【図解】これならわかる!ゼロからはじめる世界史のまとめ㉑ 1920年~1929年の世界
1度目の大戦争が終わって、新しい国際関係が作られていく時代
目次
0. 1920年~1929年の世界
1. 1920年~1929年のアメリカ(北→中央→南)
2. 1920年~1929年のオセアニア
3. 1920年~1929年のアジア(東→東南→南→西)
4. 1920年~1929年のアフリカ(東→南→中央→西→北)
5. 1920年~1929年のヨーロッパ(東→南→西→北)
―この時代は人々があれほどまでの「世界大戦」が起きてしまったことを「反省」する時代だ。
もはや想像できないほどたくさんの人たちが亡くなりましたね。
―大戦の終わりごろに「リリーフ」として参戦したアメリカの指導者は、いちばんの元凶が、ヨーロッパ中心に組み上げられた「植民地だらけの世界」にこそあると考えた。
そこで、世界の「大掃除」(リセット)をはじめていこうとしたわけだ。
だからこの時期のポイントは、これまでヨーロッパ諸国・アメリカ合衆国・日本が「分割」してきたラインを、どうやって「もう一度引き直したか」にある。
大戦とともに、これまで多くの民族を抱えていた「帝国」がいくつも崩壊するけれども、その「帝国」を分割する線も、新たに大戦の「勝ち組」によって引き直されることになる。
この国境線の「再分割」がどのように行われたか、その様子を確認していくことにしよう。
ところで大戦中には、ロシアで「資本家に縛られるエンドレスな”労働”から自由になるための革命」(注:ロシア革命)が起きていましたよね。
― そうそう。
このグループは、戦勝国による「再分割」作業には加わらず、それとは別の方針で「大掃除」をすすめようとしたのが、ロシア人が中心となって作った「労働者中心の理想の社会」を作ろうとするグループ(注:ソ連)だ。
アメリカと、ロシアの「労働者の国」はどんな主張をしたんですか?
―どちらも、戦後の世界に関するプランを発表している。
まず、アメリカの大統領は「古いヨーロッパ流の世界」を一旦壊して、新しい価値観で世界をまとめようとした。
その最たる例が、イギリスやフランスが世界中に広げていた植民地だ。
(注:「十四か条」第5条:植民地問題の公正な措置」)
また、これだけの戦争に発展させてしまった「国際関係の方法」も見直すべきだろう。
つまり、戦争が起きる原因をつぶしていこうとしたわけですね?
―理想的にいえばそういうことになる。
もとはといえば、ヨーロッパ諸国がアジアやアフリカに進出して、ピザを切り分けるがごとく取り合ったことが戦争につながった経緯があったでしょ。
アメリカ合衆国大統領としては、イギリスやフランスが持っている世界中の植民地を手放させたい!という理想を持っていたんだ。
一方のロシアでも、労働者の指導者たちがやはり「古いヨーロッパ流の世界」を批判し、世界中の民族が自分たちの国を持てるようにするべきだと訴えた。
アメリカの大統領もこれを聞くと「このままではロシアに先を越される」と危機感を覚え、今まで国をもてなかったヨーロッパの民族が国を持つことができるように調整していったんだ。
優しいですね。
―まあ、国をつくってあげれば、言うことを聞いてくれるからね。
ただ、アメリカ合衆国の本意としては、世界中に既得権益を持つイギリス、フランスの支配体制を「古臭い植民地主義だ」と非難し手放させることによって、アメリカ合衆国の新たなビジネス展開先にしたかったというところもある。
で、イギリスやフランスなどのヨーロッパ諸国は、植民地を手放したんですか?
―実際にはイギリスやフランスは、多くの植民地を手放すまでにはいたらなかったんだ。
ただ、植民地支配ももはや盤石(ばんじゃく)とは言えない状況だった。
どういうことですか?
―そもそも前の時代の終わりには、世界中の植民地で「植民地支配に反対する運動」が沸き起こっていたでしょ。
たとえば第一次世界大戦の間、イギリスはインドとの間に「戦争に協力してくれたら、戦後には自治を認めてやろう」と約束していた。
それにもかかわらず、戦争が終わっても自治は延期。
それに対する反対運動には、徹底的な弾圧を加えた。
それじゃあ火に油ですねえ。
―「期待」を抱いていたアジアやアフリカの人たちは、「アメリカの大統領(注:ウィルソン)が言ってくれていたじゃないか!」と民族運動を激化させることになっていく。
ヨーロッパ諸国も、これまでの植民地支配の方式を見直さざるをえなくなっていくんだ(注:日本による朝鮮に対する「文化政治」、イギリスによるインドに対する「インド統治法」(州政府の権限強化とインド人の政治参加拡大)、山東半島の日本から中国への返還)。
でもアメリカの大統領は、民族の独立を提唱していたんですよね?
