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「私たちの心が実現できると知っているもっと美しい世界」 科学 (第7章)

本の内容紹介、著者チャールズ・アイゼンシュタインについてと目次。

 何が”現実的”かについての私たちの理解には罠が忍ばされています。”現実的”には、私たちに手渡された古い世界の原因と結果の法則が含まれているのです。その法則によれば、私たちがすることは何でも、もっと美しい世界を創るために到底十分になることはなく、この古き世界のひどさをさらに改善することさえないのです。危機はあまりにも大きく、時の権力者はあまりにも強大で、あなたはただのちっぽけな個人です。私たちのシステムの中にいる最もパワフルな者たち、大統領やCEOたちさえも役割やジョブディスクリプションによって制約され、彼らより強大な力に翻弄されているように感じられるのです。

 その結果、遅かれ早かれ多くのアクティビストが絶望に立ち向かうことになるのも不思議ではありません。彼らはこう言うかもしれません、「若くて理想主義的だったときには、問題に取り組むのに無尽蔵のエネルギーを注いだんだよ、でも問題がいかに大きいのかということがそのうち分かったんだ、そして、いかに変化への抵抗がパワフルだってこともね。僕にはどうすることも出来ないんだってね。」つまり、彼らは現実的というカテゴリー内で努力したものの万策尽きたのです。

 そうなると、私たちの眼前にある問いは、大局で見たときに実用的なことが何も現実的ではなくなった時に、私たちはどうすればいいのかというものです。明らかに、私たちは自分たちの慣習的理解にとっては現実的ではない事をやらなければならないでしょう。

 ここが重要なポイントです:何が現実的かについての私たちの慣習的理解は、急速に時代遅れになってきている世界観や神話体系に根ざしています。さらに、その時代遅れになっている世界観こそがまさに私たちが変えようと努めている古い世界の下に横たわっているのです。つまり、文明の危機とその危機への絶望は共通する源を分かちあっているのです。

 分離の危機を解決するための分離のテクノロジーの無益さに気づいたときに私たちが直面する絶望は「分離の時代」の成就のしるしだとあなたは言うかもしれません。それはターニングポイントを知らせます:失意の内にあきらめた時に、新しい何かが得られるのです。古い物語がついにその語りの終わりに至ったのです、そして、新しい物語が浮かび上がるための空間が開いたのです。古い物語がまだ希望を携えている間には、これは起こらないことなのです。もし古い世界の”現実的”の何かがいまだ成功することへの希望を持ち合わせているのならば、それは古い物語がまだ生命力を持っていることを意味するのです。そうした理由でガイ・マクファーソンのような人たちの”極めて近い将来の絶滅”の議論には価値があるのです。それ自体の条件で反論の余地のないものは、「分離の物語」の内部で暗黙の可能性を秘めた狭い視野を内包している条件の中でのいかなる希望をも打ち消してしまうのです。


 ところで、私はそれがただ古い物語に属するからということで、古い物語の中で道理にかなっているすべてを放棄することを勧めているわけではありません。新しい物語は古きを否定せず、それを内部に含んだ上でその座を引き継ぐのです。私が言いたいのは、私たちが古い物語での現実的なことに留められているのならば、目の前にあるタスクはどうにもならないということなのですけどね。絶望状態の中にいたり、その状態の近くにいる人たちにとっては、世界を変えようとするいかなる努力も救いようがないほどにナイーブに映るのです。

 絶望の向こう側には広大な土地が存在しています、根本的に異なった原因と結果の理解を生み出す新しい物語の世界が。ですが、この新しい土地は反対側からは見えないのです、それを、その予兆を時折垣間見ることがあったとしても。その新しい世界のロジックの内部では、私たちの状況は希望なきものでは全くないのです。

 
 実用性、現実主義、因果関係に関する私たちの考えはどこから来ているのでしょうか?それらは物理学に根ざしています。それに由来する「分離の物語」とコントロールのためのプログラムは、その物語が次第にその効力を失っているからという理由だけではなくとも、重なる危機が世界を創出する神話への私たちの信頼を崩していっているからという理由だけではなくとも、個人的にも集合的にも崩壊していっているのです。これらすべてが起きているのと同時に、分離の科学的基盤もまた崩れ去っていっているのです。これらの深遠なパラダイムシフトは、自己や宇宙の本質についての、故に物事がどのように起こるのかについてと何が現実的かについての異なる理解を提示します。物理学、化学、心理学に関する最先端の発展は、私たちが社会的、経済的、政治的存在としてどのように行動するかにとって極めて重要です。それらの発展はただ興味深く物珍しいものではないのです。それどころか、これらの深きパラダイムシフトから変化が汲み出されない限り、世界を変化させようというムーブメントのどれもが到底成功することはないとまで言いたいところです。


