■アジアの経済発展
インドに、タタ・グループという財閥がある。インド独立後に製鉄や電気事業にも進出し、現在は自動車やIT産業にも携わっているこの企業は、1868年にボンベイでゾロアスター教徒によって設立され、当初は原綿を積出す事業をおこなっていた。しかし1870年代になると綿紡績工場を経営するようになり、原綿のみならず綿糸を中国をはじめとするアジア各地に輸出して利益をあげるようになる。
同時代の中国や日本は、この動きに触発された。
明治維新後の日本は、イギリスから蒸気機関を動力とする機械を輸入して紡績業を発達させ、中国への綿糸輸出でインドと競合した。
アヘン戦争後の一連の条約で上海、天津、南京、漢口、廈門、広州が開港されていた中国には、インド・日本から綿製品などの物産が流入。沿海部の開港都市を中心に、茶、生糸などの一次産品の輸出にかんする物流が組織化され、その周辺地域では綿糸、マッチ、紙巻きタバコ、石鹸など簡単な加工品の輸入代替化の動きも進んでいった。1895年の日清戦争以後は、開港都市周辺が列強諸国によって租借され、鉄道・工場・鉱山などの利権への投資も拡大した。しかし、イギリスを筆頭とする外国企業・銀行が対外経済関係を牛耳っていたわけではない。在華外国企業・銀行が開港場外の中国国内でビジネスをするには、買辦商人や地方官僚、紳士・郷紳などの地域エリート、同業団体であり釐金を徴収していた行会の協力が不可欠であった(参考:岡本隆司編『中国経済史』名古屋大学出版会、2013年、239頁。釐金については岡本隆司、ibid.、226頁のテーマ39、買辦については本野英一、ibid.、227頁のテーマ40を参照のこと)。
日清戦争後(1895〜1897年)の日本は、第2次企業勃興期(第1次は1885〜89年)にあたり、紡績・鉄道・銀行企業が多数設立された。
しかし、蒸気船による航路は、当時はイギリスの船会社が独占し、輸送量がコストを圧迫していた。
そこで日本の渋沢栄一は、インドのタタ財閥とかけあって、共同でボンベイ〜神戸路線を就航させることに成功した。そして価格競争の末に、イギリスの船会社に対して優位に立つことに成功したのである。
このように、綿紡績業の分野でたがいに競い合い、分業し合うことで、アジア諸国・諸植民地は工業化を進めていったわけである。
1900〜1901年の経済恐慌では企業合併が進行し、1907年にも経済恐慌が起きた。三井合名会社の設立(1909年)をはじめ、三菱や住友などの財閥が形成されていく。
また、農村では、地主が農業経営だけでなく他の事業にも手を伸ばし、地方で資本を形成し、政治的には地方議員や国会議員に進出していった(寄生地主制)。
20世紀初頭になると、欧米諸国の企業と同様に、日本企業は海外投資を本格化させていった。これを加速させたのは、第一次世界大戦であった。ヨーロッパからの輸入が途絶え、民族資本が成長したのである。
中国のうち、租界とその周辺は、綿業(綿紡織業)分野における近代的産業の中心となった。
すでに19世紀末より、インド産の機械製綿糸が新土布(機械製綿糸を用いた在来織布)の原料として、農村で急激に市場を拡大していた。それが第一次世界大戦をきっかけに、イギリスからの輸入のストップ、綿花価格の下落、綿糸価格上昇によって、太糸で競合していたインド綿糸を駆逐した。1919〜1921年は「黄金時代」ともいわれる。しかし、1922〜1924年に原綿価格が高騰し、生産過剰で中国の綿紡績業は不振におちいった。そこに食い込んでいったのが、日本の紡績業の直接投資による中国進出である。中国で日本企業の経営した紡績業を在華紡)と呼ぶ。中国の綿業は、欧米資本の比率を日本資本の比率がしのぐようになり、機械制綿布の生産量も急増していったが、それに対抗して中国資本の紡績工場も発展していくこととなった。中国の綿糸自給率の向上には、在華の進出が貢献していたのである(参考:岡本隆司編『中国経済史』名古屋大学出版会、2013年、243-245頁)。