―まあ、必ずしも歯切れの良い言い方ではなかったんだけれども、その発言が各地の民族を勇気づけたのは間違いない。
でも結局実際に国を持つことができたのは、ヨーロッパにあった国だけに過ぎなかった。
これにはロシアが領土を西に広げるのを「ブロック」する意味もあったんだ。
「労働者主体の新しいロシア」(注:ソ連)の考え方に染まってしまうと、経営者は追放され、自由にビジネスもできなくなってしまうからね。
負けたドイツはどうなっていますか?
―フランスやイギリスは、自分の国の世論にも押されてドイツにとてつもない額の賠償金を押し付けた。
その処置も非常に厳しく、世界中のドイツの植民地はイギリスとフランスがしばらく国際的な監視下に置くという形で「代わりに」支配することになったよ(注:委任統治)。
「代わりに」っていっても、勢力下に入れることにはかわりないですよね。
―するどい。
「植民地にする」と、さすがに「そんな古いやり方をまだやろうとしてるのか」と批判を浴びるから、そういうやり方を取ったわけだ。
ある意味、「国際的な規模での植民地支配体制の手直し」(注:木畑洋一『20世紀の歴史』岩波新書、2014年、98頁)だ。
手直しすることで、帝国主義を温存しようとしたんですね。
―こうして敗戦国ドイツの持っていた、アフリカ、オセアニアの植民地は、このようにしてイギリスとフランスが主に「代わりに」支配することになったんだよ。
一方、戦争でドイツ側に立っていたオスマン帝国も、このときに多くの領土がこの「代わりに」支配する方式の対象とされた。
西アジアの国々は、イギリスやフランス、そしてアメリカの顔色をうかがいながら、次第に「ヨーロッパ流」の国づくりを進めていくことになるよ。
例えば新しく建設されたトルコ(注:トルコ共和国)では、政治の世界から宗教を追放(注:カリフ制の廃止)し、アラビア文字を捨ててローマ字を採用した。
これまでのオスマン帝国が、アラブ人、イラン人、トルコ人、ベルベル人、アルメニアジんなど、さまざまな民族を包み込む支配体制だったのに対し、ヨーロッパ諸国のような「国民国家」(一つの国民によってまとまった国)をつくろうとしたんだね。
今まで「トルコ」とか「トルコ人」は世界史の中にたくさん登場してきたけれど、これが現在の「トルコ共和国」の大本なんだよ。
その頃、日本はどうなっていますか?
―イギリス側で参戦していた日本はこの戦争で戦勝国になった。
そこで、「世界中の国が加盟して、戦争を起こした国がいたらみんなでお仕置きをするためのグループ」(注:「集団的安全保障」の組織である国際連盟)の「中心メンバー」になることができた。
明治時代以降、「ヨーロッパ化」を進めて行った日本は、短期間でヨーロッパ諸国と「肩を並べる」までのし上がっていくことに成功したわけだ。
短期間でのサクセスストーリーですね。
―でも、これを警戒したのがアメリカだ。日本とイギリスの同盟関係を解消させ、「中国と太平洋に進出するなよ」(注:四カ国条約)と釘を指しているよ。
国際的な「反省」&「平和」ムードの中、日本もしばらくはその流れに乗ることになる。
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◆1920年~1929年のアメリカ
「世界大戦」が終結したのは、アメリカ合衆国の「おかげ」という面が大きそうですね。
―そうだね。
終盤でイギリス側に立って参加した面が大きかった。
でもアメリカのこれまでの歴史を見てみると、これってかなり珍しいことだったんだよ。
どうしてですか?
―前の前の時代に、「もうヨーロッパのことには口出ししませんから、ヨーロッパのみなさんもアメリカ大陸には口出ししないでくださいね」(注:モンロー教書)っていう大統領の政治的発言があったのを覚えてる?
なんとなく...。たしか、ヨーロッパで「新しい世の中」に逆行する政権が力を持っていた時期でしたね(注:ウィーン体制)。
―そうそう。でも時代は流れ、アメリカも立派に工業化をコンプリート。
おいしい市場(マーケット)として白羽の矢が立ったのは中国。
しかし世界の大部分の陸と海を制しているのはイギリスとフランス。
なんとかしてこの植民地大国イギリスとフランスをどかして、アメリカの覇権を打ち立てたい!
