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新科目「歴史総合」をよむ 1-3-8. 帝国主義諸国の競合と国際関係

メイン・クエスチョン
帝国主義政策は、20世紀初めにかけてどのように変化していったのだろうか?

■帝国主義国家どうしの関係の悪化

サブ・クエスチョン
帝国主義国家どうしの関係は、なぜ、どのように悪化していったのだろうか?

 世界分割をすすめた帝国主義諸国は、同盟関係と対立関係を情勢に応じて組み替えていった。
 ドイツはビスマルク首相の辞任後に、皇帝ヴィルヘルム2世が積極的な海外進出に転じ、イギリスに対抗して海軍を増強し、北アフリカから西アフリカにかけて積極的に進出していった。
 このようなドイツの政策転換とともに、ボーア戦争(南アフリカ戦争)(1899〜1901)の長期化が財政に大きな負担を与え、イギリスはどの国とも同盟関係を結ばない「光栄ある孤立」政策を転換することになった。


■義和団事件と日露戦争

サブ・クエスチョン
帝国主義諸国の進出は、東アジアにどのような影響を与えたのだろうか?

 1898年以降、列強はつぎつぎに膠州湾(ドイツ)、旅順・大連(ロシア)、九竜新界(イギリス)、威海衛(イギリス)、広州湾(フランス)を租借していった。
 こうした事態に対し、1899年に排外主義を掲げる義和団事件が蜂起した。
 1900年6月、義和団が北京に迫ると、列強8か国が北京在住の外国人を救援するために共同出兵した。これに対し、西太后を中心とする朝廷は列強に抗戦することを決定し、清は宣戦を布告した。これを義和団戦争という。

資料 天津にはられた義和団のビラ
「1900年5月
 神が拳(けん)を助け、義が団に和するのは、鬼子が中原(ちゅうげん)をさわがすからである。キリスト教を宣伝するのは、天を冒涜(ぼうとく)することだ。人々に神仏を敬わさせず、祖先を忘れさせる。男には倫なく、女には節を少なくさせる。
 鬼子は人の生んだものではない。もし信じないならば、子細に見るがよい。鬼子の目ん玉はみな青みがかっているではないか。雨が降らず、地が乾(かわ)くのは、教会の塔が天に聳(そび)えているからだ。それで神は怒り、仙はいらいらする。彼らは山を下り、道を伝えようとする。
 これはデマでもなければ、また、白蓮教(びゃくれんきょう)でもない。口頭のまじない文句で真言をおぼえ、黄表を祭壇で焼き、香煙を焚(た)いて、これら多くの神仙の下降を請い願う。
 神は洞を出、仙は山を下り、人間を扶助して拳をふるわせる。兵法はやさしく、学拳は助けられるので、鬼子を追い払うのは難(むずか)しくはない。鉄道を毀(こわ)し、電線を切断し、ついでまた、大きな汽船を破壊する。フランスはキモを冷やし、イギリス、ロシアは勢い蕭然(しょうぜん)となろう。すべての国の鬼子をみな殺しにして、大清(しん)一統の昇平を慶賀しよう。
佐原篤介『義和紀聞』から訳出)出典:日本大百科全書(ニッポニカ)コトバンク

Q1. 義和団の目的は何だったのだろうか?
Q2. 人々はなぜ義和団に身を投じたのだろうか?


資料 光緒帝の命令(1900年6月21日)
 ……はじめは、彼らもこちらの言うことを聞いていたものの、この三十年来、我が国の仁が厚く、やさしくなだめようとするのをいいことに、かれらは横暴な振る舞いをほしいままにし、わが王朝を侮辱し、わが土地を侵略し、わが人民を蹂躙し、わが財物を奪い去った。……わが国の人民は恨みがたまり、だれもがそれを晴らしたいと願った。これが義勇の者が教会を焼きキリスト教徒を殺した理由である。(中略)なんじら、天下の臣下・庶民よ、それぞれの忠義の心をもち、一緒になって神と人の恨みを晴らせ。それこそが朕の心から望むことである。
(吉澤誠一郎訳『世界史史料9』岩波書店、95頁)

