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15年前に母校の後輩たちに向けて書いたこと


 僕は高等科が好きだった。個性的な先生方との日常生活(例えば,F先生の英語(選択)は英語(雑学)とかに名前を変えてもよかったのではないかと今でも思っている。山本五十六の名が出てきたり、パチンコやるなら天気とかのデータも取れというアドバイスをいただけたりする英語の授業もそうないだろう。そして、個人面談の時の、F先生の無意味に近距離な顔に圧倒され、多くの生徒が立ちくらみを起こしたことは言うまでもない)。そして、生徒の自主性を温かく支えてくれる環境、僕はその環境に身を委ね、思う存分、様々なことに挑戦させてもらったような気がする。テニス部主将、新聞部編集員、文化祭でコント、卒業アルバム制作、謝恩会でまたコントなど、まるで一貫性がないことを色々とやったが、おかげで自分の幅が広がったように思う。何事もやってみなければ自分の潜在能力・可能性、そして、自分の本当の気持ちはわからないのだから、「役に立たないことはするな。」と挑戦する前から大人に否定されることなく多感な時期を過ごせた意義はとてつもなく大きい。


 高等科卒業後、学習院大学の法学部法学科に進学したが、ほとんどのエネルギーを体育会の硬式庭球部での活動に注いだ。一つの目標に向かって仲間と共に努力したかけがえのない時間、目標を達成したときの充実感。それらは何にも置き換えることの出来ない大切なものである。学業の面では、3年から商法のゼミ、4年からもう一つ知的財産法のゼミと二つのゼミに所属していた。勉強をしていなかったわけではないが、ゼミの仲間と楽しく過ごしたことやゼミ合宿でどさくさにまぎれて先生を海に投げこんだことなどのほうが印象深い。勉学の重要性を軽んじるわけではないが、楽しむこと、人間関係から学ぶこと、何か一つのことに打ち込んで自らの意志で工夫を重ねていくこと、自分と向き合って自分自身を学ぶことに優る大事なことはなかったように思う。


 そして今、僕はカリフォルニアのとある大学院に在学している。なぜここに至ったかは非常に説明しがたい。気がついたら今ここにいるという感覚である。アメリカに来てから一年と二ヶ月が過ぎたが、自分の内面の変化は計り知れないものだったように思う。恵まれた境遇とはいえ、異文化の中で孤独を体験し自分と向き合うことは簡単なものではなかった。頭で知ることと、体験することとは大きく違うと思い知った。アメリカという国を体験し、アメリカという比較対象が生まれることによって自国を見る目が研ぎ澄まされた。比較の中で、両方の国のいいところも悪いところも前よりよく見えるようになった。しかし、違いに注目する時期を過ぎると、ある時に共通点というか普遍性に気がつくようになる。日本人だろうが、アメリカ人だろうが、ゲイだろうが、白人だろうが、黒人だろうが、障害者だろうが、同じ人間なのだ。当たり前なことなのだが、このことを理解することは感動的な体験であり、自分の中の何かを強く揺さぶった。


 話は変わるが、現在、若さを強調するメディアの影響も強く、老いるということは世の中で肯定的に捉えられてはいない。現代社会は、情報を重視していて、主に高齢者だけが持ちうる知恵をないがしろにしている。でも、それはすごく悲劇的なことだと思う。なぜなら、情報は劣化するのに対して、自分の体験を通して得た知恵は蓄積するからである。必ず老人が尊敬され、知恵がとてつもなく必要とされる危機の時代がやってくる。その危機の兆しはもういろんなところに現れている。例えば、現在、地球では毎秒、サッカー場一面分の緑が消失している。石油はもうすぐ足りなくなりはじめると言われている。僕らが死ぬまでは大丈夫だろうと無視できる規模ではないし、知恵を発揮して何かを変えていかなければならない。僕らが年を重ねて、予想される一番悲しい未来は、知恵が必要とされる時に自分たちが劣化していく情報だけをかき集めて、知恵を育んでこなかった事実に気がつく瞬間だろう。


 この問題を考える中で、最近、高等科の地理の授業で習った「Think globally, act locally」という言葉の本当の意味が分かってきたような気がする。一つにはただ自分勝手に生きるのではなく、周りの家族、友達、社会、そして、地球という大きな土壌に目を向けなければいけないということ。でも、もっと大事なのは、まず始めに耕すべき場所は自分の心という無限の土壌なのだと気づくことなのだと思う。まずは自分に本当の意味で優しくして、受けいれてあげなければならない。自分の心の土壌が肥沃であればあるほど、自然と周りの人や社会のことも豊かにすることが出来るのだから。そして、僕が敬愛する写真家の星野道夫さん(故人)の言葉にあるように「私たちが生きることができるのは、過去でも未来でもなく、ただ今しかないのだ。」ということが土壌を耕すうえで非常に大切になってくる。日本にいようが、海外にいようが、僕らは今に生きるしかないのである。その事実を理解することが、何をするにしても最初の一歩になるように思えてならない。


 これから、高等科に入学する皆さん、高等科生活でたくさんの種を自分の土壌に植えてあげてください。中にはうまく育たない種もあるかもしれません。でも、その育たずに腐ったその種と枯れた花は土壌の養分となり、また新たな種が育つのを助け、きれいな花が咲くチャンスを広げてくれることでしょう。時には春の陽気だけでなく、冬の寒さのような辛い時期も養分として必要なのかもしれません。きれいに咲いた花の華麗さだけでなく、いつか、土壌自体が美しいと気づくその日まで、努力という陽光と優しさという水を注いであげてください。


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