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新科目「歴史総合」を読む 2-2-6. アジアの経済成長と、都市化・開発・移民

■アジアの経済発展

サブ・クエスチョン
アジア諸国・諸地域は、なぜ、どのように経済を発展させることができたのだろうか?

 インドに、タタ・グループという財閥がある。インド独立後に製鉄や電気事業にも進出し、現在は自動車やIT産業にも携わっているこの企業は、1868年にボンベイでゾロアスター教徒によって設立され、当初は原綿を積出す事業をおこなっていた。しかし1870年代になると綿紡績工場を経営するようになり、原綿のみならず綿糸を中国をはじめとするアジア各地に輸出して利益をあげるようになる。

 同時代の中国や日本は、この動きに触発された。

 明治維新後の日本は、イギリスから蒸気機関を動力とする機械を輸入して紡績業を発達させ、中国への綿糸輸出でインドと競合した。
 アヘン戦争後の一連の条約で上海、天津、南京、漢口、廈門、広州が開港されていた中国には、インド・日本から綿製品などの物産が流入。沿海部の開港都市を中心に、茶、生糸などの一次産品の輸出にかんする物流が組織化され、その周辺地域では綿糸、マッチ、紙巻きタバコ、石鹸など簡単な加工品の輸入代替化の動きも進んでいった。1895年の日清戦争以後は、開港都市周辺が列強諸国によって租借され、鉄道・工場・鉱山などの利権への投資も拡大した。しかし、イギリスを筆頭とする外国企業・銀行が対外経済関係を牛耳っていたわけではない。在華外国企業・銀行が開港場外の中国国内でビジネスをするには、買辦ばいべん商人や地方官僚、紳士・郷紳などの地域エリート、同業団体であり釐金りきんを徴収していた行会の協力が不可欠であった(参考:岡本隆司編『中国経済史』名古屋大学出版会、2013年、239頁。釐金については岡本隆司、ibid.、226頁のテーマ39、買辦については本野英一、ibid.、227頁のテーマ40を参照のこと)。


 日清戦争後(1895〜1897年)の日本は、第2次企業勃興期(第1次は1885〜89年)にあたり、紡績・鉄道・銀行企業が多数設立された。
 

資料 綿工業の発展
(1)綿糸紡績業
 手紡→  ガラ紡(手動→水力)→ 機械紡績(ミュール紡績機、リング紡績機)

(2)綿織物業
 手動機・飛び火の利用
 → 動力機機械(1896年、豊田佐吉による豊田とよだ式木製動力力織機)

 1890年 綿糸生産量>綿糸輸入量
 1894年 綿糸輸出関税の撤廃
 1896年 綿糸輸入関税の撤廃
 1897年 綿糸輸出量>綿糸輸入量
 1902年 綿糸・綿布輸出奨励制度
 1909年 綿布輸出額>綿布輸入額
 1933年 綿布輸出量、イギリスを抜き世界一に



 しかし、蒸気船による航路は、当時はイギリスの船会社が独占し、輸送量がコストを圧迫していた。
 そこで日本の渋沢栄一は、インドのタタ財閥とかけあって、共同でボンベイ〜神戸路線を就航させることに成功した。そして価格競争の末に、イギリスの船会社に対して優位に立つことに成功したのである。

資料 ボンベイ航路の解説 渋沢栄一とタタ財閥
 ボンベイ航路は、日清戦争前の1893(明治26)年、日本郵船がインドの綿花商「タタ商会」と共同で開設した。当時、インドの綿花を輸送する航路は、英国、オーストリア、イタリア3国の海運同盟に独占されていたが、日印双方が有利な貿易関係を築くためタタ氏が来日。日本経済界の重鎮だった渋沢に打診した。渋沢は郵船や紡績業界、政府と協議し、運賃補助と紡績業界の積み荷契約を取り付け、郵船とタタによる配船を実現させた。
 3国の海運同盟は、1トン当たり17ルピーとしていた綿花の輸送賃を1・5ルピーに値下げして対抗。渋沢に対し「運賃競争に日本が勝てるはずがない」と脅したが、それをはねのけ、紡績業界も郵船・タタとしか取引しなかったという。郵船・タタの運賃は12ルピーだった。
 渋沢の口述による「青淵(せいえん)回顧録」にはこう記されている。〈当時この競争はターター(タタ)問題としてすこぶる世間に喧(やかま)しく論ぜられたものであったが(中略)圧迫に恐れて新航路を差し控えるとか、もしくは激烈な競争に敗れてインド航路を廃止したならば、恐らくや我(わ)が海運業の発達はもっともっと遅れていたろうと思う〉
 神戸港の周辺ではその後、紡績会社のほか、繊維商社や海運会社が次々に誕生。世界有数の貿易港へと発展していく。
 日本郵船は、神戸-ボンベイ航路開設からわずか3年後の96(明治29)年、政府の命を受けて欧州、米国、豪州に航路を開設した。」

(出典:神戸新聞NEXT、2021/8/28 16:00、https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/202108/0014630871.shtml
(出典:神戸新聞NEXT、2021/8/28 16:00、https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/202108/0014630871.shtml)

 このように、綿紡績業の分野でたがいに競い合い、分業し合うことで、アジア諸国・諸植民地は工業化を進めていったわけである。

(出典:外園豊基編集代表『最新日本史図表 三訂版』第一学習社、2020年、264頁)



 1900〜1901年の経済恐慌では企業合併が進行し、1907年にも経済恐慌が起きた。三井合名会社の設立(1909年)をはじめ、三菱や住友などの財閥が形成されていく。
 また、農村では、地主が農業経営だけでなく他の事業にも手を伸ばし、地方で資本を形成し、政治的には地方議員や国会議員に進出していった(寄生地主制)。


 20世紀初頭になると、欧米諸国の企業と同様に、日本企業は海外投資を本格化させていった。これを加速させたのは、第一次世界大戦であった。ヨーロッパからの輸入が途絶え、民族資本が成長したのである。

資料 近代的産業の始動
 …第一次世界大戦後から1920年代にかけては、列強各国が相次いで金本位制に復帰した結果、銀の国債価格が下落し、銀を通貨として用いていた中国国内に流入するようになった。銀の流入がもたらした穏やかなインフレ基調の下で、上海租界を中心とした長江下流域では、中国資本の繊維工業、その資金・担保供給源としての近代銀行業・不動産業、ならびにその原材料の供給地としての農村がそれぞれ有機的に結びついて発展するという好循環がはたらくようになった。租界は、治外法権により相対的にセキュリティが維持された地域であり、電力・水道などの産業インフラが比較的整備されていたため、近代的産業の発展の母体となったのである。