Q. 光緒帝は、「彼ら(欧米諸国とキリスト教徒)」や義和団に対して、どのような立場を表明しているだろうか?

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 8か国連合軍(義和団の乱時の軍事大国とその軍艦旗。左から右へ、 イタリア、 アメリカ合衆国、 フランス、 オーストリア=ハンガリー帝国海軍、 大日本帝国海軍、 ドイツ帝国海軍、 イギリス海軍、ロシア帝国海軍(1900年、日本))
https://ja.wikipedia.org/wiki/八カ国連合軍#/media/ファイル:BoxerTroops.jpg


資料 北京議定書の主な内容
・総額4万5000両の賠償金の支払い(39年賦、年利4分。1940年完済)
・北京の各国公使館所在区域の治外法権、軍隊駐留権の承認。
・海岸から北京までの各地点に兵を置く権利の承認。 


 列強諸国が各地を租借した事態に対し、梁啓超りょうけいちょうは次のような文章を記した。


資料 梁啓超「瓜分について警告する」(1899年)
 西洋人が中国を瓜分〔瓜を切るように分割〕することを議論しはじめてから、もう数十年になる。中国の有識者が瓜分のことを知って心配を始めてから、もう10年になる。この一、二の識者はどんな様子かと言えば、汗をかき息を切らして天下を走り回り、慌ただしく呼びかけて泣き叫び人々に知らせようとするが、人々は愚かにもいびきをかいて眠っており、ゆったり構えて耳を貸そうとせず、仮に聞いても一笑に付して、少しも意に介さない。
(出典:梁啓超『清議報せいぎほう』第15冊、1899年、袁自客(梁啓超)「瓜分危言」)

 「瓜分かぶん」に対する危機感は、次のような絵としても視覚化されていった。


資料 時局図 (1900年頃にオーストラリア生まれの中国人の描いたもの)

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Q. この作者は、絵のなかで、当時の中国がどのような状況であることを主張しようとしたのだろうか?


(謝纘泰作、https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ファイル:时局图.jpg
 パブリック・ドメイン)

※作者の謝纘泰(シドニー・ラウ、1872~1938)は、オーストラリアで生まれた中国人の革命家。1887年に香港に移住し、香港政府で勤務。反清活動を孫文らと開始し、蜂起を計画するも失敗。『極東情勢』(時局全圖、時局圖)を出版して、中国を分割しようとする西欧列強の野望があることを、愛国者たちに警告を発した。

 こうした事態に対して、中国国外に住んでいる華僑たちも、ひとつの「中国」を守るため、列強に立ち向かい、あるいは清朝政府を改革もしくは打倒しようとする運動も起きるようになった。次の資料は、戊戌政変で中国を追われ、亡命先の日本政府からも退去させられ、カナダに至った康有為が、現地の華僑に対しておこなった講演の一部である。


資料 康有為「ヴィクトリア,ヴァンクーヴァー二港紀」(1899年)
「ああ。外国では、しばしば「中国人は国を愛していない」という。そんなことがあるだろうか。…やっと〔カナダの〕ヴィクトリアに着くと、我が国の人を一人見かけた。……そこで、中華会館を開放して、人々と会った。千人を大きく越える人が集まった。…….先を争うようにして、〔人々は〕皇帝陛下〔光緒帝〕の安否と政変の故を淘汰。そこで、皇帝陛下が民を愛する有難い思し召しを説明した。……中国の自強を願うかどうか問い、願う者は拍手してくださいというと、みな拍手した。(後略)」
(吉澤誠一郎訳『世界史史料9』岩波書店、153頁)



 義和団事件の際、列強中で最多の兵士を派遣したのが大日本帝国だ。
 ボーア戦争(南アフリカ戦争)に苦しんだイギリス政府は、極東へのロシアの南下を、日本の軍事力によって阻止しようとする。その結果結ばれたのが1902年の日英同盟だ。


日露戦争

サブ・クエスチョン
日本はなぜロシアと戦うこととなったのだろうか?