そのようなビジネス界の強い願いを背景に、アメリカの政権(注:ウィルソン大統領)はヨーロッパで起きた大戦への参加を決めたわけだ。
参戦したメリットはあったんでしょうか?
―大戦中には、イギリス側に大量の物資や資金を貸し与えたため、戦後には「外国に貸している額>外国から借りている額」となって、寝ていても利子付きのお金がニューヨークに流れこむ「スーパーリッチ」な国にのし上がっていったんだ。
まさに漁夫の利ですね!
―ミッキーマウス、ハリウッド、コカコーラ、大リーグ、ジャズ、大量生産の自動車、家電…。
この空前の繁栄(注:狂騒の20年代)に支えられ、「たくさん作って、たくさん買う」アメリカ式の生活は世界中の「あこがれの的」になっていったんだ。
でも、「どうしてヨーロッパの戦争なんかに参加したんだ」という意見も根強く、「今後はいっさいヨーロッパの政治に関与したくない」という閉鎖的な意見も強まった。大統領が夢見た「世界平和のための組織」(注:国際連盟)への参加も、議会の反対で見送られている。
それが行き過ぎると、ヨーロッパからの移民は出て行け!とか、アメリカ本来の純粋な文化を守れ!という過激な主張にもなっていく。
そんな「内向きだが楽観的」なムードが、この時代の特色といえるね。
中央アメリカや南アメリカはどんな感じですか?
―アメリカに対する反発も起きているけど、経済のしくみは相変わらずアメリカやヨーロッパ諸国に、自分の国でとれた農産物や鉱産資源を輸出するものだ。
これじゃあ、土地をたくさんもっている人や一部の有力者しか、豊かになっていかないね。
土地や資源をめぐって、軍人が力ずくで指導者になろうという動きも起きている。
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◆1920年~1929年のオセアニア
この時期には、日本がオセアニアに進出しているようですね。
―そうだね。
日本は世界大戦に参戦した「ごほうび」に、その南方(北を上にすると下方向)の島々を委任統治することになっただ。
「イニントウチ」?
―しばらくの間、代わりに支配するということだ。
もともとヨーロッパのドイツが支配していたんだけど、ドイツが負けたので日本が南に領土を広げたんだ。
でも、日本が太平洋に進出することに対して、アメリカ合衆国は強く「警戒」するようになる。でも軍事力を使うことへの反対が国内では大きかったので、とりあえず日本とイギリスの同盟を破棄させ、「太平洋の領土をこれ以上広げちゃダメだぞ」と釘をさした(注:ワシントン体制)。
◆1920年~1929年の中央ユーラシア
―ロシアでは皇帝(注:ニコライ2世)が倒され、労働者を指導者とする国(注:ロシア=ソヴィエト共和国。のちソ連を形成する)が誕生した。
でもどの領土は、倒したロシア(注:ロシア帝国)が持っていた領土をほぼ引き継いだので、ユーラシア大陸の民族たちにとっては「支配者が交替しただけ」ということだ。
「労働者の国」の領土は、ロシアだけではなかったんですね。
―そうだよ。
ユーラシア大陸の内陸にある「なんとかスタン」という名前の国々も、個々に「労働者の国」に作りかえられていった(例:カザフ=ソヴィエト社会主義共和国)。
これら一見独立しているようにみえるけど、ロシアの指導者(注:レーニンやスターリン)のいうことを聞かなければいけなかった。
もっと東の方のシベリアにもいろんな民族がいたわけだけど、ここもロシアの「労働者の国」の一員となっていった。
国の方針が変わっただけで、結局いろんな民族を支配しているわけですね。
―そういうことだね。
この、ロシアを中心とするグループのことを「ソ連」というよ。
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◆1920年~1929年のアジア
◇1920年~1929年のアジア 東アジア
―日本は第一次世界大戦でイギリス側に立って戦い、ドイツの持っていた植民地(太平洋の島々)を代わりに支配する権利を手に入れた。なんと国際連盟という「世界平和」のための組織の中心国のひとつにまでのぼりつめたんだ。
順調ですね。
―でも喜びもつかの間。
大戦後の不景気に関東大震災が重なって、「国内の問題を、国外への進出で解決しよう」という考えも増えていくよ。
つまり、広い中国に進出して資源を獲得しようとしたわけだ。
当時の中国では、皇帝が倒されたものの「バラバラ」な状態が続いていましたよね。
―そのとおり。
せっかく皇帝を倒したのに、軍隊の力が強すぎて各地で軍人が半分独立した政府(注:軍閥)をつくって分裂していた。
いろんなところを牛耳る軍人を、別々のヨーロッパ諸国や日本が応援したものだから、分裂状態はますます深まっていた。
かつて皇帝を倒す運動を成功させた指導者(注:孫文)は、この状態を嘆くけど、その後中国人の中から外国人に立ち向かおうとする運動(注:五四運動)が生まれた姿をみて勇気づけられ、「もう一度、国民の力を信じ、中国を共和国としてまとめよう」と決意したんだ。
じゃあ、国の方針としては「自由な国」をつくるってことですね。
―そう。
ただ、中国の皇帝が倒れたのを見て「これはチャンスだ」と思ったのが、当時、革命で同じく皇帝を倒したロシア人たちだ。
ロシアの革命に共感し、同じように「労働者が輝ける国」をつくろうというグループ(注:中国共産党)が中国にもできて、「経営者」や「大地主」たちを中心とするグループ(注:中国国民党)と対立することになる。
どうなったんですか?
