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「私たちの心が実現できると知っているもっと美しい世界」 力 (第6章)

本の内容紹介、著者チャールズ・アイゼンシュタインについてと目次。

 インタービーイングの状態はもろい状態です。それはナイーブな利他主義者、人を疑わずに愛する人、無防備に共有する人が抱えるもろさです。その状態に入っていくためには、皮肉な考え方、ジャッジメント、非難の壁にやって守られたコントロールをベースにした人生によるうわべだけの防護を後にしなければなりません。与えたのに、もし受け取れなかったとしたら?より大きな目的を信じることを選んで、思い違いをしていたとしたら?結局は、宇宙が非人間的な力のごった返しだったとしたら?心を開いて、世界に犯されたとしたら?大抵はこれらの恐怖が、古い物語が崩壊するまで誰も新しい物語に入っていかないことを確実にするのです。もろい状態とは私たちが成し遂げる何かなのではなく、私たちが生まれゆく何かなのです。

 私たちをとてつもなくもろくさせるそのインタービーイングの状態は同時にまた私たちをとてつもなくパワフルにします。これを覚えておいてください!実際、もろさとパワーは密接に関連しているのです。なぜなら分離した自己による防御の姿勢をリラックスさせることによってのみ、私たちはその自己の理解を超えたパワーを引き出すことが出来るからです。そのとき初めて、分離の自己にとっては不可能なことを成し遂げることが出来るのです。言い換えれば、どうやって実現させる ("make" happen) ことが出来るか分からないことを出来るようになるのです。

 何かを実現させることとはある種の力を使うことです。あなたにお金を頂戴と頼むことは出来ますが、どうやってそうさせる(make)ことができるでしょうか?ええ、もしあなたが弱々しければ、力づくでポケットに手を伸ばすように仕向けることが出来るでしょうね。もしくは銃をあなたの頭に突きつけることも出来ますねーあなたの生存を脅かすいかなるものもまた力の一つの表れなのです。生存への脅威は非常に捉えがたいものになり得ます。例えば、法的な力は究極的には身体的な力に依拠しています。もしあなたが法廷からの指示を無視すれば、遅かれ早かれ、手錠と銃を持った男があなたの家に現れるでしょう。同様に、経済的な力はお金から連想される快適さ、安心と生存に依拠しています。

 それから単なるメタファーを超えた心理的な力が存在しています。それはベーシックな安全性に関連するモチベーションの活用、特にグループや両親に受け入れてもらいたいという欲求のことです。心理的な力の活用についてのトレーニングは子供時代に両親による条件的な承認と拒絶によって始まりました。それはおそらくどんな幼い哺乳動物にとっても最も根底にある恐怖、母親に見捨てられることに近づくことでした。長すぎる時間独りにされた赤ちゃんの哺乳動物は母親を求めてはげしく泣きます、それが聞こえる範囲にいる捕食者を引き寄せながらーそれは母親からの離別というある種の死よりは望ましいリスクなのです。その極度の恐怖に向き合うこととは頭に突きつけられた銃に等しいことです。現代の子育ての実践のほとんどはその恐怖を活用します:非難的な「よくもそんなことができたわね?」「あなた何考えてるの?」「何を考えていたんだ?」そして、より悪意のある、巧みにあなたを操ろうとするフレーズである「私が認めることさえやっていれば受け入れてあげるわ。」です。「良い子」になるべく努力することを私たちは学ぶのです。ここでの「良い」という言葉の意味はお母さんかお父さんが受け入れるあなたのことです。最終的に私たちはその親からの拒絶を自己拒絶として自身の内に取り入れるのですー罪の意識と恥の気持ちーそして、私たちはその親による条件的な受容を条件的な自己受容として自身の内に取り入れるのです。その受容を自分に与えることで深い満足を感じられて、それを否定することは非常に不快なのです。その満足の感覚が、「良い」という言葉が意味することの核となるものです。これには探求する価値があります:繰り返してみてください、「私は良い。良い子です。私は良い人です。人々の中には悪い人もいますが、それは私ではありませんー私は良い人です。」これらの言葉を自分の内側で真剣にじっくり考えてみると、それらの言葉が呼び起こす満足感にはとても子供じみた何かがあることに気づくかもしれません。

 条件的な自己承認と自己拒絶は自分をコントロールするパワフルな仕組みです:それは自分に対しての心理的な力の活用です。私たちはその仕組みに慣れてしまっています。それはおそらく私が「分離の習性」と呼ぶものの最も基礎的なこととなっているのです。大いに慣れてしまって、善悪の決定者、承認の授与者または抑制者である親の役割に取って変わり得るいかなる権威者や政府からもまた影響を受けやすいのです。

 同様の慣れは私たちの他の人たちや世界を変えようとする試みにも影響を与えます。私たちは「あなたは問題の一部ですか、解決の一部ですか?」といったスローガンで罪の意識をかき立てます。私たちが皆、西洋文明による帝国主義の悪化、生態系の破壊、文化の破壊、それからジェノサイドの共犯であることを布告するのです。変えたいと願っている行動をする人たちの虚栄心を巧みに操ろうとするのです:もしあなたがXをすれば、あなたは良い人間なのですよと。