 中国のうち、租界とその周辺は、綿業(綿紡織業)分野における近代的産業の中心となった。

 すでに19世紀末より、インド産の機械製綿糸が新土布(機械製綿糸を用いた在来織布)の原料として、農村で急激に市場を拡大していた。それが第一次世界大戦をきっかけに、イギリスからの輸入のストップ、綿花価格の下落、綿糸価格上昇によって、太糸で競合していたインド綿糸を駆逐した。1919〜1921年は「黄金時代」ともいわれる。しかし、1922〜1924年に原綿価格が高騰し、生産過剰で中国の綿紡績業は不振におちいった。そこに食い込んでいったのが、日本の紡績業の直接投資による中国進出である。中国で日本企業の経営した紡績業を在華紡ざいかぼう)と呼ぶ。中国の綿業は、欧米資本の比率を日本資本の比率がしのぐようになり、機械制綿布の生産量も急増していったが、それに対抗して中国資本の紡績工場も発展していくこととなった。中国の綿糸自給率の向上には、在華の進出が貢献していたのである(参考:岡本隆司編『中国経済史』名古屋大学出版会、2013年、243-245頁)。

(出典:岡本隆司編『中国経済史』名古屋大学出版会、2013年、244頁)


 一方、イギリスの植民地であったインドでも、イギリスが戦後の自治を約束し、工業化をうながす政策に転換に転換されたことが、民族資本の成長に寄与している。

 なお、第一次世界大戦中には、日本で重化学工業化がすすめられ、都市経済の発展や大衆社会の出現をうながすことにもなった。

 ただし、アジアの経済的な発展は、そのうちに他民族を差別する構造をはらむものでもあった。
 たとえば戦後にヨーロッパ諸国はアジアへの輸出を再開。これを受け、日本は戦後恐慌となった。まもなく1923年には関東大震災が発生し、ここで日本国内の朝鮮や中国の人々が流言飛語の犠牲となっている。上海では在華紡ざいかぼう での労働争議がきっかけとなって1925年に五・三〇事件(中国人のデモ隊に対して、租界のイギリス警官隊が発砲したことで始まった。)が起き、日本はイギリスなどと同じく「帝国主義」として民族運動にとっての敵とみなされた。事件後、イギリスは漢口の租界を中国に返還している。


■開発と保全

サブ・クエスチョン
どのような開発がおこなわれ、社会、人々や自然にどのような影響をもたらしたのだろうか?

開発の進展と利権をめぐる対立

サブ・サブ・クエスチョン
どのような開発がおこなわれ、社会、人々にどのような対立をもたらしたのだろうか?

インドでは1853年にアジア初の鉄道が、港市のボンベイ(現ボンベイ)から内陸の綿花生産地帯に向けて開通した。その後も敷設キロ数は伸び続け、20世紀初頭には、世界第4位の鉄道大国となった。

 一方日本では1872年に鉄道が開業し、インドと同様、イギリスから工業技術や機械、原料、さらに鉄道経営の仕組みを取り入れていった。

資料 インドの鉄道網(1909年時点)

(パブリックドメイン、By John Bartholomew and Company/Edinburgh Geographical Institute,Imperial Gazetteer of India, 1909, https://commons.wikimedia.org/wiki/File:India_railways1909a.jpg)
(Creative Commons Attribution-Share Alike 2.5 Generic, Indian Railways Rajdhani Shatabdi Lines, Author: Railway_network_map.png:PlaneMad)


資料 アフリカ大陸の鉄道網

( Creative Commons Attribution-Share Alike 4.0 International、Author:Bucsky,https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Africa_railway_map_gauge.jpg)
(CC 表示-継承 3.0,  Made using the list on CIA Factbook railways and Seabhcan's railmap. Uses File:BlankMap-World-v8.png, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%AD%E8%BB%8C#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Rail_gauge_world.png)



 明治政府は、土地の買収や建設費の都合から、狭軌(軌間1067mm)で鉄道建設を進めていった。
 しかし、大正時代以降、憲政会は広軌(1435mm)で鉄道を建設し、輸送力や速度をあげるべきだと主張した。朝鮮や中国の鉄道は広軌(1435mm)だった。

憲政会の主張を「改主建従」策というのにたいし、狭軌(1067mm)のまま全国の路線延長を優先すべきだとする立憲政友会の「建主改従」策が対立し、二大政党間の争点となっていた。


資料 大阪朝日新聞 1927.8.18(昭和2)
改主建従か建主改従か 鉄道網完成が先き
まさか砂漠にはねエと小川建主子はいう
仙石鉄相時代の改主建従の鉄道政策を今度小川鉄相が建主改従に変更して、政友会案による鉄道網計画を復活しようという、それを野党たる民政党では国民に公約した線路を繰延べるのは罪悪だと叫んでいる、今仙石、小川両氏の意見を聴いて見る、まず小川鉄相を自宅に訪うと氏は語る
『鉄道も普及はしたし金はなししかし金がないからといって手を束ねて見ているわけにもゆかぬ借金して鉄道を敷くというけれど、二三年経てば元金は返ってくるじゃないか、砂漠に線路を敷くのじゃあるまいし、そう心配したものではない改良事業ということもそれは大切だが、改良のうちにも種類があって、橋梁の腐れかけているのを直すとか、古い線路を新らしいのに変えるとか、いわゆる線路改良ってやつ、これは必要だそれをゆるがせにしたら人命に関するだろうが、停車場の改築に鉄筋コンクリートを木造建にしたって別に差支はないではないか、僕は鉄道網というものがおよそ完成に至ってから、次に永久的な金のかかる停車場の改築などをやっても遅くはないと思う、仙石君のとき重要な線路を皆繰延べているので、先ず主としてそれを元へ戻すまでさいろいろ地方から感謝状などが来ているのに見ても、仙石君当時繰延べたことがその地方あるいは地方民へどれだけの影響や失望を与えているかという一端がうかがわれる、仙石君か、ウン、あの人自身はなかなかあっさりした人さ、郷里土佐の高讃線の建設をいくら地元が騒いでも知らぬ顔とうとう五六年も繰延べてしまったほどの変った人だ、しかし僕が建設線をふやすといっても程度問題さ、そう無茶なことができるものか、ただ国有法の趣旨を酌んで線路が一線も敷かれなくて泣いている地方の要望を満たしてやりたいのだ、地方から私設鉄道として出願する線でたとえ予定線に沿うたものでも合理的なものはどんどん許して官私協調でゆきたい、運賃政策も大いに考えている石炭のような大量貨物はもっと引下げるが至当だが、定期券などは長期にするとまるで只のように安いから、反対に引あげたいと思っている、しかしすぐに実行しようという意思は少しもない』

金が余るなら振りまくがいいと仙石改主子はいう
片瀬の別荘に仙石貫氏を訪えば、赤銅色の顔をしてモウ鉄道なんて面倒くさいことは忘れてしまったという風に、ポツリポツリ語る
『近ごろは考えごとをするのが嫌いじゃ、ウン、碁だけはよくやる、あれは頭を痛めぬからな、ここへ来てから浜口にはよく会うが、政治談はやらない、あれもおれと同じであまり趣味の広くない男じゃ、近ごろはチョイチョイ新聞を見るだけでよく知らんが、何か小川がやりそうじゃね、あれは本当か、鉄道にあり余る金があったら、建設にもドンドン振りまいたらよかろう喜ぶやつがそこらじゅうにあるからナ、国家本位にやるから建主も改主もある、小川という男も護憲三派内閣のときは一緒にいたが、そのころおれに反対の意見も何もいわなかったが、不思議なくらいじゃ、小川のやり方を公約の破棄だと民政党で罪悪呼ばわりしているのか、法律や制度を度々かえることはそれじゃ皆罪悪か、一体こういうことにあまり国民は冷淡じゃ線路をふやすも国家のためならよかろう、しかし鉄道を党略に利用するということが度重なると、将来は何かえらいことになりはせんか』(東京電話)

神戸大学附属図書館、新聞記事文庫 鉄道(21-174)
、http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/ContentViewServlet?METAID=00102011&TYPE=HTML_FILE&POS=1&LANG=JA

資料 鉄道の国有化(1906年)

『東京パック』(1906年3月15日号)

Q. この風刺画は、鉄道国有化(1906年)によりどのような状況がもたらされることを懸念しているのだろうか?



公害の発生とその対応

サブ・サブ・クエスチョン
開発は、人々や自然環境にどのような影響をもたらしたのだろうか?