―紆余曲折(うよきょくせつ)を経て、結局は「資産家」「経営者」や「大地主」の支持を得たリーダー(注:蔣介石)が支配権を握るよ。
アメリカやイギリスの力を背景にして中国から日本の勢力を締め出しつつ、国内の「労働者の国」をつくろうとするグループ(注:中国共産党)の退治が進められていった。
中国も、せっかく独立までこぎつけたのに、ここへ来てなかなかまとまりませんね。
―そうだね。
中国の皇帝の支配を受けていたモンゴル人も、これをチャンスに独立しようとする。
北のほうのモンゴル人は、ロシア人の援助も受けながら「労働者の国」を作ろうとしていったんだ(注:モンゴル人民革命党によるモンゴル人民共和国)。
初めは「モンゴルとして独立国があればなあ」というところから始まったんだけど、次第にロシア人の「労働者の国グループ」(注:ソ連)との提携路線が強化されていくよ。
◇1920年~1929年のアジア 東南アジア
東南アジアでは、植民地から独立しようとする動きは起きませんでしたか?
―さかんになっている。
ロシア人の指導者が「すべての民族は自分たちの国を持つべきだ!」とメッセージを送ったことので、各地でロシアでの「労働者主体の国づくり」を参考にした運動(注:社会主義)が活発になっていったよ。
たとえば、ベトナムではのちに「国の父」として活躍することになる人物(注:ホー・チ・ミン)が運動を始めている。
ただ、インドネシア(注:オランダ領東インド)みたいにたくさんの島でできた国では、歴史も言葉も違うから「一丸となって」独立運動を起こすことが難しい。模索が続けられているよ。
◇1920年~1929年のアジア 南アジア
インドでは独立運動が盛り上がっていますね。なぜですか?
―イギリスが、「戦争に協力してくれれば、自分たちでインドのことを決めてもいい」って約束していたんだけど、戦後にイギリスがそれを「なかったこと」にした。
で、それに反発したところ、なんとその反発自体を取り締まる法律(注:ローラット法)が制定され、さらにその反対運動のさなか一般市民が巻き添えになる虐殺事件も起きた(注:アムリットサル事件)。
そんな中、弁護士出身のエリートだけど、着飾らずに誰にでもわかりやすい言葉でインドの人たちに話しかけることのできた独特な風貌を持つ指導者(注:ガンディー)が、独立運動を本格的にすすめていくんだ。
彼は「暴力に対して、暴力を使ったら、負けだ」(注:非暴力主義)と、発想を転換した運動によって支持者を伸ばしていったけど、イギリス側もなかなかインドを手放そうとはしなかった。
◇1920年~1929年のアジア 西アジア
西アジアでは、オスマン帝国が戦争に負けていましたよね。
―これで、いよいよ「おしまい」だね。
オスマン帝国の皇帝は、軍隊にも見放されてしまう。
軍隊のトップ(注:ムスタファ・ケマル)は別の政府を立ち上げ、オスマン帝国の皇帝(注:スルタン)をクビにし、さらにイスラーム教徒の「リーダー的存在」であったカリフという制度も廃止してしまったんだ。
どうしてそんなことをしたんですか?