 まず初めに、明確な配列のDNAと呼ばれる遺伝子はランダムな突然変異と自然淘汰によって進化してきたもので、これらの遺伝子は生命体が基本的に生殖のための自己利益を最大化するようにプログラムするものだと述べる新ダーウィン主義の通説内での崩壊です。現在ではこの説明が非常に狭い領域のみで成立するということが分かっています:マクロ進化はランダムな突然変異で起こるというよりはむしろ共生的な融合、外因性DNA配列の獲得、有機体による分断、接合、および自身のDNAの再結合によって起こるのです。それはまた細胞やエピジェネティックな遺伝によっても起こります。遺伝子レベルでいかなる利益をも最大化しようとする個別の分離した自己が欠いていることは「自己の物語」の主要なメタファーの基盤を否定するものです。遺伝的自己は流動的な境界を持つのです。それは他の有機体や環境とのDNAや情報の継続的な交換で生じているキメラ(訳注:キメラ とは、同一の個体内に異なる遺伝情報を持つ細胞が混じっている状態)なのです。自己に境界がないということではありません。これらの境界が変わりうるもので、自己の内側の境界もまた変わりうるということなのです。(注1)


 さらに、生態学の研究が種は自らの遺伝的自己利益を果たすために進化するだけではなく(これ自体、有機体が己れの再構築する時には定義しがたいものの)、他の種や全体のニーズに役立つためにもまた進化するのだと私たちに学ばせています。このことは、自然と親密で、それぞれの種がユニークで必要とされるギフトを持っていると知っていた文化にとっては驚くことではないでしょうが、科学はこのことをほんの一世代前に理解するようにになったのです:例えば、一つの種が絶滅することで生態系全体がより壊れやすくなるということの理解です。競争相手が不在になると、残ったものの暮らし向きが良くなるということではないのです。各々の利益が全体の利益なのです。

 「世界の古い物語」へのさらに深い異議申し立てとなっているのは、今では80年以上経ち、先行する世紀と我々の支配的な「世界の物語」の科学の仮説に全然馴染まなさすぎて、私たちがそれをひどく直感に反し”奇妙だ”と感じる物理学の量子的進化です。あらゆる種類の疑わしいアイデアや製品に科学的威信を吹き込むための”量子”という言葉の過剰な使用がその言葉を無意味なものにしているので、私はこの領域に思い切って足を踏み入れるのに躊躇しています。とはいえ、量子現象は私が記述してきた”実用的”の基盤を著しくかき乱しているので簡単な説明をします。本著作での主張の証拠としてではなく、むしろ神話的レベルで、直感やメタファーの源として量子力学を呼び覚ましていることをわかってください。


 前段で詳しく説明したように、ニュートン的宇宙の基本原則は原因なくしては物事は”ただ起こったり”しないということです。(あなたがそれを起こさなければならないのです。)しかし、量子の世界ではそんなことはないのです。影響する力の総体によって完全に決定されるというよりはむしろ、光子や陽子のような量子粒子はランダムに動くのです。総体として、量子の振る舞いの推定分布を計算するかもしれませんが、いずれの光子にとっても、すべての物理的影響の完全な説明ではその動きを予測するには不十分なのです。光子Aはスリットを通り抜けてここに到るかもしれません、光子Bはそちらに至るーなぜでしょうか?そうなのです、物理的現実についての私たちの説明の根幹には非因果性があるのです。いかなる力が物事を起こそうとすることなく物事は起こりうるのです。


 適度に単純化されましたが、上記の説明には議論の余地がありません。物理学は90年もの間、決定論を維持しようと試み失敗したのです。アインシュタインの有名な異議申し立て、「神は宇宙とサイコロを振らない」以来、状況は善くなっていないのです。非確定性を完全に取り除くことが出来ずに、物理学はそれを安全に小宇宙の中に埋めることで手を打たなければならなかったのでした:ランダムな量子的な振る舞いは、確定的なもの、人間の世界の因果関係のある振る舞いに近似するように集合体として合わされるのです。その世界では以前と同様に、ある力が原因とならなければ何も起こらないのです。