 日本とロシアは1904年に戦争に突入した。これを日露戦争(1904〜1905)と呼ぶ。


資料 日露戦争開戦前夜の風刺画(The Tacoma Times、1904年1月15日)

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 日本は勝利をおさめたものの多大な犠牲をはらい、1905年にはアメリカ合衆国の仲介によって講和条約が結ばれた。

資料 1905年2月にニュージーランドで描かれた日露戦争の風刺画(The Fisherman and the Genie’. Cartoon from New Zealand Graphic, 28 January 1905. Auckland Libraries Heritage Collections, NZG-19050128-1-1.)

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ロシア皇帝(CZAR)が、革命(REVOLUTION)の魔神と対峙している。

資料 1904年4月にニュージーランドで描かれた、日露戦争をめぐる思惑に関する風刺画(‘John Bull plays a trump’. Cartoon from New Zealand Graphic, 01 April 1905. Auckland Libraries Heritage Collections, NZG-19050401-25-1.

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日本の勝利の背後には、極東をめぐる列強のパワー・ポリティクスもあった。アメリカとフランスは中国に商業的な利益を持っていたが、中国と極東における商業的な支配の主要なライバルはドイツとイギリスだった。ドイツは、日露戦争の費用を賄うためにロシアにも融資していた。イギリスは日英同盟を結んでおり、イギリス政府は日本の戦費を支払うために資金を貸し付けていた。この漫画では、日本が奉天で勝利したことで、ジョン・ブル(アメリカ)が巧みに切り札を出し、ドイツの戦略的利益を再び阻害することができたのだ。

http://heritageetal.blogspot.com/2019/05/propaganda-and-political-cartoons-from.html


シロクマと相撲をとるミカド(フランスの絵葉書)
後ろでイギリス、アメリカ、ドイツなどが見物をしている。




 日本は南樺太、関東州の租借地、東清鉄道の南部をロシアから獲得し、大韓帝国における優越をロシアに認めさせた。
 東清鉄道の南部(中東鉄道)を、日本は南満州鉄道と名づけ「満鉄」と呼ばれた。沿線地域(付属地)も管理下に置かれ、大豆をはじめとする満洲の農産物を世界市場に結びつける役割を果たした。
 
 しかし戦後の日本とロシアは関係を修復させ、満洲の勢力範囲を日露協約でとりきめた。
 イギリスとロシア間でも1907年に英露協商が成立し、ユーラシア大陸各地で「グレート・ゲーム」と呼ばれる対立を繰り広げていたイギリスとロシアの対立に、こうしてピリオドを打たれた。
 このように、ヨーロッパ列強の協商・同盟網は、日露戦争をきっかけとして日本をプレイヤーに加え、イギリス・フランス・ロシア・日本の陣営が構築されていった。



■黄禍論と人種主義

サブ・クエスチョン
当時の世界の人々の対立を助長していたのは、どのような考え方だったのだろうか?

