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第26回 嗚呼懐かしの、世田谷の映画館

 現在、映画館といえば、ほぼシネコン(正式にはシネマ・コンプレックス)という複合型施設に変移。すべて事前予約制で、「ふらりと映画館に出かける」習慣、ましてや「途中から映画を見る」などという行為は、まず不可能になってしまいました。わずかながら単館のミニシアターも存在していますが、浅草にせよ日比谷にせよ、訪れただけでドキドキ・ワクワクするような興行街のおもむきはまるでありません。筆者が高校生の頃までは、煙草とトイレの臭いのする通路を通って劇場の扉を開くと、そこには異次元空間が広がっているような気がしたものでした。

 成城には、今も昔も映画館は存在しません。しかし、かつて世田谷には多くの映画館があり、隣町の祖師谷には60年代末まで「祖師ヶ谷映画劇場」(63年頃までは「砧コニー」)という小屋(今や死語!)がありました。61年公開の『福の神サザエさん一家』ではクリーニング店「アート商会」の壁に当館のポスター(大映と松竹作品を公開中)、『ニッポン無責任野郎』(62)では、植木等が歌い踊る「成城パン」横の電柱看板にその館名が見られます。森繁久彌のご次男・たつる氏の記憶では、開館当初は「大友館」という館名だったとのことです。
 かねて「城南電機」の店舗があった裏手(小田急線沿い:砧町100)に位置した当館、現在では小さな飲み屋が店を開く地区となっていて、その名残は全くありません。この飲み屋街、80年代末までは「池田屋」や「ほたか(2号店)」といった店があり、利用した方も多いことでしょう。特に「池田屋」のマスターは、成城の名店「栄華飯店」で修業していた料理人なので、豚の角煮やゆでワンタンなどにその名残が感じられました。

(左)「砧コニー」はこの路地の突き当りにあった。右手奥がかつての池田屋
(右)「砧コニー」跡地。ウルトラセブンの街灯に時代を感じる(筆者撮影)
「砧コニー劇場」チラシ(1961年9月18日)。『用心棒』は松竹の『猟銃』との二本立て特別興行、『社長道中記』(『用心棒』の併映作)は別途、三本立てで上映されていた。お店の広告では、「きぬた家」(成城駅前の蕎麦屋)の支店が祖師谷「東宝通り」商店街にあったことが分かる(世田谷美術館 矢野進氏所蔵)

 やや大きな街の経堂には、「経堂南風座」(福昌寺の真ん前)と「東洋映画劇場」という名の映画館が、千歳烏山にも「烏山映画劇場」があったとの記録が残っています。千歳船橋に映画館があった痕跡はありません。
 
 成城から通いやすかったのは、何といっても急行が停車した下北沢の映画館でしょう。下北には小田急線の踏切脇に「下北沢オデヲン座」(52年開館)があり、ここは70年代からは成人映画路線に転換、筆者も1978年に一度だけお世話になったことがあります(作品名は明かせません)。
 他にも下北には、昭和20年代末に開館した「グリーン座」、「新栄座」、「北沢エトアル(エトアール)劇場」、昭和30年代開館の「下北沢映画劇場」など多くの映画館がありましたが、60年代末には映画界の斜陽化と「エトアール劇場」の火事焼失(69年)もあり、「オデヲン座」を除いてみな姿を消してしまいました。
 08年頃までは、演劇専門の小劇場「ザ・スズナリ」の建物二階に「シネマアートン下北沢」なる映画館(98年開館)も存在。小さいながら映画愛溢れるプログラムを組む名画座で、閉館と聞いたときには残念でなりませんでした。
 下北では、現在でも成城大学出身の大槻貴宏氏が支配人を務めるミニシアター「トリウッド」と、新規開業の「シモキタ‐エキマエ‐シネマ K2」が営業中。映画ファンには頼もしい存在です。

「下北沢オデヲン座」チラシ。『風と共に去りぬ』、『旅情』など、堂々たる名画ばかり公開していたことが分かる(矢野進氏所蔵)
(左)下北沢オデヲン座跡地 (右)二階にシネマアートン下北沢があったザ・スズナリ(筆者撮影)