―これからは「ヨーロッパ型の国づくり」をしていかないと、この国はダメになってしまうという指導者の信念があったんだ。
この人には「トルコのお父さん」(注:ケマル=アタテュルク)という称号が与えられている。
じゃあ、なんとかなったんですね。
―そうでもない。
領土の一部はイギリスとフランスが国際社会の監視下で「代わりにしばらく支配する」(注:委任統治領)っていう名目で、バラバラに分けられてしまったんだ。
ほかの国はどうですか?
―やはり「危機感」があって、トルコと同じように近代化を急いだよ。
イランでも軍人(注:レザー・パフレヴィー)によって前の王様(注:カージャール朝)が倒されて、新しい王国(注:パフラヴィー朝)が近代化をすすめた。
一方、アラビア半島では王様(注:サウード家)が大部分を統一して、めちゃ厳しいイスラーム教のルール(注:ワッハーブ派)を適用しながら強い国づくりを進めている。現在のサウジアラビアの発祥だ。
この地域で石油がたくさんとれるらしいということにも、ヨーロッパ諸国やアメリカはすでに目をつけている。
「石油」がカギを握る時代になっていますもんね。
―自動車(注:自動車の大量生産)や飛行機の時代(注:大西洋無着陸横断飛行)だもんね。
ロシア人も巨大な油田を確保するために、イランの北のほう(注:ザカフカースと呼ばれる地方)にまで支配エリアを広げ、この地域をロシアの新国家建設のパートナーに組み込んでいる。今のアルメニアやアゼルバイジャン(めちゃデカい油田がある)のあたりだ。
◆1920年~1929年のアフリカ
「世界大戦」の結果、アフリカの民族たちには自分たちの国をつくる権利が認められたんでしょうか?
―そうはいかなかった。
ドイツの植民地だったところは、イギリスとフランス、それに南アフリカなどが「代わりに」支配することとなった(注:委任統治)。
というわけで結局独立できているところは、リベリアとエチオピアだけ。あとは「植民地だらけ」の状態だ。
各地で独立に向けた運動も起きるけど、うまくはいっていないねえ。
例えばどこで独立運動が起きたんですか?
―イギリスが実権をにぎっていたエジプトだよ。
王様(注:ムハンマド・アリー朝)はいたけど、イギリスの言いなりだったんだ。
どうしてイギリスはそんなにエジプトを支配したがるんですか?
―インド洋に抜ける最短ルートである運河(注:スエズ運河)があったからだよ。
だから何が何でもエジプトを死守したかった。
しかし前の時代の末に、そんなエジプトでイギリスに対する抵抗運動が勃発。民族運動のリーダーであった人物(注:サアド・ザグルール)の逮捕・島流しに対する反発がきっかけだ。
結局運動は鎮圧されたけど、この時代の初めに名目的にはエジプトは独立国として認められることとなった。島流しにあったリーダーも帰国して首相となった。
「名目的」というのは、実際にはさまざまな制限がエジプト側にかけられていたという意味だ。
最重要地点であるスエズ運河にも軍隊を駐留させたままだしね。
そんなんじゃ「独立」とは言えませんね。
―ヨーロッパ諸国は圧倒的な軍事力でこうした民族運動を抑えようとした一方で、このような「ほころび」が目立つようになったのもこの時代の特色だ。
大戦のときにヨーロッパ諸国に動員された元兵士の中からは、「あんなに頑張って戦ったのに!」という不満も沸き起こった。
支配を受けた民族の中には、「現状に満足する人々」もいれば、「現状に不満を持つ人々」もいる。
満足している人々は、支配を受けていることで利益を得ている人たちのことだ。例えばイギリスのお役所の官僚や軍隊として働いたり、イギリスの会社と協力してビジネスを展開したりしていた人たちにとって、支配されていることは必ずしもマイナスではない。「工業化が進めば産業も発展するし、雇用も増える。ヨーロッパ諸国の文明に浴しよう」と考える人たちもいた。
不満な人々が力を合わせれば支配に抵抗できそうな気もしますが...
―支配者側は、支配されている人たちが一致団結しないように、あらゆる方法で分断を図ろうとしていたんだよ(注:分割統治)。
でも、この時期の支配からの脱却を目指す人々の活動は、次の時代にかけてさらに存在感を増していくことになるよ。
***
◆1920年~1929年のヨーロッパ
―ホモ=サピエンス史上未曾有の死傷者をもたらした第一次世界大戦。
大戦によってヨーロッパの国境線が大きく変わることとなった。
どんなふうにですか?