 1880年ごろから銅の需要の高まった日本では、産出量が増えていった。
 そんななか、栃木県渡瀬川わたらせがわ流域で、銅山の鉱毒の被害が出た。



 これに対し、田中正造たなかしょうぞうが足尾銅山の創業停止を求める運動を起こしたが、働き先であった住民は一枚岩ではなく、政府も創業停止に踏み切ることはなかった。1907年には谷中村が廃村とされて遊水池とされた。

資料 田中正造直訴状より抜粋
陛下深仁深慈臣ガ[狂→至]愚ヲ憐レミテ少シク乙夜ノ覧ヲ垂レ給ハンコトヲ。
伏テ惟ルニ東京ノ北四十里ニシテ足尾銅山アリ。[+近年鉱業上ノ器械洋式ノ発達スルニ従ヒテ其流毒益々多ク]其採鉱製銅ノ際ニ生ズル所ノ毒水ト毒屑ト[久シク→之レヲ]澗谷ヲ埋メ渓流ニ注ギ、渡良瀬河ニ奔下シテ沿岸其害ヲ被ラザルナシ。[而シテ鉱業ノ益々発達スルニ従ヒテ其流毒益々多ク加フルニ→加フルニ]比年山林ヲ濫伐シ[+煙毒]水源ヲ赤土ト為セルガ故ニ河身[+激]変シテ洪水[頻ニ臻リ→又水量ノ高マルコト数尺]毒流四方ニ氾濫シ毒[屑→渣]ノ浸潤スルノ処茨城栃木群馬埼玉四県及[+其下流ノ]地数万町歩ニ[及ビ→達シ]魚族[絶滅→斃死]シ田園荒廃シ数十万ノ人民[+ノ中チ]産ヲ失ヒ[+ルアリ、営養ヲ失ヒルアリ、或ハ]業ニ離レ飢テ[泣キ寒ニ叫ビ→食ナク病テ薬ナキアリ。]老幼ハ溝壑ニ転ジ壮者ハ去テ他国ニ流離セリ。如此ニシテ二十年前ノ肥田沃土ハ今ヤ化シテ黄茅白葦満目惨憺ノ荒野ト為レ[リ→ルアリ]。
臣夙ニ鉱毒ノ禍害ノ滔滔底止スル所ナキト民人ノ痛苦其極ニ達セルトヲ見テ憂悶手足ヲ措クニ処ナシ。嚮ニ選レテ衆議院議員ト為ルヤ第二期議会ノ時初メテ状ヲ具シテ政府ニ質ス所アリ。爾後[-毎期]議会ニ於テ大声疾呼其拯救ノ策ヲ求ムル茲ニ十年、而モ政府ノ当局ハ常ニ言ヲ左右ニ托シテ之ガ適当ノ措置ヲ施ス[+コト]ナシ。而シテ地方牧民ノ職ニ在ルモノ亦恬トシテ省ミルナシ。甚シキハ即チ人民ノ窮苦ニ堪ヘズ[+シテ]群起シテ其保護ヲ請願スルヤ有司ハ警吏ヲ派シテ之ヲ圧抑シ誣テ兇徒ト称シテ獄ニ投ズルニ至ル。而シテ其極ヤ既ニ国庫ノ歳入数十万円ヲ減ジ[+又将ニ幾億千万円ニ達セントス。現ニ]人民公民ノ権ヲ失フモノ算ナクシテ町村ノ自治全ク[破壊→頽廃]セラレ[飢餓→貧苦疾病]及ビ毒ニ中リテ死スルモノ亦年々多キヲ加フ。
(底本:「田中正造全集 第三巻」岩波書店
   1979(昭和54)年1月19日発行
※「直訴状」は幸徳秋水によって起草され、田中正造によって修正された。ファイル中では、田中によって手直しされた箇所を、「[]」におさめて示した。「→」の元が幸徳案、先が田中による変更。「+」は田中による加筆、「-」は削除箇所である。)
(出典:青空文庫


 なお、このような「開発」によって生じた環境問題は、日本に限らず、工業化を経験した国々で見られた。

 たとえばイギリスの首都ロンドンでは、すでに17世紀頃から石炭の燃焼による大気汚染も進行し、産業革命以降生活環境はさらに悪化した。
 そこで19世紀末には、エベネーザー・ハワードが田園都市ガーデン・シティ構想を発表し、20世紀初頭にロンドン郊外のレッチワースで実現させた。

資料 エベネーザー・ハワード『明日の田園都市』より
 でも、町磁石もいなか磁石も、自然の計画や目的を完全な形で体現したものではない。人間社会と自然の美しさは、いっしょに楽しまれるべきものだ。この二つの磁石を一つにしなくてはならない。男と女が、異なる天分と機能によってお互いを補うほうに、町といなかも補い合うべきだ。町は社会のシンボルだ――助け合いと仲のよい協力、父性、母性、姉妹兄弟愛、人間同士の広いつきあい――広く拡大する共感――科学、芸術、文化、宗教のシンボルなのだ。
 そしていなかとは! いなかは人間に対する神の愛と配慮のシンボルなのだ。われわれであるもの、そしてわれわれの持つものはすべていなかからきている。われわれの肉体もそれで作られている。そして死ねばそこに戻る。それに養われ、服を与えられ、暖められて家屋を与えられている。その腹部にわれわれは休む。その美しさは、芸術や音楽や詩の源だ。その力は、産業のあらゆる車輪を動かす。あらゆる健康、あらゆる富、あらゆる知識の源である。でもそのよろこびと英知の全貌は、いまだに人類に明かされてはいない。そしてこの、社会と自然との不道徳で不自然な分離が続くかぎり、それが明かされることは決してないであろう。町といなかは結ばれなくてはならない。そしてこの喜ばしい結合から、新たな希望、新たな暮らし、新たな文明が生まれるだろう。本書の目的は、町・いなか磁石をつくることで、この方向への第一歩をいかにして踏み出せるかを示すことである。そしてわたしは読者に、これがいますぐここで実現可能なものであり、しかもその原理は倫理的にみても経済的にみても、きわめてしっかりしたものだということを納得してもらいたいと思っている。
(出典:山形浩生訳『明日の田園都市』、プロジェクト杉田玄白、https://www.genpaku.org/gardencity/gardencityj.html#ch13)



  田園都市構想の影響を受け、おなじく都市問題がおきていた日本でも、首都圏(田園都市)・関西圏の郊外で、田園都市の建設が実行された(→2-2-5.を参照)。しかし、ハワードの提唱した田園都市は、主流とはならなかった。


***

■国境をこえる移動の増加

サブ・クエスチョン
アジアの人々の国境を超える移動は、なぜ活発化していったのだろうか?