 三軒茶屋は、かなり最近まで映画館が残っていた街。世田谷で最も早く映画館ができた地区でもあります。「三軒茶屋映画劇場」は、大正時代(1925年)に「駒澤電気館」として開館(当時はこの辺りも駒沢という町名だった)、活動弁士がいた時期もありましたが、45年の空襲で全焼。昭和30年代には東宝の封切館として活況を呈しました。52年開業の姉妹館(オーナーが同じ)「三軒茶屋中央劇場」は、一時期「世田谷松竹」と改称され、松竹作品を上映した時期もあったようです。

1961年夏の三軒茶屋映画劇場。当時は東宝映画の封切館だったので、
『モスラ』と『アワモリ君売出す』(7月30日公開)の看板が掲げられている。
「さよなら玉電の日」の三軒茶屋映画劇場(1969年5月)。
目の前に玉電の三軒茶屋停留所があった(撮影:大塚勝利氏)

 55年開館の「三軒茶屋東映」は、もちろん東映の封切館。次第に洋画を上映するようになり、97年には「三軒茶屋シネマ」と名称変更されます。さらに、かつての三茶の地図を見ると、世田谷通り沿いに「三軒茶屋大映」があったことも分かります。これは、かつて大映や日活作品を上映していた「三軒茶屋第一映画劇場」が「三軒茶屋大映」(「三軒茶屋名画座」を併設)に替わったもので、当劇場も大映の経営不振により、60年代半ばには姿を消しています。この度、当「第一劇場」の貴重なチラシを入手しましたので、是非ご覧いただきたいと思います。

「第一映画劇場」チラシ。上映作品からして、55〜56年頃のものと思われる
(寺島映画資料文庫蔵 世田谷区立郷土資料館画像提供)
1961年夏の三軒茶屋東映では市川歌右衛門主演の時代劇『旗本退屈男 謎の七色御殿』を、奥の三軒茶屋中央劇場(世田谷松竹)では、岡田茉莉子主演の文芸作『河口』を上映中
三軒茶屋東映ニュース。当館屋上にはバッティングセンターとゲームコーナーがあった
(大塚勝利氏所蔵)
2013年に閉館した‶河童の映画館〟三軒茶屋中央劇場。劇場ニュースを見ると、この当時は松竹の他、大映・日活作品も上映していたことが分かる(撮影・所蔵:大塚勝利氏)

 歴史ある「三軒茶屋映画劇場」も1992(平成4)年に閉館。それでも、「三軒茶屋中央劇場」と「三軒茶屋シネマ」(旧三軒茶屋東映)は2010年代初頭まで営業を続け、地元住民だけでなく映画マニアに大いに愛されました。
 筆者は、77年に「中劇」で『犬神家の一族』(東宝)と『嗚呼!!花の応援団 役者やのォー』(日活)の邦画二本立てを鑑賞。このときはかなり多くの観客がいましたが、94年に「三軒茶屋東映」(「三軒茶屋シネマ」になる前)で、『蜘蛛女』と『バッド・ルーテナント』という渋い(内容は濃いが)洋画二本立てを見たときには、お客はパラパラ。映画館(特にこうした二番館)の将来を憂えたものでした。

閉館当日(2014年7月20日)の三軒茶屋シネマ。
ラストショーは『そして父になる』と『のぼうの城』(撮影:大塚勝利氏)
三軒茶屋の映画館鑑賞券(大塚勝利氏所蔵)

 三茶にはかつて、「大宮館」という名の芝居小屋があったといいます。これも当地が世田谷随一の興行街であった証し。現在、三茶に世田谷パブリックシアターがあるのも大いに頷けます。
 
 上馬にも映画館があった時代があり、「上馬メトロ映画劇場」という素敵な館名をもっていました。聞けば、谷内六郎が当館を描いた作品もあるそうです。
 他にも、京王線沿いの明大前に「正栄館」、下高井戸に「下高井戸映画劇場」と「京王下高井戸東映」という小屋が存在。後者は「下高井戸京王」を経て、今でも‶家族経営の小さな映画館〟「下高井戸シネマ」として存続しています。コロナ禍に負けずに頑張って欲しいと願っているのは、筆者だけではないでしょう。
 
