言語学と優しさ2.0
最近、言語学の論文や本を読んでいる。
まるで自分が世界で初めて発見したかのような気づきに、言語学の世界では100年も前から研究がされており、サピア=ウォーフの仮説、ないしは言語的相対性原理という名前がついていることを知ったからだ。
自分が気づいたというのは、世界というのは認知する人間の数だけ違う世界が存在しているのではないかということ。
きっかけはうつ病を患ったことだった。
その件については過去のnoteで書いている。
言語学の世界では、人の数だけではないが、使用する言語によって世界の認識の仕方が違うのではないかという研究が100年も前からされていた。
中学生の頃、家具という意味を表すFurnitureという英単語が不可算名詞(Furniture"s”と複数形にできない名刺)であることに、「は?どう考えても数えられるだろ。」と感じた生徒は僕だけではないはずだ。
日本語だと椅子が2つと机が1つあったら”3つの家具”と考えられる。
しかし英語ではFurnitureというのは机や椅子、タンスなど様々な家具の総称して家具と呼ぶらしく、Furnitureがひとつという風には捉えられないそうだ。
この説明を聞いても当時の自分は全く納得していなかったが、「”お金がひとつ”って言われたら違和感あるでしょ?そんな感じ。」と言われその説明には引き下がらざるを得なかった。
英語学習なら経験したことがある人が多いだろうと思い、日本語と英語の場合を例に出したがこれくらいだとあくまで家具は家具であり差は小さい。
しかし世界をもっと見ていくと、”飛行士とトンボと飛行機”が全部同じ言葉である民族や、犬と狼が同じ言葉の国がある。
逆に自分たちが雪と呼ぶものをエスキモーの人たちは幾つにも分けてたくさんの雪の種類を使い分けている民族もいる。
フランス語では蝶々も蛾もパピオンのため、蛾を見て「パピオン」と言われるとえ?一緒にしちゃうの?となるのは有名な例かもしれない。
このように、言語が違えば同じものを見ても違うものだと認識する例は世界中に溢れている。
僕はこれが、同じ国で、同じ言語で生活をしている人たちの中でも、人によって同じ現象を目の前にしても感じ方が違うということが起きていると思っている。
特に心に関する現象だ。
僕から見れば「誰がどう見たってそんなこと言われたら傷つくでしょ!」
と思うことを平気な顔で大きな声で言う人がいる。
彼らは意地悪をしたり、相手を傷つける意図が全くないことがある。彼らにはその言葉によって生じる傷が認識できないのだ。
僕には差別と区別くらい全く違う2語に聞こえるのに、同じ言葉として捉えている人もいる。
それは蝶々と蛾が違うものであるけど「どっちもパピオンじゃん」と感じる人がいるのと同じように見える。
なんだか”自分は分かっている風”の書き方をここまでしてしまったが逆もたくさんあったのだろうなと考えている。自分にとっては「一緒の意味でしょ」と思ってサラッと使った言葉が、誰かにとっては大きな違いを持っていて致命傷を与えていたかもしれない。
「〜あったのだろうな」「〜かもしれない」と書いているのは、僕には認識できないからだ。
意味の違う言葉を同じように使ってしまったりしていても、気づくのはその言葉の差異を大事にしている方だけだ。それが怖いところなのだ。傷をつけている方はこのことを認識できない。
言語学での言語的相対原理に関しては、”日本語と英語”のようにその際は誰にでも認識できる。だから人によって認識に違いがあると言われても納得しやすい。
しかし、こと日本語同士となると同じ言語を同じ認識のもと話していると錯覚した状態で会話を進めてしまう。
性別によって言葉の捉え方が違うとか、世代によって言葉の捉え方が違うとか、そんなことはこの社会に溢れているじゃないか。
その違いを全てを網羅することはできない。だからせめて僕たちにできることは、
「言葉の認識に違いがあるかもしれない」
この可能性を頭の中から除外しないことではないか。
それは初めて話す人間に対してだけではない。あなたの横にいるその家族や友人に対してだって、
「私たちはお互い分かっている」「僕らは同じ前提条件で会話をできる」と過信せずに、
「目の前にいる10年来の付き合いになるこいつとの間にだって目に見えない違いはある」としつこく意識するのだ。まずはそこからだ。
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