9.1.5 プロイセンとオーストリア 世界史の教科書を最初から最後まで
近世の後期は、アメリカ大陸やアジアの物流ルート掌握や植民地化をめぐり、狭いヨーロッパ諸国が凌ぎを削り、国内の統一的支配に努める時代。
大西洋に面する西ヨーロッパのネーデルラント連邦共和国やフランス王国が成長するなか、中央ヨーロッパにあるオーストリア大公国もいよいよ改革に乗り出した。
「中央ヨーロッパ」は、現在の「ポーランド」
「ドイツ」
「チェコ」
「スロヴァキア」や、
ドナウ川沿岸の「ハンガリー」
「オーストリア」周辺を指すエリア。
「西ヨーロッパ」のエリアに比べると、「ポーランド人」「チェコ人」などのスラヴ人の国家や、ユダヤ人(アシュケナージ)が
比較的多く分布したことが特徴だ。
1618〜48年のウェストファリア条約において、
オーストリア大公(たいこう)が位に就いている神聖ローマ帝国皇帝の力が抑えられてしまうと、神聖ローマ帝国領内にあった諸侯の国々(領邦)は、個々に力を強めるようになっていく。
その代表例が、プロイセンだ。
はじめ公国であったプロイセンは、スペイン継承戦争で神聖ローマ帝国側に立ったことで1701年に王位がみとめられプロイセン王国となる。
2代目の王フリードリヒ=ヴィルヘルム1世(在位1713〜40年)は、財政と行政をととのえ、軍備を増強。国王に権力を集中させた。
1740年にその息子フリードリヒ2世(在位1740〜86年)が跡を継ぐ。
この王、フランスの思想家ヴォルテールと文通し、最新の“現代思想“を学んで著作を著し、
飢えを解決するために当時まだ珍しかったジャガイモを普及させ、
ジャガイモのお供物があるフリードリヒ2世のお墓
さらにフルート演奏もできちゃう
という、とてつもない才能の持ち主。
彼は、プロイセン王国を強国にするため、ヨーロッパ中央部の強国オーストリアに挑戦状を叩きつけた。
マリア=テレジア(在位1740〜80年)
がハプスブルク家の全領土を相続したことに異議をとなえ、資源の豊富であったシュレジエン(中心都市は現在のポーランドのヴロツワフ)を占領したのだ。
シレジアはその後の歴史の中でドイツ・ポーランド・チェコに分けられてしまったけれど、今でも「シレジア人」としての意識は根強い。
フリードリヒ2世は、反オーストリア勢力(バイエルン公やフランス王)を結集し、イギリス王国(グレート=ブリテン王国)をバックにつけてオーストリアと戦争に突入。
オーストリア大公国の後継ぎをめぐっての戦争なので、これをオーストリア継承戦争(1740〜48年)というよ。
結果的にフリードリヒ2世はシュレジエンを獲得することに成功。
しかし、数年後にオーストリアのマリア=テレジアはシュレジエンの奪回をめざし、「勝つためにはフランスをこちら側の陣営につけるしかない」と、長きに渡り敵対関係であったフランスと同盟した。
この革命的な外交政策の転換を「外交革命」と呼ぶよ。
さらにロシア帝国も味方につけることに成功したオーストリアとの間に、フリードリヒ2世は再度開戦。
この七年戦争(1756〜63年)では、フランス王国がオーストリア大公国側についたため、一転してイギリス王国と同盟したプロイセン王国は苦戦する。
しかし1763年にオーストリアと有利な形で和平を結び、シュレジエンを確保することには成功。
かくしてプロイセンは、オーストリアと肩を並べる強国にのし上がったわけだ。
フリードリヒのモットーは「君主というのは国家第一のしもべである」(君主は国家第一の僕)というフレーズ。
国を強くするために、強い国の採用している最新情報を仕入れることにも余念がなかった。
フランスの思想家ヴォルテール
の思想を取り入れて”理解“した上で、多民族・他宗教(宗派)を抱えるプロイセン王国の実情に合わせて「強大な権力」を行使することが、”理想の君主像“だと信じていたのだ。
たとえば、宗教・宗派にこだわることなく信教の自由をみとめ、産業を育成。
法律を整え、司法も改革した。
西ヨーロッパ以外のヨーロッパ(中央ヨーロッパや東ヨーロッパ)で、君主みずからが「啓蒙主義」をかかげて主導し改革をおこなう政治の方式は、西ヨーロッパの「絶対君主」と対比して啓蒙専制主義(けいもうせんせいしゅぎ)と呼ばれてきた。
こうした支配の下で、イングランドやフランスと比べると商工業は正直パッとしない。しかし輸出向けの穀物・商品向け作物の生産は盛んだ。フリードリヒ2世の支配を支えたのは大地主を持つ貴族たち。農民の地位も低いままだった
一方、フリードリヒ2世に敗れたマリア=テレジアも、プロイセンとの戦争に備えてさまざまな改革をおこなった。
その子ヨーゼフ2世(在位1765〜90年)は、宗教・宗派を差別しない政策や、農民を領主から解放させる改革をおこない、啓蒙専制君主に数えられる。
農作業にも挑戦し、農民に対する理解をアピールした
でも、トップダウンで昔の制度を改革しようとする姿勢は、領主としての特権を守ろうとする貴族や地域社会から強い抵抗をうけた。
そもそもオーストリアの領土は、チェコ人のベーメン王国、マジャール人のハンガリー王国、イタリアの北部、さらにベルギー(ネーデルラント南部)まで広がる巨大なもの。
(参考)1914年時点の民族分布
彼の画一的な改革は、逆に領内のさまざまな民族の感情とバッティングし、その多くは挫折してしまったんだ。