日本と中国

サブ・サブ・クエスチョン
中国語のなかに、日本由来の単語が多くみられるのはなぜだろうか?


 20世紀の前半は、以前として帝国による植民地が世界各地を覆う時代であった。
 宗主国と植民地の間には、政治家や知識人、学生が、帝国の交通網を利用して訪問したり留学したりした。
 これにより宗主国の知識や制度は植民地に伝わるとともに、植民地どうしの知識や制度もさかんに交換された。
 日本はアジアの国家でありながら、帝国主義勢力として国際連盟の常任理事国にまでのぼりつめたことから、アジアやアフリカ諸国にとって強い関心の対象となった。

 たとえば中国は、欧米諸国や日本に留学生を多く送り出したが、欧米の著作の多くはすでに日本語に翻訳されており、それを介して欧米思想を間接的に摂取することも少なくなかった。

資料 張之洞ちょうしどう勧学篇かんがくへん

留学して過ごす1年間は,5年間西洋書籍読むことに勝る。(出洋一年.勝於読西書 五年.)外国の学校に入学することは,中 国の学校で3年間の勉強することに勝る。
(入外国学堂一年 . 勝中国学堂三年 .)
(中略)
留学生の対象は,幼い子供より知識人を優 先し,庶民・官僚より貴族を優先する。(遊 学之益 . 幼童不如通人 . 庶僚不如親貴 .)
(中略)
日本は小さい国であるが,何故発展できた のか。伊藤,山縣,榎本,陸奥などは,皆 20年ほど前,欧米に留学した学生である。 彼らは日本が西洋に脅かされることを憤 り,百人あまりを率いて,ドイツ,フラン ス,イギリスなどの国々に行って,政治工 商あるいは水陸兵法を学んだ。修業した あと帰国し,国家はこれらの人材を活用 し,政事は一変した。日本は東洋で重要 な役割を果たした。(日本小国耳.何興之暴 也.伊藤山縣榎本陸奥諸人.皆二十年前出洋之学生也.憤其国為西洋所脅.率其徒百餘人.分詣 徳法英諸国.或学政治工商.或学水陸兵法.学成 而歸.用為將相.政事一変.雄視東方.)
留学の国といえば,西洋より東洋のほうが いい。一,距離が近く,費用の節約がで き,多くの人数が派遣できる。一,中国に 近く,調査,研究が容易である。一,日本 語は中国語と似ているため,理解しやす い。一,西洋の学問はかなり難しい。しか し,日本人はすでに西洋の学問を修得して いる。中国と日本との事情・風俗は似てい るため,倣いやすい。よって,半分の苦労 で倍の成果をあげることができる。その上 でなお自らもっと高いレベルを求めたいと 望むなら,さらに,西洋に赴くべきである。
(至遊学之国.西洋不如東洋.一.路近省費.可 多遣.一.去華近易考察.一.東文近於中文.易 通曉.一.西学甚繁.凡西学不切要者.東人已刪 節而酌改之 . 中東情勢風俗相近 . 易仿行 . 事半功 倍.無過於此.若自欲求精求備.再赴西洋.有何 不可 .)
(出典: 孫倩「清国人の日本留学に関する一考察 -1890年から1910年まで-清国人の日本留学に関する一考察—1890年から1910年まで」、『社学研論集』、18、188-203頁、2011年

Q. 張之洞はなぜ日本への留学を推進したのだろうか?



 中国から周辺地域に広まった漢字は、欧米思想と接触した近代日本において新たな概念(単語)を生み出した。そして、それが日本の近代化モデルを摂取しようとした留学生を通じて中国に逆輸入され、さらにあらたな中国語が創出され…といったように、絶えず日中間の交流を誘発し続けている。漢字を通して、言語をこえた循環が存在しているのである。

資料 明治時代に翻訳された日本語
「1814~15の日清戦争の直後から、清国政府は、 留学生を日本に送ってきた。最初は189(6明治29・ 光緒22)年の13名で、多いときは8000名に及び 1937年まで42年間つづいた。そして中国人留学生 は日本書を中国語訳し、日本で定着した西洋語の 訳語を借用した。これら中国語となった日本語を 集めた辞書が、汪栄宝・葉瀾編纂『新爾雅』(1903、 上海、明権社版、東京並木活版所印刷)である。 日中の語彙交流の研究は、これからの興味ある分野である。」

(出典:飛田良文「明治時代に翻訳された日本語」帝国書院、https://www.teikokushoin.co.jp/journals/bookmarker/pdf/200601h/bookmarker2006.01-15.pdf


「南洋」


サブ・サブ・クエスチョン
1920年代の日本は、どの範囲を「日本」と認識していたのだろうか?

 第一次世界大戦開始後、日本は、赤道以北の南洋諸島を委任統治領として支配した。ここは現在のミクロネシアを中心とする海域であり、もともとはドイツの植民地であった。

史料 国際連盟憲章第22条

...これまでの支配国の統治を離れた植民地や領土で、近代世界の苛烈な条件のもとでまだ自立しえない人々が居住しているところに対しては...資源や経験あるいは地理的位置によってその責任を引き受けるのに最も適し、かつそれを進んで受諾する先進国に委任し...後見の任務を遂行させる...。
(『世界史史料10』岩波書店)


(出典:https://www.nikkaibo.or.jp/pdf/micro_eez.pdf)



 政府は1922年にパラオに南洋庁を設置して、多くの日本人を移住させた。
 同年にサイパン~沖縄間を直行船が就航している。

 その後、南洋諸島は南方進出と資源確保のかなめとして、1944年にアメリカ軍の占領するまでは日本海軍の拠点となった。



サブ・サブ・クエスチョン
「南洋」に、どのような企業が、何のために拠点を設けたのだろうか?

