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「私たちの心が実現できると知っているもっと美しい世界」 気候 (第8章)

本の内容紹介、著者チャールズ・アイゼンシュタインについてと目次。

 では、「確かに、包括性、無意識の人種差別や階級差別を暴くこと、脇に追いやられている人たちに発言の場を与えること、非暴力コミュニケーション、深い傾聴のスキルなどは、すべて価値のある目標ですが、ここで私たちは種の生存について話しているのです。私たちは、必要な手段を講じてCO2の削減を達成する必要があります。これらの他の事柄は後回しになります。現在の規定路線となっている6度または8度の温度上昇を止めなければ、どれも大した問題ではないのですから。ですので、これらのことや他のほとんどの社会問題に自分自身を捧げることは少し勝手気ままですよね。」と言っている気候変動活動家はどうなるのでしょうか?


 自明ではないかもしれませんが、この見解は宇宙が多数の独立した現象から構成されているというまた別のバージョンの「分離の物語」に合致しているのです。その中では、環境分野のリーダーによる家族のネグレクトや最低賃金の清掃サービスと契約したりすることは、地球規模の気候変動とは何の関係もないとされています。量子力学は、自己と他者、客体と宇宙、観察者と観測物の区別を崩壊させ、現実がどのように機能するかについての新しい直感を私たちに提供しています。それがあなたの信念や関係を変えることによって、気候変動が改善するということを「証明している」とは私は言いません。量子力学は、それでも、すべての行動には宇宙の意思があることを意味する相互関連性の原理を示唆しています。しかし、量子力学でその原理を解明しなくても、気候変動の真の原因は何かと問うだけで、この原理にたどり着くことができます。CO2排出や他の温室効果ガスでしょうか?そうだとすると、それらの原因は何なのでしょうか?消費主義、テクノロジーの傲慢さ、金融システムに組み込まれた成長の責務などでしょうか。それではそれらの原因は何でしょうか?結局のところ、それは、世界を統治しているイデオロギー、私が「分離の物語」と呼んでいる私たちの文明を特徴付けている神話なのです。


 二酸化炭素の排出量は、それを促進する他のすべてが同様に変わらない限り、変わらないでしょう。1992年のリオ気候協定の救いようのない失敗が示すように、単に二酸化炭素削減を求めることでは十分ではないのです。世界はCO2排出の制限することを厳かに宣言しましたが、その後の20年間でCO2排出量は50%増加したのです。CO2排出量の増加は、「分離の物語」の他のあらゆる側面と切り離すことが出来ません。したがって、これらの側面のいずれかに対処する行動は、気候変動にも対処することになるのです。


 時に、気候変動を最終的には暗示するつながりの網が、因果関係という私たちの普段のレンズを通して見えることもあります。大麻の合法化を大義としている人たちは、技術集約的、エネルギー集約的、化学物質集約的な医薬品よりも植物薬の生態学的な利点を指摘したり、工業用大麻のバイオ燃料としての可能性を指摘したり、大麻を吸うことが「機械」に完全に参加している一部の人々の意欲を弱める様を指摘したりすることが出来るでしょう。他の領域での活動においては、気候変動との因果関係は見えづらいのです。結婚の平等はどうでしょうか?人身売買の終結は?ホームレスにシェルターを提供することは?分離した自己による因果関係の理解では、これらがどのように関連しているかを見るのは難しいのです。


 「どういう種類の人間が政治的に消極的で、恐怖と憎しみから投票し、終わることのない物質的な獲得を追い求め、変化をじっと見つめることを恐れているのでしょう?」と問いかけてみます。私たちの支配的な世界観には、これらの行動がすべて書き込まれており、それゆえに、その世界観から生じる制度にも書き込まれています。自然から切り離され、コミュニティから切り離され、経済的に不安で、自分自身の身体から遠ざけられ、飢餓感に浸されて、失ってしまった存在しているという状態に絶えず飢えている小さな分離した自己の中に閉じ込められ、私たちには気候変動を引き起こす行動やシステムを永続させることしか出来ないのです。この問題への私たちの応答は、私たちがスピリチュアリティと呼ぶかもしれないこの基礎的なレベルに触れなければならないのです。