一方、イギリスの植民地であったインドでも、イギリスが戦後の自治を約束し、工業化をうながす政策に転換に転換されたことが、民族資本の成長に寄与している。
なお、第一次世界大戦中には、日本で重化学工業化がすすめられ、都市経済の発展や大衆社会の出現をうながすことにもなった。
ただし、アジアの経済的な発展は、そのうちに他民族を差別する構造をはらむものでもあった。
たとえば戦後にヨーロッパ諸国はアジアへの輸出を再開。これを受け、日本は戦後恐慌となった。まもなく1923年には関東大震災が発生し、ここで日本国内の朝鮮や中国の人々が流言飛語の犠牲となっている。上海では在華紡 での労働争議がきっかけとなって1925年に五・三〇事件(中国人のデモ隊に対して、租界のイギリス警官隊が発砲したことで始まった。)が起き、日本はイギリスなどと同じく「帝国主義」として民族運動にとっての敵とみなされた。事件後、イギリスは漢口の租界を中国に返還している。
■開発と保全
開発の進展と利権をめぐる対立
インドでは1853年にアジア初の鉄道が、港市のボンベイ(現ボンベイ)から内陸の綿花生産地帯に向けて開通した。その後も敷設キロ数は伸び続け、20世紀初頭には、世界第4位の鉄道大国となった。
一方日本では1872年に鉄道が開業し、インドと同様、イギリスから工業技術や機械、原料、さらに鉄道経営の仕組みを取り入れていった。
資料 インドの鉄道網(1909年時点)
資料 アフリカ大陸の鉄道網
明治政府は、土地の買収や建設費の都合から、狭軌(軌間1067mm)で鉄道建設を進めていった。
しかし、大正時代以降、憲政会は広軌(1435mm)で鉄道を建設し、輸送力や速度をあげるべきだと主張した。朝鮮や中国の鉄道は広軌(1435mm)だった。
憲政会の主張を「改主建従」策というのにたいし、狭軌(1067mm)のまま全国の路線延長を優先すべきだとする立憲政友会の「建主改従」策が対立し、二大政党間の争点となっていた。
資料 鉄道の国有化(1906年)
Q. この風刺画は、鉄道国有化(1906年)によりどのような状況がもたらされることを懸念しているのだろうか?
公害の発生とその対応
1880年ごろから銅の需要の高まった日本では、産出量が増えていった。
そんななか、栃木県渡瀬川流域で、銅山の鉱毒の被害が出た。
これに対し、田中正造が足尾銅山の創業停止を求める運動を起こしたが、働き先であった住民は一枚岩ではなく、政府も創業停止に踏み切ることはなかった。1907年には谷中村が廃村とされて遊水池とされた。
なお、このような「開発」によって生じた環境問題は、日本に限らず、工業化を経験した国々で見られた。
たとえばイギリスの首都ロンドンでは、すでに17世紀頃から石炭の燃焼による大気汚染も進行し、産業革命以降生活環境はさらに悪化した。
そこで19世紀末には、エベネーザー・ハワードが田園都市構想を発表し、20世紀初頭にロンドン郊外のレッチワースで実現させた。
田園都市構想の影響を受け、おなじく都市問題がおきていた日本でも、首都圏(田園都市)・関西圏の郊外で、田園都市の建設が実行された(→2-2-5.を参照)。しかし、ハワードの提唱した田園都市は、主流とはならなかった。
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■国境をこえる移動の増加
日本と中国
20世紀の前半は、以前として帝国による植民地が世界各地を覆う時代であった。
宗主国と植民地の間には、政治家や知識人、学生が、帝国の交通網を利用して訪問したり留学したりした。
これにより宗主国の知識や制度は植民地に伝わるとともに、植民地どうしの知識や制度もさかんに交換された。
日本はアジアの国家でありながら、帝国主義勢力として国際連盟の常任理事国にまでのぼりつめたことから、アジアやアフリカ諸国にとって強い関心の対象となった。