資料 「海の生命線」に飛躍する南洋興発 熱と力の松江社長の新規計画注目さる(時事新報 1934.4.30 (昭和9))
松江南洋興発株式会社長 
「海の生命線」南洋を守れの声は澎湃として起り、今や非常時日本を風靡し、南洋が陸の満蒙に比較して重要な国防線であり、移民線であり、又物産線たることは何人と雖充分に認識している。だが今から十数年前の南洋諸島はどうだったろう。大戦後我国はこの地の領土権を独逸から承継し南洋庁を置いて委任統治の端緒を開いたが毎年三百万円の赤字を国庫が負担せねばならなかった。又民間実業家も一時は南洋熱に浮かされてかなりの資本をつぎ込んだが皆失敗に終った。南洋開拓絶望論が起ったのもこの頃である。固よりすべて事業は資本と天然資源に俟つところ多いがこれを運用する人が重大な要素たることを忘れてはならぬ、如何に豊富な資源を資本を持ってしても若しその人を得ざれば事業の失敗は必定だ南洋開拓初期時代には恐らく官民共にその人を得なかったに違いない。
南洋に着眼した松江春次社 
然し南洋の大富源が何時までも埋もれている筈はない誰か慧眼の士がこの開発に任ずるだろうと予期されていたが果せるかな先輩失敗の跡を引受け敢然立って雄飛を企図せる快男児があったこれが今日海の生命線上に躍る南洋興発株式会社長松江春次氏である。即ち南洋占領後企業して一敗地に塗れた西村拓植、南洋殖産の諸会社及び南洋企業組合等敗残の跡を救済すべく、東洋拓殖株式会社が投資し、大正十年十一月二十九日南洋興発株式会社が設立されるや松江氏は同社専務に就任した。而して製糖業に着眼し多くの反対論を排して開拓絶望とされた南洋未開の地に、まず千噸の大製糖所を設置今日の基礎を作り、爾来松江社長は孤軍奮闘、よく苦心経営して今日の大南洋興発を完成した、毎年三百万円の赤字を出していた南洋庁特別会社が近年これを克服し、台湾と同様一般会計のお世話にならぬと揚言し得るようになっているがその裏面に毎年三百五十万円を南洋庁に納入する「興発」社長松江春次氏あるを知らねばならぬ。昨秋南洋に氏の銅像が建設されたが永くその事業と人格を欣慕せんとする島民の心持がよく解る。茲に同氏の経営する南洋興発株式会社の全貌を述べるのも徒爾ではない。
資産状態堅実 
同社は最近特に世上の注目を惹いている。固より松江社長の努力の結果に外ならぬが昨年三月千三百万円を増資して二千万円とし、事業を大拡張して、将来産糖百五十万担への増産を計画、又将来新に耕地白糖の製造に着手するなどの新方針を決定したことにあると思う何となれば若しこれが実現の暁は、台湾糖業の被る影響は勿論、内地糖界に一層の衝動を与うるからであろう。同社、今日の存在亦偉なる哉だ。現に同社が製糖事業を開始したのは大正十一年末であったが僅か短時日月の間に異常な発達を示し優良なる台湾糖業会社にも匹敵する程の成績を示しているではないか。試みに昭和五年以降の実績を示せば次の如くである[図表あり 省略]即ち同社は平均払込資本の九百六十万円(資本金二千万円期末払込金一千二十五万円)に対して二割五分の利益率を示している。この限り一割乃至一割二分の配当は極めて容易であるのに僅か九分の配当に止めている、従来利益の半分を社内に蓄積することに努めて来たが今やその方針は一段の手堅さを加えて来た。同社が内容の堅実を誇るのも当然である。
製糖業の実際
同社の蔗作事業地は現在サイパン島とテニアン島の両地であるが一年後には更に予定地たるロタ島に工場建設を決し、目下その準備中である。現在事業地の規模は次の如し[図表あり 省略]即ち二工場の圧搾能力は二千四百英噸であって、既懇蔗園は七千七百余町歩、これに島民及社外蔗園を合すれば八千四百六十七町歩となる、但テニアン島には前途第二工場の建設が予定され、このため原料蔗園の拡張が行われておるしロタ島にも亦工場建設の準備を整え既に前期より原料園の植付に着手した前者の操業期は昭和十年後者は同十一年以降の予定であると言う。テニアン工場の拡張完成に依って将来の年産糖高は百万担に達する予定であり、更にロタ工場の完成する暁には産糖年額百五十万担の実現が期待されている。同社事業の中心は以上の通り糖業にあるが、その他の新計画としては、澱粉事業及び燐鉱採掘事業がある、澱粉事業は、ボナペ島において工場建設に着手し、本年末工場完成の上は毎年澱粉五十万貫を製造移出する予定で、本事業を更にパラオ本島にも拡張すべく企図している。又燐鉱は前期においてパラオ支庁下ペリリュウ島に採掘の許可を得、本年五月諸設備を完成して燐鉱の移出を行うと言う。
附属事業現状
殖民的使命を帯びている同社の事業は単にこれ許りでない鉄道、船舶、通信の事業にも手を染め、又牧畜造林の事業にも相当の成績を挙げたが特筆すべきは製氷業と漁業である。同社は大正十五年既に製氷機械を購入して氷の製造を開始し社外にも供給医療用並びに飲料として多大の賞讃を博したが僅か一日一噸半の能力に過ぎなかったので需要の増加に伴うことが出来ず遂に大日本製氷会社と共同して積極的に斯業に進出するに至った又表南洋からパラオ近海に群棲する鰹、鮪に見込みをつけ漁業にも着手した。今日「南興節」と言う安くて良質な鰹節を我々の食前に見ることが出来るのも同社のお蔭である。
恵まれた前途
以上の如く南洋興発会社は旭日昇天の勢いを示している非常時財界に不況をかこつ内地事業会社の存在を無視して。十数年前南洋開発絶望論を唱えた人もこの現状を眺めては「永生きして恥多し」の感を深くしているだろうがそれは「絶望論者」の罪ではない同社経営者の達識活眼、敏腕が然らしめたものだすべての事業は人の力である松江社長以下同社重役従業員諸君の努力こそ非常時日本の再認識せねばならぬ事実だと思う。今や同社は新計画遂行のため増資、千二十五万円の払込資本を擁してスタートした。それに同社には一銭の社債もなく、支払手形もないと言う強味がある。加うるに南洋開発の目的を達成せしむべく背後に拓務省、南洋庁が在ってこれを保護援助している名実共に三拍子も四拍子も揃っているとはこの南洋興発会社のことだ。その前途期して待つべきものがあろう。

(出典:神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 東南アジア諸国(7-113)、http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00501614&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1)


サブ・サブ・クエスチョン
委任統治領とは何だろうか? 

 南洋諸島にはチャモロ人などの人々が住んでおり「島民」と呼ばれた。
 国籍は与えられず、南洋庁により、約8割の土地が日本人や日本企業の所有となった。


サブ・サブ・クエスチョン
「南洋」に移住したのはどのような人々で、どのような目的で移住を選択したのだろうか?

