は,内地・外地の区別なく,忠良な日本国民として,働ける文化人を 養成することにあつて,教授の内容,教科書其の他一切内地小学校に準じて行はれて ゐる[南洋群島教育会編 1938:112]。 その一方で島民については以下のように書かれている。 島民教育に於ては,其の精神的方面では邦人子弟の教育と毫も変る事がないが,指導 の内容に就ては,邦人児童と軌を同じくする事は不可能である。それは謂ふ迄もなく, 未だ蒙昧の域を脱せず,全然国語を解する事の出来ない,島民の子弟であり,風俗・ 習慣其の他一切が,其の趣を異にしてゐるからである[南洋群島教育会編 1938: 112]。 (引用終わり)

ただし,このような見解がはじめから示されていたわけではない。軍政期に出された 『小学校教員心得に関する訓示』(1916)には,「今や皇国統治の下に在る南洋群島の島民 を教育し,之を同化するは洵に皇国の使命なり」[南洋群島教育会編 1938:153]とあり, 単純に「同化」が謳われていた。 しかし実際のところ,「同化」は困難というという見解がすぐに提出された。その主張 によると,1915年の『南洋群島小学校規則』は主に内地の小学校令に準じて編成されたも ので,「島民児童の教育上不合理であり,其の習性・心理状況と懸隔が甚しく,実施にも 困難な点が見出された」[南洋群島教育会編 1938:170]。

(中略)

語り 5 VK さん(1928年生/女性/コロール公学校補習科卒)
「最初,日本語を学ぶ時は厳しかったです。私たちが学ぶためにそうしてくれたと思う。 2 年生からはパラオ語は使えません。休み時間につい,パラオ語を使うでしょ?
サイパン玉やメンコに夢中になって。すると,看語当番と言って,赤いたすきをした5 年生が,パラオ語を話した人の名前を書いて,先生に渡すの。授業の前,先生が「パラオ語を話した人はこっちに来なさい」と言って,その授業は立ち通しだった。」

(出典:三田牧「まなざしの呪縛 : 日本統治時代パラオにおける「島民」
と「沖縄人」をめぐって」『コンタクト・ゾーン』4号、2011年、138-162頁、141,147頁、https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/177235/1/ctz_4_138.pdf)


 また、こんな歌謡曲もつくられている。

「私のラバさん/酋長の娘/色は黒いが/南洋じゃ美人/赤道直下/マーシャル群島/ヤシの木陰で/テクテク踊る」

***


南洋群島の日本支配に対する批判的なまなざし

追記:2022/07/24)
 こうした支配に対し、批判的な目を向けた者もいた。


石川達三『赤虫島日記』


第一回芥川賞受賞作家。1941年5〜7月にサイパン、テニアン、ヤップ、パラオを訪問したときの日記より。


(パラオ公学校参観の印象)
「少女たちの高い声のコーラスがはじまった。それが立派な日本語であったことに、私は裏切られたような気持がした。少女たちは愛国行進曲をうたい、軍神広瀬中佐をうたい、児島高徳の歌をうたった。日本の伝統を感じ得ないこのカナカの娘たちにとって、八紘一宇の精神や一死報国の観念が理解される筈はないのだ。美しい鸚鵡の合唱であった。[…]
 これがもしも彼女たちの日本人になろうとする努力の実現であるとすれば、その憐れさはひとしおである。」

(出典:井上亮『忘れられた島々—「南洋群島」の現代史』平凡社、2015年、62頁)


中島敦



『山月記』で知られる小説家・中島敦は、実は1941年6月から10か月、現地の国語教科書編纂のために南洋庁内務部地方課国語編修書記として各島に滞在した経験をもつ。以下はその間につづられた書簡だ(なお『山月記』は1942年の作品。同年、持病の喘息の悪化で亡くなっている)。

「現下の時局では、土民教育など殆ど問題にされてをらず、土民は労働者として、使ひつぶして差支へなしといふのが、為政者の方針らしく見えます。[…]此の仕事への熱意も、すつかり、失せ果てました」「どじんの教科書編纂といふ仕事の、無意味さがはつきり判つて来た。土人を幸福にしてやるためには、もつと大事なことが沢山ある」

(出典:井上亮『忘れられた島々—「南洋群島」の現代史』平凡社、2015年、63頁。杉岡歩美「中島敦にとっての〈南洋行〉—昭和初期南洋という場」『同志社国文学』68、63-75頁、2008年




 だが、このような眼差しを南洋諸島に向けた日本人はごく少数であった。

***

『冒険ダン吉』にみる日本の開発観

 
 ダン吉は原住民を支配するだけでなく、彼らを苦しめていた敵をたおし、文明を授けようとした。
 
 ダン吉の姿勢に、佐藤仁氏は、「「援助者としての日本」の原型」を見て取る。

 「『ダン吉』の中では、開発はもともと何もないところに「文明」をもたらす行為として描かれている。
 日本国内で「開かれる」べき地域、未開の遠隔地と見られていた場所は、現在の北海道にあたる「蝦夷」である。黒田謙一『日本植民思想史』(1942)によれば、「蝦夷」とは「皇威に服せぬもの、日本の風土に化していない国」として解されていた。国家の枠組みの外に」ある、こうした地域を取り込んでいく際に使われた開業や開国という言葉は、まさに今日でいう開発に近い概念として西洋から訳語として導入され、徳川幕府の頃から主に蝦夷を対象に用いられていた。」

(出典:佐藤仁『野蛮から生存の開発論—越境する援助のデザイン』ミネルヴァ書房、2016年、11頁)


 このように、北海道や沖縄、そして台湾、朝鮮、樺太の立ち位置を、南洋の国々と比較しながら検証してみると、「開発」の持つ二面性に気づかされる。

 日本は敗戦とともに、これまでの「開発」の事実を、すっかり忘却してしまった。
 南洋もその過程ですっかり忘れられていったのである。

 我が国における開発の理念から、日本国外を「開化させる」という視点が欠落しやすいのも、そこに原因があるのではないか。
 かつて日本を中心とする宇内うだいを、異民族にまで拡張し、普遍的な文明として日本の国威を広めようとした過ちを想起せぬよう、戦後の開発はあくまで「経済協力」という形で推し進められていった。 
 道徳的なキャッチフレーズを推進する際にも、あくまで国連と足並みをそろえる形をとる。1990年代に提唱された「人間の安全保障」もその一つだろう。SDGs(持続可能な開発目標)の眼目が、世界からの貧困の撲滅と地球規模の持続可能性であるにもかかわらず、一国的な社会問題解決(すなわち景気の好転)へと矮小化されてしまうことにも、もしかすると、他国の開発につきまとう植民地主義の影を振り払う無意識がはたらいているのかもしれない。


 
 

 


このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