 ここに私たちの集合的な病いの根源があり、その中でも地球温暖化は症状を伴う発熱に過ぎないのです。その症状の最も直接的な原因にのみ対処し、より深い原因を手つかずのままにしておくような対策には用心しましょう。すでに一部の人たちは、気候変動を改善するという(偽りの)根拠に基づいて、フラッキング、原子力発電、その他の生態学的に破壊的な活動を正当化しようとしています。テクノロジーの信奉者たちは、成層圏に硫酸を撒き散らしたり、海洋に鉄分を撒いたりするような大規模な地球工学的な計画や途方もない意図しない結果を招くかもしれない行動を提案しており、それは私たちの生態学的な苦境の根底にある自然を管理し、コントロールするというのと同じ考え方の延長線上にあるのです。


 この理由から、私はCO2やその他の温室効果ガスの排出量を減らすことが環境上の最優先事項であるという、地球温暖化に関する従来のナラティブの考え方には少々気をつけているのです。この物語は、中央集権的な解決策や数字を最大化する(あるいは最小化する)という考え方に合わせがちです。それは、より美しい世界を創り出すために私たちが成すべきすべての小さなローカルでのことを、他の何をも犠牲にすべきだという一つの大義の中に収めてしまうのです。これは戦争のメンタリティであり、その中では、極めて重要な目標がそれへの手段についてのいかなる良心の呵責を凌ぎ、いかなる犠牲をも正当化するのです。この思考に社会としての私たちは病みつきになっているのです。だからこそ、対テロ戦争が冷戦に取って代わりましたし、もし気候変動が戦いを始める正当な理由としての人気を失ったとしても、戦争のメンタリティを正当化するために、地球に小惑星が衝突する脅威だどの、それに取って代わる他の何かを必ず見つけるでしょう。


 「勝利」のためにあらゆるものの犠牲を正当化し、強いる戦争のメンタリティはまた高利貸しのメンタリティでもあるのです。私が「聖なる経済学」で描写しているように、有利子負債に基づいている私たちのような通貨制度は、お金の領域での無限の成長と多様なものの一者の神への変換、価値の多様性を価値と呼ばれる単一の分量への変換を促すのです。社会がますますマネタイズされていくにつれて、その構成員は、お金があらゆるニーズや欲求を満たす鍵であるということを受け入れるようになるのです。共通の手段であるお金が、それゆえに万人に共通の目標にもなるのです。テクノロジーユートピアの楽園や、悪に対する戦争での究極の勝利と同様に、お金は犠牲への飽くなき要求を持つ神となるのです。お金の追求は、人生を真に豊かにしながらも数値では測れない小さな数量化できない行動や関係性を埋没させるのです。お金がゴールとなると、その言葉に変換できないものはすべて締め出されてしまうのです。


 もちろん、同じことが戦争でも、壮大な単一目標にむけたあらゆるキャンペーンでも起こるのです。あなたが世界を救おうとする活動家になったことがあるのであれば、人生を豊かにする小さきことがいかに優先順位を下げられ、締め出されていくかに気づいたかもしれません。あなたは、「私はここでどんな革命を扇動しているのだろうか?私はどのような人生の経験をお手本として掲げているのだろうか?」と疑問に思ったかもしれません。これらは重要な問いなのです。直感が私たちに告げるように、私たちが今日直面している危機が最深部までずっと及んでいるのであれば、これらの問いを無視できるわけがないのです。


 森林破壊、富栄養化、漁業の減少、放射性廃棄物、原子力事故、湿地帯の破壊、遺伝子汚染、有害廃棄物、薬物汚染、電磁気的汚染、様々な生息地の破壊、土壌侵食、種の絶滅、帯水層や淡水の枯渇と汚染、生物多様性の喪失など、気候変動の問題が他の重要な環境問題を覆い隠してしまう危険性があります。CO2排出量を削減するために私たちがすべきことの中には、これらの問題を和らげるものもありますが、これらが無関係のように見える場合もあります。例えば、もしサンゴ礁の健康、あるいはたった一つの池の健康が、気候変動による文明の将来に関与していないのであれば、私たちはそれを気にすべきではないのでしょうか?温室効果ガスの排出量にフォーカスすることは、数量化できるものを際立たさせる一方で、クオリティーに関わるもの、神聖と言ってもいいかもしれないことを目に見えなくさせてしまうのです。環境保護主義は数字のゲームに還元されています。社会としての私たちはそれで安心ですが、私たちが創り出さなければならないシフトはもっと深いところにあると思うのです。私たちは、”この”森、”この”山、”この”川、”この”小さな土地と、直接的な、思いやりのある、官能的な関係を築く必要があり、秘めた目的なくそれら自身のためにそれらを守る必要があるのです。温室効果ガスの危険性を否定するわけではありませんが、突き詰めていくと、私たちの救いは、目の前に生きているものとの直接的な関係を取り戻すことにあるのです。