南洋興発サイパン製糖所( 朝報社「南洋群島地理風俗大観」)(パブリックドメイン、File:NKK Saipan sugar mill.JPG、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%B4%8B%E8%88%88%E7%99%BA#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:NKK_Saipan_sugar_mill.JPG)


資料 「移民大洪水」の見出しの記事が伝える、当時沖縄県から南洋群島に数多く渡航 しているとの報道

南洋 の新天地 を 目指 して突進す る移民の群 は毎航海 とも移 しい数 に上 り先づ便船 毎に百名以上は渡航 してゐ る盛況ぶ り,これ ら移民はまづ大部分南洋興費骨社 に働 く べ く,それ を昔込んで渡航す る移民で大部分は沖縄移民である。南興合社では本年 に至 り正式に同社で直接募集 した関係移民は約一千名で,この うち既 に四百名は現地行 き残 る六百名は徐々に本年 中に送る。
注 目すべきは合社が従来主 として取扱った移民は沖縄移民が大部分であったが,最近では殆 ど合社直接に沖縄移民は取扱はず,今年募集の分 も全部内地各府醇から募集の移民ばか りで,沖縄移民は正式には一人も採用 してゐない。従来南洋に働 く移民は沖細入が最 も耐熱性 に富んでゐたもの といはれてゐたが,幾多の経験か ら北海道東北移民で も決 して活動す る上において支障をきた さぬ と裏書 されたのによるもの といはれてゐる。いづれにしても南洋 を目ざす移民は宛 ら洪水の如 くである。

(出典:『南洋群島』第 1巻第 5号 (1935年 6月)、124-125頁、 石川友紀
「旧南洋群島日本人移民の生活と移動 -沖縄県出身移民の事例を中心に」『移民研究』No.7、p.123 -142、2011年、http://ir.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/20.500.12000/22611/1/No7p123.pdf)


資料 トラック諸島における 1935年 (昭和 10)4月現在の全邦人 (日 本人移民全体) と沖縄県人 (沖縄移民)の男女別移民数

昭和五年以降鰹漁業勃興 し沖縄醇人の渡島著 しく十年四月現在では次の通 り
男   女   計   
全邦人 1,461人  608人  2,069人
沖縄県系人 790人 317人 1,107人
全在留邦人の半数は沖縄解人が占めて居 る。

(出典:『南洋群島』第 1巻第 10号 (1935年 11月)おか しま生の 「トラック邦人戸 口の推移」、http://ir.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/20.500.12000/22611/1/No7p123.pdf。「これをみると,1935年時点で南洋群島の トラック諸島において,沖縄県人は全邦人の男
性で 54.1%,女性で 52.1%,合計で 53.5%をも占めていることが判明 した。」)


資料 貴族院議員男爵伊江朝助の論説「沖縄県人を救へ」
元来沖縄縣は小 さな島であ りなが ら,六十帝人か らの人 口があるので,彼等はすべ て移民によって生活を立て ゝ行かねばな らない。賓際南米,北米,ハ ワイ等-出稼 ぎ に行ってゐる者か らの送金が年に三,四百商圏もあ り,この外金 を握って締って乗 る ものを合すると優 に四,五百商圏の金が県系に入ってゐる。これ等の金によって どれ程 疲弊 した解が救はれてゐるか知れないと思ふ。故に移民奨励 は同解の生命であ り,私 も機合 ある毎に解知事や有識者にその保護善導を説いて来たのであった。

(出典:『南洋群島』第 2巻第 9号 (1936年 9月)、同上、127頁)


資料 「南洋」への移住案内
南洋群島も他の植民地 と同 じく,自由移民 と契約移民がある。自由移民は希望者が自由に渡航 して,自由に職 を求めて働 く。之等の自由移民は最初は多 く人夫 として働き,若干の貯蓄を残 して,それか ら濁立 して行 くと云ふのが今 日迄の多 くの人々の経路である。
中には最初か ら若干の資本を持 ち,又は技術を持ってゐるものは,渡航後直ちに目的の仕事に着手 して行 くのである。若干の資本を持 ち又は特殊の技術を有する人から見れば,南洋群島は未だ魔女開拓を薦す可き有望な仕事は多い。
契約移民は南洋拓殖株式合社の農場及アンガウル錬業所同社傍系合社及南洋興蟹合社の砂糖耕地の人夫小作人,同社の採錬所,タピオカ澱粉製造所等の人夫が主で,何れ も最初合社 と一定の契約のもとに渡航 し合社の仕事に従事するのである。之等の契約移民は多 く合社の出張員が,募集県系の事務取扱所で取扱ってゐる。旅費 と仕度金は合社で前貸 しす るので簡単に渡航出来 る。
契約移民は勿論, 自由に渡航 して南洋で一旗あげや うと決心 して移住する人々も,絶海の異郷で常夏の風土に於いて仕事を焦すのであるか ら,所期の 目的を達す るには,心身共に強健で幾多の労苦に堪 ゆる覚悟がなければな らぬ。苛 も,一機千金を夢見るが如きことは絶封に禁物である。今 日何れの園,何れの植民地 と錐 も,専心其業務に,従事す るにあ らざれば成功は到底困難である。南洋群島も亦植民人 として其覚悟は勿論必要である。

(出典:大宜味朝徳 (1941)『南方年鑑』昭和16年版(179-180頁)、同上、136頁)


サブ・サブ・クエスチョン
日本人は「南洋」を、どのような地ととらえていたのだろうか?

 1933~39年に雑誌『少年倶楽部くらぶ』で、『冒険ダン吉』(島田啓三しまだけいぞう作)という漫画が掲載された。
 この中で、「島民」(「土人」)は、日本人の少年ダン吉と比較し、どのような人々として描かれているだろうか?

資料 『冒険ダン吉』

Q. 作品のなかでダン吉と島民の間には、どのような違いがあるものとして描かれているだろうか?



サブ・サブ・クエスチョン
日本人は「南洋」の住民を、どのように統治していたのだろうか?

資料 「トラック島だより」
三月二十五日お出しのお手紙を昨日受取りました。おとうさんはじめ皆様お元気で何よりです。叔父さんも相かはわらず丈夫で島々を廻つてゐるから,安心して下さい。
此のトラック島へ来てからもう三月になるので,土地の様子も一通りはわかりました。冬でも春でもこちらではちやうど内地の夏のやうです。暑さも年中此のくらゐのものださうで,かねて思つてゐたとは違ひ,なかなか住みよいところのやうです。それに此の辺一帯の島々は我が国の支配に属してゐるので,内地から移つて来た人も多く,少しもさびしくはありません。
内地から来て先づ目につくのは植物で,其の中でも殊に珍しいのはココ椰子の木やパンの木などです。椰子は,高いのは十四五間もあります。鳥の羽に似た大きな葉が,幹の上方に集まつていてをり,其の葉の根本には,大人の頭ぐらゐのすずなりになつてゐます。実の中にはかたい殻があつて,その内がはに白い肉のやうなものがあります。これから椰子油を取り,石鹸・蝋燭などを造るのださうです。まだ十分にじゆくしてゐない実は,中にきれいな水があります。これがなかなかうまいもので,私たちもよく取つて飲みます。又パンの木も所々に美しい林をつくつてゐます。其の実は土人の一番大事な食料で,焼いて食べたり,餅にして食べたりします。味はまことにあつさりしたものです。(中略)
土人はまだよく開けてゐませんが,性質はおとなしく,我々にもよくなつき,殊に近年我が国で学校をそこここに立てたので,子供等はなかなか上手に日本語を話します。此の間も十ぐらゐの少女が「君が代」をうたつてゐました。
いづれ又近い中に便りをしませう。おとうさんやおかあさんによろしく。

    四月十日    叔父から
   松太郎殿

(出典:『尋常小学校国語読本 巻9』、http://www2.nsknet.or.jp/~mshr/kyokasyo/tokuhon3/tokuhon09.htm)