たとえば中国は、欧米諸国や日本に留学生を多く送り出したが、欧米の著作の多くはすでに日本語に翻訳されており、それを介して欧米思想を間接的に摂取することも少なくなかった。
中国から周辺地域に広まった漢字は、欧米思想と接触した近代日本において新たな概念(単語)を生み出した。そして、それが日本の近代化モデルを摂取しようとした留学生を通じて中国に逆輸入され、さらにあらたな中国語が創出され…といったように、絶えず日中間の交流を誘発し続けている。漢字を通して、言語をこえた循環が存在しているのである。
「南洋」
第一次世界大戦開始後、日本は、赤道以北の南洋諸島を委任統治領として支配した。ここは現在のミクロネシアを中心とする海域であり、もともとはドイツの植民地であった。
政府は1922年にパラオに南洋庁を設置して、多くの日本人を移住させた。
同年にサイパン~沖縄間を直行船が就航している。
その後、南洋諸島は南方進出と資源確保のかなめとして、1944年にアメリカ軍の占領するまでは日本海軍の拠点となった。
南洋諸島にはチャモロ人などの人々が住んでおり「島民」と呼ばれた。
国籍は与えられず、南洋庁により、約8割の土地が日本人や日本企業の所有となった。
1933~39年に雑誌『少年倶楽部』で、『冒険ダン吉』(島田啓三作)という漫画が掲載された。
この中で、「島民」(「土人」)は、日本人の少年ダン吉と比較し、どのような人々として描かれているだろうか?
資料 『冒険ダン吉』
Q. 作品のなかでダン吉と島民の間には、どのような違いがあるものとして描かれているだろうか?
■アジア諸国・諸地域の協調と対立
この時代、アジア諸国・諸地域の間に、連携・協調する動きはなかったのだろうか。ベトナムでフランスに対する民族主義運動を指導したファン・ボイ・チャウの動きに注目してみよう。
ファン・ボイ・チャウははやくから宗主国のフランスからの独立運動に身を投じ、1904年には阮朝皇族のクォン・デを盟主に据え、維新会を設立した。しかし、反仏蜂起には相当な資金や武器が必要だ。
そこでファン・ボイ・チャウは、戊戌の政変後日本に亡命していた梁啓超(1873〜1929)への接触を試みた。
こうして、ファン・ボイ・チャウは、梁啓超を通して、犬養毅・大隈重信と面会することとなった。
これを受け、ファン・ボイ・チャウは、日本への留学生派遣運動である東遊(ドンズー)運動を開始する。
しかし、フランス政府の圧力と日仏協約締結により、日本政府はベトナム人留学生を帰国させることとなった。その際、ベトナム のファン=ボイ=チャウが日本の政治家小村寿太郎にあてた手紙を見てみよう。
しかし、中国で共和国が建国されると、ベトナムでも共和国を建設しようとする動きがみられるようになった。
資料:浅羽佐喜太郎 碑(常林寺)
日本人のなかには、日本を中心にアジアをヨーロッパから解放しようとするアジア主義の思想も、政治家、知識人や宗教家の間で説かれるようになっていった。
このように19世紀末〜20世紀初めのアジア諸国・諸地域の間には、日本や、国外の中国人などを軸として、横に連携する動きが見られたのである。
資料 フィリピン独立運動と日本との関わり
■日本からの海外移民
明治期以降、日本からの海外への移民も急増した。
たとえばハワイ(アメリカ合衆国)、北米、中南米、東南アジア、朝鮮、台湾への移民である。
資料 海外各地在留本邦人職業別表(1919年6月)
移民は、国内の不況や凶作によって生活苦となった人々が活路を見出す手段でもあった。
なお、沖縄では、戦後恐慌によって黒糖の価格が世界的に暴落したことから、ハワイ、南米、東南アジア、南洋諸島(旧ドイツ領)への移民が増加した。
史料 ハワイ日系人の歌「ホレホレ節」
しかし、アメリカ合衆国については1924年の移民法によって、事実上移民は全面的に禁止されることになった。1924年の移民法は日本人のみを排除する法律ではなかったが、「排日移民法」として対米感情を悪化させる要因となった。