 そんな中、中国と日本の提携によって、帝国主義諸国に対抗しようとする思想も生まれていた。このうち、中国の章炳麟しょうへいりんによる主張は独特だ。

資料 章炳麟しょうへいりん「アジアは相互に協力しなくてはならないことを論じる」(1897年)
「しかし、中国の地にとって近くで脇を固めてくれ、相互に頼れるのは、全アジアで日本しかない。さきに中国と日本は〔日清戦争で〕仲違いをしたが、〔中国は〕軍の指揮に規律無く戦争に負けて土地を割譲した。もろもろの小役人どもは、みな怒った顔で厳しい言葉をはき、雪辱を願った。不毛の国〔ロシア〕が北辺を侵食しているというのに、そのロシアの欲にまかせた噛みつきかたを忘れて密かに盟約を結び〔1896年の露清密約を指す〕、同類〔の日本〕に背いて異民族〔ロシア〕のほうを向くのは、おかしいことではないか〔筆者注:当時、李鴻章はロシアと協調政策を結ぼうとしていた〕。…….もし中国が覇気をもって発憤して自強をはかり、名目と実際をきちんとさせ、兵を強く民をまじめに官吏を清廉強力にするならば、日本は中国と本当に仲良くできるので、どうして中国を攻撃することなどあろうか。……」(中略)〔章炳麟の考えでは中国は〕発憤してこそ強くなれる。そうしてこそ隣国の武装を頼りにもできるのだ。(後略)
(出典:『時務報』第18冊、1897年、章炳麟「論亜洲宜自為唇歯」、3-4葉。吉澤誠一郎訳『世界史史料9』岩波書店、141-142頁)

 章炳麟の発想の根底にあったのは、当時の世界が「白人」と「黄人」(黄色人種)の対立に包まれているという前提だ。

 当時の欧米諸国では、ダーウィンの『進化論』の説く「自然選択」を、人類の文明や社会における「適者生存」として適用できるとの誤読が広まり、それが世界各地にも広まっていった。

資料 社会ダーウィニズム
「ヨーロッパの進歩的諸民族と非進歩的諸民族との間にすでに見られる差異は、ヨーロッパの進歩的諸民族と非ヨーロッパ諸民族とを比較した場合にいっそう顕著である。」
(出典:ベンジャミン・キッド『社会進化論』(1894年刊))


 そのような言説にも影響され、19世紀末にかけて、中国人契約労働者のクーリーの流入したアメリカやオーストラリアにおいて、アジア人に対する人種的警戒が強まった。ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が主唱したのは、黄色人種に分類された日本や清国が、白色人種にとって脅威であるとする「黄禍論」だ。

資料 ヴィルヘルム2世の構想する黄禍論(1895年)
ヴィルヘルム2世は、日本が日清戦争に勝利した1895年に、「ヨーロッパ人よ、汝の神聖な財産を守れ!」と題する絵の下絵を描き、それを宮廷画家に完成させ、各国の支配者に送った。

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「「黄禍」(独: gelbe Gefahr)を世界に知らしめた寓意画"ヨーロッパの諸国民よ、諸君らの最も神聖な宝を守れ(ドイツ語版)"。ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の図案をもとに、歴史画家ヘルマン・クナックフース(ドイツ語版、英語版)が描いたこの絵は、当時のヨーロッパの日本や中国(清朝)に対する警戒心を端的に表したイラストである。右手の田園で燃え盛る炎の中に仏陀がおり、左手の十字架が頭上に輝く高台には、ブリタニア(イギリス)、ゲルマニア(ドイツ)、マリアンヌ(フランス)などヨーロッパ諸国を擬人化した女神たちの前でキリスト教の大天使ミカエルが戦いを呼び掛けている。」(パブリック・ドメイン、https://ja.wikipedia.org/wiki/黄禍論#/media/ファイル:Voelker_Europas.jpg)


資料 ヴィルヘルム2世のセオドア・ローズヴェルト宛の書簡(1905年9月4日)
「私が予見するに、将来において「白人」と「黄色人」との間には、まさにその生存を懸けた生死の闘いが起こるであろう。それ故、「白人種」に属する諸国民ができるだけ早くそのことを理解し、来るべき危険に対して共同の防衛処置おをとることが望ましいのである。この危険はやがて、白人種の間の共同援助と理解にとって、ハーグ条約や平和・仲裁会議などよりもはるかにましな相互の絆となることであろう。」

Q. ヴィルヘルム2世は、「黄色人」に対して、どのような認識を持っているのだろうか?

資料 森鴎外「黄禍論梗概」(1905年)


資料 『東京パック』(明治41年11月20日)