資料 島民の教育

南洋群島教育会がまとめた『南洋群島教育史』[1938]には次のような記述がある。

(引用はじめ)邦人子弟の教育は,内地・外地の区別なく,忠良な日本国民として,働ける文化人を 養成することにあつて,教授の内容,教科書其の他一切内地小学校に準じて行はれて ゐる[南洋群島教育会編 1938:112]。 その一方で島民については以下のように書かれている。 島民教育に於ては,其の精神的方面では邦人子弟の教育と毫も変る事がないが,指導 の内容に就ては,邦人児童と軌を同じくする事は不可能である。それは謂ふ迄もなく, 未だ蒙昧の域を脱せず,全然国語を解する事の出来ない,島民の子弟であり,風俗・ 習慣其の他一切が,其の趣を異にしてゐるからである[南洋群島教育会編 1938: 112]。 (引用終わり)

ただし,このような見解がはじめから示されていたわけではない。軍政期に出された 『小学校教員心得に関する訓示』(1916)には,「今や皇国統治の下に在る南洋群島の島民 を教育し,之を同化するは洵に皇国の使命なり」[南洋群島教育会編 1938:153]とあり, 単純に「同化」が謳われていた。 しかし実際のところ,「同化」は困難というという見解がすぐに提出された。その主張 によると,1915年の『南洋群島小学校規則』は主に内地の小学校令に準じて編成されたも ので,「島民児童の教育上不合理であり,其の習性・心理状況と懸隔が甚しく,実施にも 困難な点が見出された」[南洋群島教育会編 1938:170]。

(中略)

語り 5 VK さん(1928年生/女性/コロール公学校補習科卒)
「最初,日本語を学ぶ時は厳しかったです。私たちが学ぶためにそうしてくれたと思う。 2 年生からはパラオ語は使えません。休み時間につい,パラオ語を使うでしょ?
サイパン玉やメンコに夢中になって。すると,看語当番と言って,赤いたすきをした5 年生が,パラオ語を話した人の名前を書いて,先生に渡すの。授業の前,先生が「パラオ語を話した人はこっちに来なさい」と言って,その授業は立ち通しだった。」

(出典:三田牧「まなざしの呪縛 : 日本統治時代パラオにおける「島民」
と「沖縄人」をめぐって」『コンタクト・ゾーン』4号、2011年、138-162頁、141,147頁、https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/177235/1/ctz_4_138.pdf)





■アジア諸国・諸地域の協調と対立

サブ・クエスチョン
アジア諸国・諸地域の中には、国際情勢の激変に対して、連携・協調する動きはなかったのだろうか?

 この時代、アジア諸国・諸地域の間に、連携・協調する動きはなかったのだろうか。ベトナムでフランスに対する民族主義運動を指導したファン・ボイ・チャウの動きに注目してみよう。

人物 ファン・ボイ・チャウ(1867〜1940)
ベトナム民族運動の指導者。漢字名、潘佩珠。1904年にベトナム維新会を結成し、1905年来日。独立運動の指導者となるベトナム青年を留学させるドンズー運動東遊運動)を起こす。1912年に中国でベトナム光復会を結成し、武力による独立革命を目指したが、1925年にフランス官憲に捕らえられた。「ベトナム亡国史」ほか。

(出典:デジタル大辞泉)
パブリックドメイン、https://ja.wikipedia.org/wiki/ファン・ボイ・チャウ#/media/ファイル:Mr._Phan_Boi_Chau.jpg


資料 ファン・ボイ・チャウによる、日露戦争に対する見方

「この時に当たって東風一陣、人をしてきわめて爽快の想いあらしめた一事件が起こりました。それは他でもない、旅順・遼東の砲声がたちまち海波を逐うて、私達の耳にも響いて来たことでありました。日露戦役は实に私達の頭脳に、一新世界を開かしめたものということが出来ます。今日の計としては日本新たに強く、彼もまたアジアの黄色人種である。今ロシアと戦ってこれに勝ったについては、あるいは全アジア振興の志もあろうし、かたがたわが国が欧州一国の勢力を削るは彼において利である。われらがここに赴いてこれに同情を求めれば、軍器を借り、もしくはこれを購うこと必ずしも困難ではあるまいと。」

(出典:南十字星訳「獄中書」、潘佩珠著;長岡新次郎・川本邦衛編『ヴェトナム亡国史他』平凡社、1966年、116-117頁)


資料 維新会(1904年にファン・ボイ・チャウが組織)のグエン・ハムの意見
「ただ日本のみ、黄色人種でありながら維新をなした国であって、ロシアと戦って勝ち、野心まさに漲っている。今そこに住んで、利害を持って動かせば、きっとわが国を助けんと望むであろう。日本の出兵を求めることは難しいが、武器を売ったり、資を借りることについては必ずや容易に力となってくれるであろう。」

(出典:ファン・ボイ・チャウの回顧録『年表』による。Chuong Thau (ed), “Phan Boi Chau nien bieu”, in, Phan Boi Chau Toan tap, tap 6, NXB Thuan Hoa va Trung tam Van hoa Ngon Ngu Dong Tay、Ha Noi、2001、p.129)

 ファン・ボイ・チャウははやくから宗主国のフランスからの独立運動に身を投じ、1904年には阮朝皇族のクォン・デを盟主に据え、維新会を設立した。しかし、反仏蜂起には相当な資金や武器が必要だ。
 そこでファン・ボイ・チャウは、戊戌の政変後日本に亡命していた梁啓超りょうけいちょう(1873〜1929)への接触を試みた。

人物 梁啓超(1873〜1929)
清末中華民国初期の思想家、政治家、ジャーナリスト。……広東省新会県の人。康有為に師事し変法運動に参加、1896年に上海で『時務報』を刊行、97年湖南省長沙に時務学堂を設立し変法維新を唱導した。98年戊戌変法で活躍したが、戊戌政変後日本に亡命、横浜で『清議報』を刊行、次いで『新民叢報』を刊行、また1907年東京で立憲派政治団体政聞社を組織し、君主立憲の実現を訴えた。著作に『飲冰室合集』などがある。

(出典:『角川世界史辞典』)
(パブリック・ドメイン、https://ja.wikipedia.org/wiki/梁啓超#/media/ファイル:Liang-Qichao.jpg


資料 梁啓超からファン・ボイ・チャウへの助言
「貴国に独立の日の来ないなぞと心配する必要はありません。問題は一つに貴国にそれだけの实力がありや否やにかかっていると私は思う。」(『年表』より)

「貴国の实力というのは民智、民気、人材である。両広の援助とは両広の兵と軍糧・武器の援助である。日本の声援とは、日本外交上の援助であり、アジアの強国にヴェトナムの独立をまっ先に承認してもらうことである。」(同上)

「それは禍を後に残す恐れが充分あるから止めておいた方がよくはないかと私は思う。万一日本がヴェトナムに兵を出してくれたと仮定してご覧なさい。駐屯の必要がなくなって撤退してもらいたいと申し出た時、先方がおいそれとすぐ軍隊を引きあげてくれるかどうか。その時になってみないと分からないではありませんか。結局、独立を図って亡国を誘い込むような羽目に陥らないと誰が保証しますか。」

(出典:ダオ・テュ・ヴァン
「植民地期ベトナムのドンズー運動と義塾運動-20世 紀初頭ベトナム・日本関係史の研究」(博論)2016年、https://kanazawa-u.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=35522&item_no=1&attribute_id=31&file_no=1 、https://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