 もしある力で強く動かされないのであれば、なぜある光子はここに行き、もう一つはそちらに行くのでしょうか?ええと、もしある力で強く動かされないのであれば、あなたはなぜもう一つのことではなくてある一つのことをするのでしょうか?あなたは選んでいるのです、ですから明白な直感的な答えは光子がその行先を選んでいるのです。もちろん物理学は、笑えるを越えるほどに科学的思考の範囲の遥か外側にあるそのような答えを容認することはできません。覚えていますか?物理学は私たちの「人民の物語」の土台、何がリアルで、何が実践的で、どのように物事が動くかの土台に鎮座しているのです。その物理学が代わりに因果関係を犠牲にして、振る舞いは”ランダム”だと述べ、無意識の遺伝的構成要素の宇宙を保護しているのです。ですから実際、光子や電子のような控えめなものに選択の自由があるとすることは、私たちの宇宙が知的なものだと認めることになるのです。宇宙はもはやただの物の集まりではないのです。もはや私たちが、宇宙の領主や主人の役割の権利をいかにも傲慢な態度で不当に主張することは出来ないのです。我々の「人民の物語」の核となる計画は土台から揺さぶられているのです。

 ここで立ち止まって、地球にかつて住んでいたほとんどの人たちは、宇宙の隅々までに知性があることを信じることに何ら問題がなかったということに留意しましょう。 精霊信仰者や万有内在神論者ら前近代の人々は、すべての存在、植物や動物だけではなく石や雲でさえも意識を有するとしてきたのです。私たちの社会の幼い子供たちも同様にしています。私たちはそれを擬人とか投影と呼んで、子供たちや精霊信仰者たちよりも自分たちの方が分かっていると考え、現実には宇宙にほとんど生命がなく、意識のない場所だとみなしているのです。


 もしかすると、あなたは広がりを持つ創造力へのアクセスが光子さえも意識を持ち合わせているという提案を受け入れることに依拠していることを望んでいないのかもしれませんね。そうだとしたら、いいですよー私は強要しません。少なくともここは力が振る舞いの原因となる場所ではないのです。さらに、現代物理学は二つ目の、おそらく「分離の物語」へのさらに厳しいチャレンジを差し出しているのです:根本的な自他の区別の崩壊のことです。


 私たちは、空間と時間の客観的なデカルト的座標系を背景として存在が発生する宇宙に慣れているのです。もし何かが存在するならば、それは時間Tの時点で点X、Y、Zを占めており、この存在はあなたや私、あるいは宇宙の他の存在とは独立しています。量子の測定パラドックスやもつれを知っていたとしても、客観性の前提は私たちの認識に非常に深く織り込まれているので、それを否定することは馬鹿げているのです。あなたが選挙の結果が分かる前に床についたとしましょう。翌朝目覚めます。誰が勝ったでしょうか?あなたは結果をまだ知らないかもしれませんが、それがすでに決していて、あなたの認識とは独立して実際に存在しているということは否定しないでしょう。または、あなたが交通事故を調査しているとします。事故の当事者はそれぞれ何が起きたかについての異なった見解を持っているでしょう。彼らのストーリーから独立して、”実際に起きた”ことから成る現実があることをあなたは否定するでしょうか?(注2)

 もしも外側にある客観的な宇宙の中で独りぼっちの分離した自己という古い不正確な「存在の物語」が無力と絶望へのレシピだということが事実でなければ(事実なのです!)、私はこれらの存在論的な考察に全くふけっていなかったでしょう。世界から独立していて、私たちがすることは何も重要ではないのです。宇宙を構成する分離した自己と非人間的な力によるまとまりのない広大なごった返しの中で、事態の成り行きを変える私たちの能力は、私たちが集めることができる力の量次第なのだと。(もしくは発奮させる、他の人たちが耳を傾けさえすればですが。私たちから分離しているので、彼らの選択に私たちのコントロールは及びませんー耳を傾けさせない限り。私たちは再び力の行使に戻ってきたのです。)特に、この物語は、感情レベルでは大切だと体感し、私たちがそこで暮らしたいと思う性質の世界を特徴付けるほとんどの小さな個人の奉仕活動の価値を切り下げるのです。

 例えば、分離の世界では、もしあなたが世界を変えたい、地球の温暖化を止めたい、もしくは海亀を救いたいのであれば、ホスピスでボランティアしたり、迷った子犬を助けたり、ホームレスの人に食べ物を提供することは時間の無駄となるのです。どうせあの老婦人は死んでしまうんだから。彼女の死に際が少し楽になるとしてもそれがどうしたというのでしょうか?若者たちに生態系への意識を植え付けるための教育にその時間を費やすべきかもしれませんね。