「舌長の外科手術」4巻33号 明治41年11月20日

「日露戦争後、台頭する日本に対し黄禍論を唱え、海軍増強を行ったドイツ皇帝ウィルヘルム二世(カイゼル)が各国から非難を受け、舌を切られる姿を描いた作品。ドイツ大使館からの抗議により日本政府は楽天に控えめにするよう求められたが、楽天はこれを断った。」

北沢楽天主筆 日本初のカラー漫画雑誌「東京パック」、さいたま市ウェブサイト、https://www.city.saitama.jp/004/005/002/003/001/002/p006184.html

資料 加藤弘之『強者の権利の競争』
「吾人人類モ亦萬種ノ生物ト其源ヲ同クスルモノニシテ本来特種ノモノニ非サルカ故二萬種ノ生物ト倶二同一ノ天則二支配セラル・コトナレハ其心身ノ優劣強弱ノ異同ニョリ常二強者ノ権利ノ競争起リテ強者力遂二弱者二打勝ツヲ得ルノ天則ハ豪モ生物界ト異ナル所アラサルナリ。」(出典:黄家華「日本と中国における西欧進化論の受容 : 加藤弘之の権力国家思想と厳復の「郡道」の理念を中心として」『年報人間科学』20-1,1999年、195-210頁)


資料 加藤弘之『人権新説』
「およそ動植物世界において、前条論ずるところの諸原因よりかならず生存競争起こるゆえん理は、読者すでにその趣旨を了したるべしと信ず。しからばすなわちこの競争は、ついにいかなる結果を生ずべきや。けだし一言もってこれを尽くすべし。曰く、その競争の一対手なる優者が捷を占めて、他の一対手なる劣者を圧倒するにあるのみ。しかしてここに優者というのは、あるいは体質の強健なる者、あるいは生力の旺盛なるもの〔以上動植物ともにいう〕、あるいは心性の豪壮なる者〔以上動物についていう〕、等その他種々あるべしといえども、要するに他に対して優等なる者はみなこれを包括す。また劣者といえる中にも、体質の羸弱(るいじゃく)、生力の衰耗、神聖の怯惰、あるいは魯鈍等、要するに他に対して劣等にある者はみなこれを包括するなり。」
「…またアメリカの土人の中には、身体羸弱にして事に堪えざる者を、公衆の有害物として曠原に餓死せしめ、あるいは父母老衰しもしくは疾病に罹りて作業につくあたわざるときは、これを社会の無用物として生存のまま埋葬するの風あり。その他、野蛮諸人種が今日なおいまだ道徳倫理の何物たるを知らず、悪行罪犯の何物たるを悟らざるはけっして珍しきことにあらず。…これによりてこれをみれば、今日の文明人民といえども太初にありてはかくのごとき蛮俗をまぬかれざりしものおそらくは少なからざりしならん。しかのみならず敵人を征服するときはこれを奴隷とするは、ヨーロッパ、アフリカ、アメリカ等においては古来一般に行なわれたる風習なり。スペンセル氏〔スペンサー〕の説に、敵人の肉を食うの風俗ようやく進歩して、これを奴隷となすの風俗となりしならんという。…」(上掲、424-425頁)

(出典:『日本の名著 (34) 西周・加藤弘之』418頁)


 

 資料 清朝末期の中国人の見方 (厳復「原強」『直報』、天津、1895年)
物競というのは、物の種がその自存を争うことであり、天択というのは、(天道が)その適宜の物種を保存することである。言うのは、民と物が共にこの世で雑然と生存し、共に天地自然の利を食らうのである。然れとも接触・関係づけの期間に、民や物の何れにしろ皆それぞれ自存のため争い合う。その初めに、種と種が争い合うが、その少しの進みに伴って、群と群が争い合い始める。弱者は常に強者の肉となり、愚かなものは常に上智のものに使役させられる。」

(出典:黄家華「日本と中国における西欧進化論の受容 : 加藤弘之の権力国家思想と厳復の「郡道」の理念を中心として」『年報人間科学』20-1,1999年、195-210頁)


 

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