 フラッキング、タールサンドの採掘、マウンテントップリムーバルに反対する理由として温室効果ガスを引き合いに出すとき、私たちはその直接的な関係を暗黙のうちに切り捨てているのです。グローバルで抽象的なもののために、ローカルで具体的なものを犠牲にするというメンタリティに私たちは従っているのです。それは非常に危険です。数字は巧みにごまかされることがあり、データは誤解されることがあります。例えば、気候変動懐疑論者の人たちは、1997年以降、大気の温度は安定していると指摘します(しかし、海洋はどうなのでしょうか?)。温度はすぐに再び上昇するでしょう。が、しかし、森林や海洋の中の主要な恒常性制御システムが劣化すると同時に、大気組成がかつてない速さで変化している中で、継続的な温暖化ではなく、ますます猛烈に乱高下する気候に私たちが直面しているならばどうでしょうか?あるいは、何らかの地球工学的な構想がCO2レベルを低下させたとしたら、もしくはそうすることが約束されたとしたらどうでしょうか?そうなれば、フラッキングや掘削に反対する人たちは主張する根拠を失ってしまうのです。だからこそ、気候変動に対処するためのシステムレベルの対策(例えば、炭素燃料の有料化と配当金制度)に加えて、私たちは真実への愛、そして、地元の特有でかけがえのない土地と水への愛に直接訴えかける必要があるのです。どんなに多くのデータも、樹木が伐採された一つの区域を曖昧にすることはできません。それは「樹木が伐採された総エーカー」を曖昧にはしますが、”この”伐採された区域を曖昧にすることはできないのです。データ以外の何かに基づいた環境保護活動を行う必要があるのです。

 従来の気候変動の話に懐疑的な私は、気候変動懐疑論にはさらに懐疑的です。懐疑論者の多くは、地球は私たちがする何にも耐えられるというほぼ同一の軽率な自信であらゆる環境問題を否定しているように映ります。気候変動の核心は、私たちの文明にとって比較的新しい重要な認識から来ています。私たちが自然から切り離されているわけではないということ、私たちが世界にしていることは私たち自身にしているということ、私たちはガイアのダイナミックなバランスの一部であり、地球上のすべての生命のコミュニティの責任あるメンバーとして行動しなければならないということ。気候変動に懐疑的な人たちの多くは、私たちが地球の一部としてではなく、地球の上で生活していた、もっとシンプルな時代に憧れているようです。


 「インタービーイングの物語」の中では、私たち自身の社会と集合的な心理状態におけるあらゆる不均衡が、ガイアのプロセスに似たような不均衡として映し出されることを予期するべきです。CO2やその他の温室効果ガスは、確かに気候の不安定化に寄与しています。しかし、それよりさらに危険なのは森林伐採なのです。なぜなら、森林は惑星の恒常性を維持する上で極めて重要だからです(炭素吸収源としてだけではなく、様々な点において)(注1)。健全な森林があれば、地球の回復力は格段に高まります。森林は単なる木の集まりではなく、すべての種がその健全性に貢献している複雑な生き物なのです。これは生物多様性が気候調節のもう一つの要因であることを意味しています。樹木伐採はさておき、次から次へと世界中の木々の種が減少していることは科学者にとって謎多きことです。それぞれのケースで、異なる最も疑われる犯人がいるようですーカブトムシ、菌類などです。ですが、なぜこれらの樹木は影響を受けやすくなってしまったのでしょうか?浸出した酸性雨が土壌のケイ酸塩からアルミニウムを取り除いているのでしょうか?地上のオゾンが葉にダメージを与えているのでしょうか?他の場所での森林伐採によって起こされた干ばつストレス?気候変動による熱性ストレス?捕食動物駆除によって生じたシカの個体数増加による低木層の被害?特定の鳥類減少による昆虫個体数の急増?