 当時、三軒茶屋・自由が丘・下高井戸の三つの映画館では、上映フィルムを共用していたため、フィルム缶を自転車で運ぶ専任の若者が存在、毎日時間との闘いを強いられていたといいます。今回、多くの写真を提供してくださった大塚勝利さんは、当時三軒茶屋の蕎麦屋で修業中。この若者が移動の合間に慌ただしく食事をしているのを見て、とても気の毒に思ったそうです。

1967年10月31日、上馬・中里間を走る吉田茂元首相「国葬」の車列。
道の右側に「上馬メトロ映画劇場」があった(撮影:大塚勝利氏)
右側の建物が「上馬メトロ」。二番館なので、料金も安かったという。国道246号(大山街道)を走るのは三軒茶屋方面に向かう玉電(撮影:荻原二郎氏 大勝庵 玉電と郷土の歴史館所蔵)

 二子玉川に、名画座「二子東急」(以前は「二子劇場」=57年開館。現在はシネコン「109シネマズ」として存続)があったことをご記憶の方も多いでしょう。東急グループの遊園地・二子玉川園があったことで、映画館が作られるのは必然だったかもしれません。
 同じく東急田園都市線の用賀駅前にあった「用賀新東宝」こと「あすなろ座」は、『クレージー作戦 先手必勝』(63)でその姿を確認することができます。当館は東映封切館を経て、お色気映画専門の「エデン座」となり、現在ではくすりセイジョーに姿を変えています。玉川瀬田町、環八瀬田交差点傍にあった「瀬田劇場」も、今や忘れられた映画館となってしまいました。

二子玉川にあった映画館「二子東急」(撮影:大塚勝利氏)
(左)玉電砧線「砧本村」駅にあった二子東急と瀬田劇場の掲示板
(右)二子東急のラストショー(1990年12月~91年1月)は 『ちびまる子ちゃん』だった
(撮影:大塚勝利氏)※画像処理はすべて岡本和泉氏による。

 小田急線を下ると、筆者が大学生の頃まで、登戸に「登戸銀映」という小屋が存在しました。館は車窓からも見られましたが、ちょっとコワイ雰囲気で、入ったことはありません。映画館で怖い経験をすることもあった時代ですから、この点では現在のシネコンのほうが遥かに安心・安全です。
 新百合ヶ丘などまだ影も形もない時代でしたので、あとはよく町田に通いました。「町田ローズ劇場」という小屋も、なかなか魅力的なプログラムを組む映画館で、『竜馬暗殺』や『男はつらいよ 寅次郎子守唄』を(どちらも74年に)見た憶えがあります。隣には「町田グリーン劇場」もありました。
 ‶映画のまち〟を標榜する調布の映画館にも触れたいところですが、ここまでくると「世田谷の映画館」ではなくなる(すでにない?)ので、懐かしの映画館のお話にはこのあたりで「カット!」をかけることといたします。映画はやはり、映画館の暗闇で見るのが一番ですね!
 
 本稿は、「東宝スタジオ展 映画=創造の現場」開催(2015年)の折に、世田谷美術館の橋本善八氏と調査した資料を基に執筆しました。橋本さんの他、貴重な資料を提供してくださった世田谷区立郷土資料館様、矢野進さん、寺島正芳さん、大塚勝利さんには、改めて御礼申し上げます。大塚さんは、二子玉川で玉電(玉川電車)の貴重な資料や写真、歴史ある関連品などを展示・保管する「大勝庵 玉電と郷土の歴史館」(世田谷区玉川3-38-6 開館日:火・木・土・日 開館時間:10:00〜15:00)を運営されていますので、一度お訪ねいただければ幸いです。
 読者の皆様におかれては、お気づきの点や、他にご存知の映画館がありましたら、是非ご教示ください。いつの日か成城のまちに、東宝さんが「TOHOシネマズ」東宝映画専門館を作ってくれることを夢見て・・・・・・。
 
※『砧』833号(2022年9月発行)より転載(一部加筆の上、画像資料を大幅追加)

【筆者紹介】
高田雅彦(たかだ まさひこ) 日本映画研究家。学校法人成城学園の元職員で、成城の街と日本映画に関する著作を多数執筆。『成城映画散歩』(白桃書房)、『三船敏郎、この10本』(同)、『山の手「成城」の社会史』(共著/青弓社)、『「七人の侍」ロケ地の謎を探る』(アルファベータブックス)の他、近著に『今だから!植木等』(同)がある。

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