  私たちは政治家や企業に対してもいつも力を活用しています。それは公衆の晒し者にするぞという脅しや公の場で称賛されることとポジティブなイメージへのインセンティブかもしれません。それは訴訟やリコールキャンペーンという脅しかもしれません。「環境的に責任ある実践をするんだ、なぜならそれが最終的にはおまえの純益を引き上げることになるからだ。」

 これらの戦術を私たちが行使している時に、どのような世界観、どのような物語を強化しているでしょうか?これらの戦術はこう言っているようです、「あなたのことを知っていますよ。あなたは合理的自己利益または遺伝的自己利益を冷酷に最大化したい人なのですよね。」それを仮定として、私たちはその私欲を活用しようとしているのです。それを他の人たちに強いて、私たち自身にも強いているのです。

 これは称賛や非承認を差し控えるべきだとか、他の人たちの意見の影響から自分自身を解放するために努力するべきだと言っているわけではありません。(すべてのものとつながりあっている)インタービーイングの存在として、私たちが世界に注ぎ込んだことを世界は映し返すのです。私たちを動かす勇敢な決断を褒め称えることや有害な決定に対する怒りや深い悲しみは何ら間違ったことではありません。力の世界観から取り出された人を操ろうとする意図で、それらが使われた時にそれは過ちとなるのです。

 様々な力の習慣的な活用は深い根っこからもたらされているものです。時代遅れとなっていますが、今日でも家父長制の視点をいまだに生成する科学のパラダイムの中では、力を行使しないと宇宙の中では何もが決して変化しません。従って、パワーによる物質的な現実の支配は、力をより多くかき集めることができる者とどこにその力を行使すべきかについてのより完全で正確な情報を集めることができる者に与えられるのです。この理由から権力に執着する人たちは情報の流れをコントロールすることに固執していることが多いのです。

 それ自身の知性や意志を欠いている宇宙では、物事は決して”ただ起こったり”しません。何かがそれらを起こそうとした時にのみ物事は起こるのです。ここでの”起こすこと”とは力を意味しているのです。より一層の力を利用して、さらなる正確性でその力を用い、この宇宙から私たちは奪い、その中で私たちはコントロールし、そしてその上で私たちによる設計を考案しなければならないのです、究極的にはデカルト的な支配者と自然の所有者となるために。

 私たちの文明の劣化の底流にあるメンタリティのほとんどに、いかに”実用的”という言葉が密輸入されているか分かりますか?

 「分離の時代」の信念体系の内部からオペレーションすることで、私たちはさらなる分離しか創り出せないと思いませんか?

 コントロールは己の必需品を産み出します。そういうわけで、私たちが大量の農薬で土地を扱った時に、新しくより大量の農薬を必要とする強力な農薬や強力な虫が出現するのです。誰かがダイエットを始めて、自身の食欲をコントロールしようとした時に、抑えつけられていた欲望がある時に暴食として外側に向かって爆発し、自身をコントロールする試みをさらに奨励するのです。そして動けない状態にされ、監視され、スケジュール管理され、割り当てられ、分類され、強制されると、人間はあらゆる手段で反抗します、時には分別がない形で、もしくは暴力的にさえも。ああ、私たちはこれらの人間たちをコントロールしなくてはならない、と考えるのです。中毒と同様に、これらのエスカレートするコントロールへの試みは、いずれすべての有効な資源を使い切るのです、それが私的なものであっても、社会のものであっても、惑星のものであったとしても。行き着くところは、コントロールのテクノロジーでは先延ばしには出来ても決して解決することが出来ない危機です。そして、各先延ばしはまだ存在している資源をさらに枯渇させるだけなのです。

 以前のようには”現実的”が機能していないのは明らかです。かつて現実的であったことが私たちのニーズには不十分であるだけではなく、それの故郷の地においてもますます無力になってきています:現実的であることがもはや現実的ではないのです。好む好まざるに関わらず、私たちは新しい世界へと生まれようとしているのです。

 この本はコントロールに基づいた思考への降伏の呼びかけです、そうすることで私たちの力のキャパシティを遥かに超えたことを成し遂げることが出来るのです。それは原因と結果についての根本的に異なった理解、そしてだからこそ何が現実的かについての根本的に異なった着想への招待状です。それに従って行動すると、古いパラダイムの中で活動している人たちにとっては、狂っているように映ります:ナイーブで、常識に反していて、無責任だと。その通りです、これらの行動は古い物語を住処としている私たちの一部にもそう思えます、そして、その部分が私の中で生きているようにあなたの中でも生きているのでしょう。批判的で、軽蔑的で、疑い深く、当て付けがましいその声に聞き覚えがあるかもしれません。その声はコントロールの及んでいる小さなバブルの中で、私たちが小さなままで、安全に留まり、守られていることを望むのです。私のここでの目的はその声と戦うことや一掃することをあなたに促すことではなく、それがすでにその力を失いつつあるということにただ気づいていただくことなのです。

 このいずれもが私たちが決して力を使うべきではないとか、両親、年長者、グループからの受容を勝ち取ることに依拠する文化的適応のすべての形を放棄すべきだということをほのめかしているわけではありません。それらはヒューマンドラマの大事な一部であり続けるでしょう。しかし、私たちの深部まで達するイデオロギーは変化を生み出す他のやり方を見えなくさせていたのです。この本では力(と理性、線形思考、など)のそれにふさわしい領域への回帰を探究していきます。


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