 こうして、ファン・ボイ・チャウは、梁啓超を通して、犬養毅・大隈重信と面会することとなった。

資料 大隈重信の見解 (1905年5月中旬)
「現在政党としては貴公の計画を援助できる。しかし、日本政府が兵力をもって公然と君たちの運動を援助することについては、今はその時ではない。国際情勢は日本とフランスだけの問題ではなく、欧洲・アジアが勝利を競う問題なのである。もし日本が貴国を援助しようとすれば、必ずフランスと開戦することになり、仏日両国が開戦すれば、その戦争は 2 国の間だけではない、全世界の動乱にも発展しかねない。今日の日本の国力を以て全欧洲と争うにはなお力不足である。君達は耐え忍んで機会の至るを待たれよ。」

(出典:上掲論文)

「君が貴国の党員を連れて日本へ来れば、我が国はこれをことごとく収容することができる。或いは君達が我が国に居住したいというのであれば、私はしばらく君達のために住居を援助し、外国からの賓実の礼で優待し、生計についても心配させはしない。義侠心を尊び、愛国心を重視するというのが日本人の特性である。」

(出典:上掲論文より重引。内海三八郎著、千島英一・櫻五良樹編『ヴェトナム独立運動家 潘佩珠伝―日本・中国を駆け抜けた革命家の生涯』芙蓉書房、1999、62頁)

 これを受け、ファン・ボイ・チャウは、日本への留学生派遣運動である東遊(ドンズー)運動を開始する。

資料 東遊運動
ファン・ボイ・チャウ
『勧国民資助遊学文(Khuyen quoc dan tu tro du hoc van)』(1905年9月)
「日本が維新の事業を成し遂げるを得たのは、民智を啓き、人材を培養するために、人を外国遊学に派遣することの必要性を、良く知っていたからである。ただしその日本にしても、初めはただ 1 人の吉田松陰しかいなかった。しかしその後、幾千幾万の吉田松陰が次々に現れた。ひるがえって我がベトナムを顧みるに、我が民の困難の原因には、2 つの病根がある。愚昧と惰弱がそれである。」(出典:上掲論文より重引。『年表』)

「明治四十年から明治四十一年にかけては東京に於ける安南留学生の数はかれこれ一百名に達し、その大部分は目白の東京同文書院に入学したのであったが、当時同書院には中国留学生が多く、一見して中国留学生と安南留学生との区別が付かなかった。」
(出典:上掲論文より重引。黒龍会『東亜先覚志士紀伝』(中巻)、原書房出版社、1966年、819-820頁(黒龍会出版部、1933 年)。

「安南人潘是漢なる者が、明治四十年(筆者注:1907 年)広東人の紹介を通じて、学生留学につきその収容・監督方を依頼してきた。安南読書人は元来漢文に習熱し、かつ彼らの勉学を希望する主旨の平穏なるを以って、まず四人の学生を東京同文書院に収容し、清国留学生と同様、書院内の寄宿舎に起居せしめ、日本語及び中等普通学の教育を受けることとした。四人の学生は皆、資性温順、行動平静にして、専心学業に従事した結果、明治41年〔1908 年〕二月至って成績良好、概して清国学生の上位にあった。安南よりの留学生が漸次増大した。その言動は真摯にして穏和、妄りに政治などに関心を有したり憤概したりする様子はいささかもないことに鑑み、彼らを順次同文書院に転托。同年亓月に至ってその数六十余名に達した。そのうち九名の尐年者は、これを小石川礫川小学校に通学させた。」(出典:上掲論文より重引。柏原文太郎「安南学生教育顛末」1909 年 1 月 25 日付(日本外交史料館藏「安南王族本邦亡命関係」(請求番号:A6,7,0.1-1-1-1)所収)

 しかし、フランス政府の圧力と日仏協約締結により、日本政府はベトナム人留学生を帰国させることとなった。その際、ベトナム のファン=ボイ=チャウが日本の政治家小村寿太郎にあてた手紙を見てみよう。

史料 ファン・ボイ・チャウの小村寿太郎への書簡
「私がひそかに思うのは、もしもアジアの黄色人種が ことごとく[注:みな]クオン=デ(注)のような心情を持てば、数十年後には、必ずや欧米を併呑してわが黄色人種の繁殖地となすことができであろう。それに比べれば、征露の一役(日露戦争のこと)などは、歴史上どれほどの価値があるというのか。[中略] 雄覇[注:覇権を持つ強国]、文明を自称する大日本帝国が、罪なく功ある黄色人種の一皇族をあえて受け入れず、白人種の気炎をはてしなく助長している。悲しいことである。他方、我らすべての東洋人には権利がない。由々しいことである。いまから一世紀たらずのうちに、我が東洋黄色人種はことごとく、白人種の鼻息の下にひれ伏し、閉息すること疑いない。これこそ、全東洋黄色人種のために悲しむべきゆえんである。」 
(注)ベトナム人の皇族で留学生だった人物。日本政府によって国外追放されてしまった。


 しかし、中国で共和国が建国されると、ベトナムでも共和国を建設しようとする動きがみられるようになった。


資料:浅羽佐喜太郎 碑(常林寺)


 日本人のなかには、日本を中心にアジアをヨーロッパから解放しようとするアジア主義の思想も、政治家、知識人や宗教家の間で説かれるようになっていった。
 このように19世紀末〜20世紀初めのアジア諸国・諸地域の間には、日本や、国外の中国人などを軸として、横に連携する動きが見られたのである。

資料 フィリピン独立運動と日本との関わり



■日本からの海外移民


 明治期以降、日本からの海外への移民も急増した。
 たとえばハワイ(アメリカ合衆国)、北米、中南米、東南アジア、朝鮮、台湾への移民である。

資料 海外各地在留本邦人職業別表(1919年6月)

(出典:外務省通商局『海外各地在留本邦人職業別表』。歴史学研究会『日本史史料[4]近代』岩波書店、1997年、411頁)Q1. 海外で働く本邦内地人の職業でもっとも多いのは? A1. 北アメリカ。 Q2.海外在留本邦人のもっとも多い地域は? A2.満洲。


 移民は、国内の不況や凶作によって生活苦となった人々が活路を見出す手段でもあった。
 なお、沖縄では、戦後恐慌によって黒糖の価格が世界的に暴落したことから、ハワイ、南米、東南アジア、南洋諸島(旧ドイツ領)への移民が増加した。

史料 ハワイ日系人の歌「ホレホレ節」

1、ハワイ ハワイとヨー 夢見てきたが   流す涙は キビの中
2、行こかメリケンヨー 帰ろか日本   ここが思案の ハワイ国
3、横浜出るときゃヨー 涙ででたが   今じゃ子もある 孫もある
4、今日のホレホレヨー 辛くはないよ   昨日届いた 里便り




 しかし、アメリカ合衆国については1924年の移民法によって、事実上移民は全面的に禁止されることになった。1924年の移民法は日本人のみを排除する法律ではなかったが、「排日移民法」として対米感情を悪化させる要因となった。




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