 それとも上記のすべてなのでしょうか?おそらく、森林の減少と気候の不安定化を引き起こすこれらのベクトルの下には、避けることのできないより一般的な原理があるのでしょう。私が挙げたことはすべて、私たち自身の社会の中でのある種の錯乱に由来しています。すべては自然とお互いから切り離されているという知覚に由来しており、それを元に貨幣、テクノロジー、産業などのすべてのシステムが築かれているのです。これらの事業はそれぞれ、私たち自身の精神にも投影されています。支配のイデオロギーは、「原因」を特定することさえできれば、気候変動はコントロールできると言います。それはいいですが、原因がすべてだとしたらどうなるのでしょうか?経済、政治、排出量、農業、医療...宗教、心理学、それを通じて私たちが世界を理解する基本的な物語に至るまでのすべてが原因だとしたら?その時、私たちはコントロールの無益さと変容の必要性に直面するのです。


 極端なインタービーイングの議論をさせてください。気候変動懐疑論者たちが、気候の変動を太陽のせいにすることがよくありますが、太陽はもちろん人間の活動によって影響を受けることはありませんよね?まあ、私はほとんどの前近代の人々は、太陽が人間の活動に影響されていないということには同意しないでしょうということに思いきって賭けてみたいですが。彼らの多くは、太陽が輝き続けるようにと、太陽に感謝を捧げ、なだめるために儀式を行っていたのです。私たちが知らない何かを彼らは知っていたのでしょうか?それは太陽が、人類が地球にしでかしている恩知らずや暴力からの痛みによって後ずさりしているということなのでしょうか?それは必然的に我々自身の錯乱を映し出そうとするのではないでしょうか?


 そうです、友よ、私たちが取り掛かろうとしている概念の革命は、このように深いものなのです。自然の心を再発見し、私たちの原初のアニミズムと、それが知覚していた魂のある宇宙へと回帰する必要があるのです。自然、地球、太陽、土、水、山、岩、木々、空気を、それらの運命が私たちの運命と分離していない、感覚のある生物として理解する必要があるのです。私が知っている限り、地球上の先住民族で、岩が何らかの意識や知性を持っていることを否定する人はいません。違ったように考える私たちは何者なのでしょうか?近代の科学的見解の結果は、このような途方もない厚かましさを正当化するほどに深い感銘を与えるものなのでしょうか?彼らのよりも美しい社会を私たちは創ったのでしょうか?事実、量子粒子の例が示すように、科学はついにアニミズムへと回帰しつつあります。確かに、知性ある宇宙を容認する科学のパラダイムは今日ほとんど異端ですが、徐々に主流に近づきつつあります。水を例として挙げてみましょう。ホメオパシー、人智学、江本勝や才気溢れたヴィクトル・シャウベルガーのような重要視されていない人物たちによる研究の影から出現した、水自体が生きている、あるいは、少なくとも水が構造と個性を持つという考えは、ジェラルド・ポラックのような主流の科学者たちによって現在では研究されています。すべての物質には感覚があるというような事が、科学によって受け入れられるか、あるいは明確化されることができるようになるまでには、まだ長い道のりがあります。しかし、マウンテントップ除去による採掘や、フラッキング液によって帯水層を汚染することについてじっと考えた時に、その信念が何を意味するかを想像してみてください。


 温室効果ガス、森林破壊、太陽の変動など、どのようなメカニズムであれ、気候変動は私たちに重要なメッセージを送っています。私たちと地球は一心同体なのです。上なる如く、下もまた然り。私たちがお互いに対してしていることは、それが最も小さな動植物であっても、すべての創造物に対してしていることなのです。私たちの目に見えない小さな行為が、私たちが理解できないようなやり方で世界に影響を与えているのかもしれません。


1. 同様のことが海洋にも言えますが、乱獲、富栄養化(肥料や下水による)、その他の汚染などが海の気候調節機能を損なう可能性があります。CO2による酸性化もまた、この問題に寄与しているかもしれません。


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