―まず、ドイツは海外にあるすべての領土を失う。
ドイツをはじめて統一することのできた「皇帝の国」(注:ドイツ帝国)が滅んだことで、今まで国を持てなかった民族も国を持てるようになっている。
でも、ヨーロッパがまず直面することになったのは、大戦から「立ち直る」ことだ。
戦争の痛手は深い。
アメリカからお金を借りていたイギリスやフランスには、借金ものしかかっている。
イギリスやフランスはどうやって借金を返そうとしたんでしょうか?
―ドイツからの賠償金を取り立てることで、解決しようとしたんだ。
そして「復興」をすすめることで、アメリカに返済するプランだ。
でも、そのためにはドイツが「二度と戦争のできない国」にしておく必要がある。
さらにドイツが耳をそろえて賠償金を返し続ける必要もある。
でも、ドイツだって大変な状況なわけだ。
返済がとどこおり、フランスとベルギーが「借金取り」となって攻撃した(注:ルール出兵)ときには「二度目の大戦」が起きるんじゃないかとヨーロッパの国々は肝を冷やしたものだ。
このときにドイツでは物価の異常な値上がり(注:ハイパー・インフレーション)を経験し、余計に返済が困難となった。さすがに「無理難題」だと勝者側も判断し、「こんなことにならないように、現在ある国境線と入っちゃいけないラインは守ろうね」(注:ロカルノ条約)という条約が結ばれた。
また、アメリカの銀行家が仲裁する形で賠償金の減額や猶予(ゆうよ)に乗り出した(注:ドーズ案)けど、賠償金額がとんでもない額だということに変わりはなかった。
ドイツ側につかなかったもの、経済が遅れ気味で勝者としての取り分にも不満の出たイタリア王国でも、なかなか社会が安定しなかった。
社会が不安定になると、また過激な考え方が生まれそうですが…。
―その通り。
いろんな問題があったわけだけど、その中でも次の2つのグループが注目されていった。
① 自分の「民族」が科学的に優秀であると主張して「仲間意識」を高め、ほかの民族や国の結束を乱すグループを暴力で排除し、今の政府を倒して大戦の「リベンジ」を狙おうとするグループ(注:ファシズム)
② 「労働者主体の夢の世界」を目指しているロシア中心のグループを見習って、経営者を追い出し、最終的には国をぶっ壊そうとするグループ(注:共産主義)
でもまぁ①も②も暴力的だから、「大多数のふつうの人」にとってみれば怖かった。
「大多数のふつうの人」って?
―「大衆」だよ。
「大衆」って?
―ほとんど同じような考えを持った人々のことだよ。
自分の考えはさておき、周りのその他大勢の人たちが「何を考えているか」「何が流行っているか」「何をするつもりか」ってことを気にする傾向にあるね。
どうしてそんなことになったんですか?
―大量印刷技術やラジオ放送などメディアの進歩が大きいね。大勢の人に一気に情報を流す技術が普及していくと、国民たちの考えは一気に画一化していったわけ。
ただでさえ先の大戦(注:第一次大戦)で、ほぼ全ての国民が「国のため」に動員されたわけでしょ。
国がひとつの国民を画一化する力も高まっていたんだ。
だから、必ずしもみんなに聞こえる場所(注:公的領域)で自由に自分の意見を言えるとは限らないし、プライベートな領域(注:私的領域)にまで「お国のため」という価値基準が入り込むようにもなっていく。
お金をかせぐために必死に働いて、物を買い、生活を豊かにさせていく。そのことばかりが優先されるようになっていった。
そんな変化が起きていたんですね。
―そんな「大衆」たちも「一枚岩」とは限らない。
現実的な生活への不安もあるし、メディアの生み出すイメージにも流されやすい。
「○○人のせいで不景気になったらしい」
「○○党は危険だ」
不安をあおるイメージほど、すぐさま広まってしまう。
先ほどの①・②のグループが、この不安な心理の「受け皿」となり、たとえ国民の多くが支持するようにあるわけではなくても、やがて各国で大きな変化を生むことになっていくんだ。
―この時代のキーワードは「再分割」にあると言ったよね?
はい。
―工業化した資金力のある先進国が、工業化していない貧しい国々を搾取(さくしゅ)する構造は、現代にまで続く問題だ。
また、戦勝国中心で「再分割」が進められたことに対し、
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