 計算可能で測定可能な効果に基づいて意思決定を行うことは、それ自体が「分離の物語」の一部なのです。私たちはそれを道具主義(訳注:科学理論を、観察可能な現象を組織化・予測するための形式的な道具・装置であると見なす立場)と呼ぶかもしれませんが、それは私たちの因果関係の理解が完全であるという信念に基づいていますーつまり、最大効果がどれぐらいであるかを合理的な確実性をもって知ることができるということです。しかし、この確実性はますます正当性を欠くものとなってきています。量子的な不確定性を小宇宙へと追いやり、カオスによる秩序を伴う非線形力学の全体的な意義を無視し、知性があり相互につながりあっている宇宙を示すあらゆる現象を否定することで、科学はしばらくの間、自身を維持してきましたが、今日ではこの体系を保つことがますます難しくなってきています。

 
 たとえ意図された効果が何か高貴なものであったとしても、道具主義者の考え方は、「自己と世界についての異なる物語」の中でのみ意味をなす他の情報源からの知識とガイダンスから私たちを遠ざけます。そして、それは恐ろしい結果へと至るのです。私たちが「大義」のために誰を、あるいは何を犠牲にしなければならないのか、誰が知っているというのでしょうか?

 「1984年」の中で、党の役人オブライエンが、党を転覆させようとする革命的な兄弟同盟にウィンストンを勧誘するふりをしている場面で、この点を指摘しました:

「命を捧げる覚悟はできていますね?」
 「はい」
 「人を殺す覚悟はできていますね?」
 「はい」
 「罪の無い数百人もの人々を死に追いやるかもしれない破壊工作に加担することには?」
 「はい」
 「祖国を外国の勢力に売り渡すことは?」
 「はい」
 「不正や偽造、脅迫、子供たちの精神を堕落させる行為、依存性のある薬物を広めること、売春を広めること、性病を広めること……その他の党の力を削いで弱体化させる行為をおこなう覚悟はできていますね?」
 「はい」
 「たとえばもし子供の顔に硫酸を浴びせかけることがなんらかの形で私たちの利益になるとしたら……それをやる覚悟はできていますね?」
 「はい」
(注3)

 ウィンストンは実際、抽象的で到達不可能な目標を何がなんでも優先させるという点で、党と何ら変わらないのです。兄弟同盟が偽物、党によるでっち上げであることが重要なのです。それは党なのです。同様に、ただそれはより捉えにくいのですが、大義のために人間の価値観を犠牲にする社会や環境のための十字軍は、真の革命家なのでは決してなく、その反対なのです:システムの支柱となっているのです。環境保護団体でも左翼政治団体でも、他の場で目をするのと同様の部下いじめ、権力の掌握、自己中心的な対立を私たちは繰り返し目にしています。勝ち誇りたいとは思うのですが、これらのことが組織の中で展開されているのだとしたら、私たちが作る世界でこれらが展開されないことをどうやって望むことができるでしょうか?

 このことを認識しているいくつかのグループは、自分たちが社会にもたらすことを目指している平等主義的で包摂的な目標を組織内で実現しようと、グループのプロセスに多くの時間を割いています。危険の種は、グループが自分自身のことばかりになり、外側での目標を達成できなくなることです。多くの「ウォール街を占拠せよ」のグループはこの傾向を経験しました。それにもかかわらず、組織の新たな原則とコンセンサスを作り出そうとするこれらの努力は、内的なものと外的なものの一体性の認識が高まってきていることを示しているのです。それは、単に平等主義的であることや包摂的であることによって自分の美徳を行動で示すことではないのです。私たちが何者であるか、どのようにつながるかが、私たちが創り出すものに影響を与えるということなのです。


注1
私は『人類の上昇』の第7章で、これらの主張の科学的根拠を、広範な文献を用いて説明しています。An excellent source by a prominent academic biologist is Evolution: A View from the 21st Century (Upper Saddle River, NJ: FT Press, 2011), by James Shapiro. 

注2
この誌面で、現実の本質についての代替的な哲学的立場を確立しようとは考えていません。私はただ、私たちのデフォルトの信念が不正確であることを指摘したいだけなのです。その物語は私たちの言語そのものに浸透しているので、言語でそれを解きほどくことは不可能かもしれません。最後の一文を見てください。「...不可能かもしれません...」 ほら、私はその事に外側の事実があることをほのめかしているのですよ。「実際の」とか「現実」とか「ある」とかいう言葉でさえ、客観的な現実を暗号化しているのです。「客観的な現実がない」と言うのは、すでに存在することを前提としています(なぜならどの現実の中で、客観的な現実が存在したり、しなかったりするのでしょうか?)。

注3
ジョージ・オーウェル著「1984」(ニューヨーク:ペンギン, 1950)p.172

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